ことのは学舎通信 ---朝霞台の小さな国語教室から---

ことのは学舎通信 ---朝霞台の小さな国語教室から---

考える力・伝える力を育てる国語教室 ことのは学舎 の教室から、授業の様子、日々考えたこと、感じたことなどをつづっていきます。読んで下さる保護者の方に、お子様の国語力向上の助けとなる情報をご提供できたらと思っております。

 前回のこのブログで、ことのは学舎の生徒の中村健吾くん俳句を紹介した。

 朝日小学生新聞の22日(月)の「はじめて俳句 五・七・五」入選作である。

 

秋晴れにしずかに読書鳥が鳴く   中村健吾

 

 秋晴れの穏やかな日に静かに本を読んでいたら、外から鳥の声が聞こえた、という、素敵な光景である。

 

 最近わたしは、鳥の声を聞いていない。

 鳥が鳴いていないのではない。

 鳥の声に耳を傾ける心の余裕がないのである。

 風の音鳥の声に鈍感になっている。

 よくないことである。

 

 21日(日)の朝日歌壇川野里子氏選第9席に、この歌が入選していた。

 

わたしいま聖徳太子モズ、メジロ、ヤマガラ、コゲラ、ヒヨ、 ジョウビタキ……         (松阪市 こやまはつみ)

 

 周囲で色々な鳥が鳴いている。

 こやまはつみさんは、そのひとつひとつを、モズ、メジロ、……と聞き分けている。

 「わたしいま聖徳太子」という比喩がおもしろい。

 わたしは、こやまはつみさんが並べ挙げている鳥の声のひとつも聞き分けられない。

 たまに聞き慣れない鳥の声を耳にすると、YouTubeの動画で調べたりする。

 無風流だと思う。

 YouTubeには、風流で親切心のある愛鳥家の方が作成した、鳥の鳴き声を紹介する動画がいくつかある。

 それらの動画でその姿と鳴き声を確認するのだが、すぐに忘れてしまい、判別できなくなる。

 わたしが聞き分けることができるのは、スズメとハトとニワトリとカラスくらいである。

 聖徳太子とまではいかなくても、鳴き声を聞いて鳥の姿を思い浮かべられるようになりたいものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 22日(月)の朝日小学生新聞の俳句欄「はじめて俳句 五・七・五」に、ことのは学舎の生徒の作品が入選していた。

 

秋晴れにしずかに読書鳥が鳴く  中村健吾

 

 選者の塩見恵介氏は、このように評している。

 

 最後の「鳥が鳴く」が抜群にいい。静かな屋内の、明るい窓際にいすを寄せて、読書の合間に戸外の鳥の声を聞く。すてきな一日だ。

 

 わたしも、この句を見たときに「鳥が鳴く」に感心した。

 この句で、視界がパッと開ける感じがする。

 この下五を読んで、すぐに葉書を渡して投稿させた。

 

 作者の中村健吾くんは、小学4年生である。

 最近俳句にハマっており、お母さんに「こども歳時記」を買ってもらって、いつも持ち歩いている。

 これからもますます、良い句を作ってくれそうである。

 ゆくゆくは、朝日俳壇に入選するレベルになってくれることを期待している。

 

 同じ「はじめて俳句」に、わたしの心に残る作品がもうひとつあった。

 

パパうえたたねなしがきにたねあるやん  原田笑聞

 

 作者は、兵庫県姫路市の小学1年生である。

 

 この句は、下五の「たねあるやん」が抜群におもしろい。

 最後の「やん」が、すばらしい。

 これがもし「たねがある」だったら、この面白味は出ない。

 「たねあるよ」では、小学生の陳腐な俳句である。

 字余りでも、「たねあるやん」と、関西弁の話し言葉をそのまま使ったことで、愉快な関西の親子のコミュニケーションのおかしみが伝わってくる。

 関西弁にしかなし得ないワザである。

 

 作者の名前の「笑聞」は、「えもん」と読むのだろうか。

 笑いを大切にする関西人らしい名づけである。

 キラキラネームとは一味違う、関西の人のこういう感覚がわたしは好きだ。

 笑聞くんは、ニコニコと笑いながら人の話を聞いたり、聞いた人を笑顔にするような話をする、楽しい人に違いない。

 名前に「えもん」がつくのは、みんなから愛され頼りにされるキャラクターだと、昔から決まっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日曜日は、朝日歌壇である。

 今日(21日)は、高野公彦氏選第4席にわたしの歌が入選していた。

 

軍事費を増やし生活保護減らす美しい国に我は住みおり

 日本の軍事費は今年度約8兆円であった。

 来年度はさらに上積みされ9兆円になるらしい。

 国民の命を守るためではない。

 

 高市早苗総理は、教育勅語を愛していると公言している。

 おそらく自身の在任中の学校教育への導入を考えているだろう。

 教育勅語の趣旨は、臣民は日本のために身を捨てよ、ということである。

 高市総理は、国民の命国家のものだと考えている。

 国家のためにならない(税金を納めない)国民を、国家予算で助けようとは考えていない。

 したがって、生活保護はできるだけ減らしたいのである。

 

 高市総理の理念は、日本人ファーストではない。日本国家ファーストである。

 高市総理は、故安倍晋三元総理が掲げた「美しい国」という理想の継承者である。

 安倍元総理高市総理が考える「美しい国」とは、臣民が国家のために命を捨てる国である。

 ほんとうにそれが「美しい国」であるかどうか、国民のひとりひとりが考えてみなければならない。

 

 わたしは、国籍に関わらず弱い立場の人たちに手を差しのべる国が「美しい国」だと考えている。

 武力で他国を制圧しマウントをとる国は、美しくない。むしろ「醜い国」である。

 

