じぶんは

なんのために

生まれてきたんだろう…

 

 

なんのために

生きているんだろう…

 

 

以前の私は

心にちょっとでも

スキマ時間ができると

 

無意識にいつも

そんなことばかり考えていた

ような気がします。

 

 

 

その答えを見つけるために

彷徨ってきたというか

 

いろんなことをやったり

学んだりしてきたけど

 

これがまあ

なっかなか見つかりませんでした笑い泣き

 

 

 

 

でも、

さんざん彷徨った末にわかったのは

 

本当に心が満たされて

幸せに生きている人は

 

そもそも

「生きる意味」や

「生きている理由」なんて

うだうだ考えたりはしないのだということ。

 

 

 

親や周囲から望まれて生まれ

 

価値があるとかないとか

何かができるとかできないとか

役に立つとか立たないとか

 

そういうこととは関係なく

 

 

じぶんという「存在」そのものを

当たり前のように肯定されて

 

安心感の中で生きて来たなら

 

 

じぶんが生きるための意味や

存在するための理由を

探す必要なんてないですものね。

 

 

花は咲くべき場所で

咲くべき季節が来たら勝手に咲くしニコニコ

 

 

草だってそこに生える理由や

意味なんて考えない(笑)

 

 

 

「なんのために

 生きてるんだろう…」

 

と人生に意味を求めたり

無意識に答えを探している人は

 

たぶん、子どもの頃に

満たされなかった「何か」を抱え

 

癒されないまま

大人になった人なのでは

ないでしょうか。

 

 

 

満たされなかった場所には

ぽっかりと空洞ができます。

 

 

空洞を抱えたまま生きるのは

本当に苦しいです。

 

 

 

「なんのために生きているのか」

とじぶんに問いかけ

 

生きる意味を探すという行為は

 

この空洞を何とか埋めようとする

無意識の作業であり

 

高度な精神性をもつ

人間ならではの

(苦しみに対する)防衛反応

なのかもしれないな…と。

 

 

 

なぜなら、こんな私でも

 

本当に欲しいものが満たされ

幸せだと感じられる時や

 

何か夢中になれている時には

 

「なんのために生きてるんだろう」

なんて1ミリも考えないからです飛び出すハート

 

 

以前に比べれば

人生の意味を問う作業を

無意識にしていることも

ずいぶん減ったような気がします。

 

 

時間をかけて

じぶんの内側の空洞や傷と

向き合い続けて

 

田舎の古民家で

移ろいゆく自然とともに

ゆったり過ごすことも増えて

 

少しずつだけど

空洞が埋まったり

傷が癒されたりして

きているからかもしれません。

 

 

 

これから先

心の空洞がぜんぶ埋まって

満たされたら

 

じぶんの存在の意味など

考えることもなく

 

今ここにいることが

空気のように当たり前に

なる日が来るのかしら?

 

と思ったりするのですが

 

 

一方で

 

埋まらない空洞を抱えて

人生の意味を問い続ける

ちょっとめんどくさい自分こそが

 

本来の「わたし」なのかも

と思ったりもして爆  笑

 

 

 

やわらかな新緑が美しい季節。

 

 

「人生の意味」なんてウダウダ

考えているヒマがあったら

 

外に出て心地よい風に

吹かれた方がいいかもしれませんねウインク