おはようございます。
相変わらず術後疼痛は
時に僕の思考や時間ややる気を邪魔してくれていますが
なんだかんだでまだ息が出来ています。
同じ病で有名人が亡くなった報道には
やはりショックは隠せませんが
優しいカミさんはその話題はスルーしてくれてます。
さて今朝はかなり気持ちが穏やかで
夢うつつで降りてきた思考について
色褪せない内にブログに書いてしまおうと思いました。
ひとつは
「癒しよりも赦しを」
というお題です。
僕は長い間、自分の今の境遇への不満や現在の情勢への憤懣から、片時癒されたいと考えていました。
凡そ過去から現在に至る経過の中で
「あの時ああすりゃ良かった」
などという後悔が付き纏いネガティヴな思念に包まれることが多かったので
必ずと言っていいほど「癒し」という「痛み止め」ばかり求めていました。
しかし今朝降りた思念に依れば一時的な痛み止めよりも
もっと根本的に見直して「赦す」自分を実感するのが、より良い選択肢ではないかという気づきを得たのです。
過去の瑕疵を含めて、それがあればこそ今の命に繋がっているということに満足する。
ならば、過去の出来事は全て満点の評価であり、賞賛に匹敵するというもの。
今息をしているという最良の現実に安堵するならば、もはや癒しは無用である。
過去から現在に至る経過の全てを真っ向から受け入れて優しく赦すこと(心から容認する)で
今を生きていることを悦べる。
阿弥陀如来の本願が、あらゆる人々の救済であるならば
今を生きて自分の過去を赦すことが、その本願を成就させることなのかもしれないなと。
上手く言えないけれど、あまり神経質な反芻を重ねるよりも、もっと楽しい生き方をしようと思います。
即ち、胸に巣食う慢性的な疼痛は、単体の「苦痛」ではなく、何千何万もある快や安楽の中にあるスパイスのようなものと考えれば
「だから楽しみが際立つのか」
そう、ちょうどぜんざいに塩を入れるようなものだなと
不思議に思える朝でした。
少しだけですが阿弥陀如来の大悲や本願に応えが見つかった気分がして、有り難い思念でいっぱいでした。
日頃から決して信心深い訳ではないけれど、何故か心安らぐ阿弥陀さまの絵を描いて毎日眺めていると、偶にはこんなに爽やかに落ち着く朝もあることに
ただ感謝します。