 武力を持たず戦争をせず、国民に健康で文化的な生活を保障し、国際社会で名誉ある地位を占める、そんな日本であって欲しい。

 日本を愛する一国民としての、切なる願いである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日(20日)の朝日小学生新聞「まあちゃん先生とわくわくクッキング」は、「雪だるまケーキ」であった。

 ホワイトチョコでコーティングされた、雪だるまの形のかわいいケーキである。

 チョコペンで顔を描き入れる工程など、子どもたちが喜びそうである。

 

 その作り方に、ひとつひっかかるところがあった。

 雪だるまの胴体に当たる部分は、大小ふたつの丸いケーキなのだが、その材料はバウムクーヘンである。

 バウムクーヘンをおろし器ですりおろして、クリームチーズと混ぜ合わせて、だんご状に丸めて作る。

 その、バウムクーヘンをすりおろす、ということにわたしは抵抗をおぼえるのである。

 バウムクーヘンは芯に薄く生地を付けて焼き、その上にまた生地を付けて焼き、ということを繰り返して作られた、年輪の模様の焼き菓子である。

 カステラやスポンジケーキとは違う独特の食感が美味しい。

 生地の層を重ねて年輪にする作業は手間がかかり、家庭では簡単にはできない。

 その手間をかけて焼き上げて作った年輪が、すりおろしたら台なしである。

 バウムクーヘンを作った人が、すりおろされているのを見たら、悲しむだろうなあ。

 

 菓子を再加工して他の菓子を作ることは、珍しいことではないし、悪いことではない。

 板チョコを溶かしてハート形にしたり、生クリームを加えて生チョコにするのは、よいと思う。

 クラッカーやビスケットを砕いてバターと混ぜ、タルトの台にするのもよい。

 どちらも、もとのチョコやクラッカーやビスケットは、もとの造形に工夫や手間がかかっていない。

 その上、再加工後ももとの素材は存在感を持って生かされている。

 再加工されても、もとの作り手の労を無駄にすることにはならないと思う。

 バウムクーヘンはどうだろう。

 加工後の雪だるまケーキには、バウムクーヘンの面影は残っていないのではないか。

 バウムクーヘンは、やはり年輪を残して使ってほしい。

 

 小学生新聞クッキングコーナーいちゃもんをつける、困った大人である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 19日(金)の朝日小学生新聞天声こども語のテーマは「校則」であった。

 筆者は、稲垣えみ子氏である。

 

小中学校の校則が窮屈で嫌だった。ある中学校の校長先生の、学校はルールを守ることを子どもに教える場だから必要だ、という意見を知り、少し見方が変わった。皆さんはどう思いますか。

 

 稲垣えみ子氏が、「皆さんは、どう思いますか」と問いかけているので、考えてみた。

 

 学校はルールを守ることを子どもに教える場である、という意見は正しいと思う。

 しかし、だから校則が必要である、というのは話が違う。

 校則の多くは、納得できるだけの合理性を持っていない。

 赤信号のときは交差点を渡ってはいけない、というルールは、守らなければ事故を起こす。

 サッカーでは、フィールドプレーヤーは手でボールを扱ってはいけない、というルールは、守らなけらばサッカーというスポーツが成立しない。

 靴下は白でなけらばならない、という校則には、合理性がない。理不尽である。

 

 理不尽なルールに無批判に従うことが、子どもの教育のためになるとは思えない。

 学校では子どもたちに、自分の頭と自分の言葉を使って考えることを教えるべきである。

 権力に服従する聞き分けの良い子どもを作り出すことは、先生が生徒を管理する上で都合がよいのだろう。

 子どもの教育のためではない。

 

 残念ながら、わたしは権力に服従する聞き分けの良い子どもであった。

 わたしが中高6年間通った学校は、校則で男子は坊主刈りに決まっていた。

 頭髪検査では先生が男子生徒の髪を指で挟み、指の間から出たら校則違反とされ、刈ってくるように命じられた。

 噂によると先生にバリカンで刈られることもあったらしい。

 人権侵害である。

 

 わたしが通っていた高田学苑は、浄土真宗高田派の学校である。

 浄土真宗宗祖親鸞聖人は、信仰とは心の中に仏を思うこと、すなわち「念仏」であり、戒律は不要である、と説いた。

 自らその教えを実践し、聖人は他の宗派では禁止されていた妻帯肉食を行なった。

 剃髪はしなかった。

 

 坊主刈りにしなけらばならない、という校則は、宗祖の教えに反している。

 無知で従順な生徒だったわたしは何の疑念も抱かず、誤った校則に従っていた。

 今ごろ悔やんでも手遅れである。

 

 高田学苑は、今は坊主刈りをやめている。

 当時から時代遅れであった学ランの制服も、今はお洒落なブレザーになっている。

 時代に迎合したのである。

 それはそれで、納得がいかない。

 

 校則は、子どもたちに大人の理不尽さ身勝手さを教えるために、必要なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝日小学生新聞を愛読している。

 大人が読んでもためになる記事が多い。

 読んでも何の役にも立たない記事も多い。

 役に立たない記事の方が、面白い。

 どうでもよい知識が増えるのは、なぜか嬉しい。

 わたしの知識の99%は、何の役にも立たない無用の知識である。

 

 17日(水)の「疑問解決なるほどね!」は、「なぜ輪ゴムはオレンジ色が多い?」という話題であった。

 富岡彩実さん(東京都・2年)の疑問に、輪ゴム製造会社「共和」池田哲人さん本田あゆみさんが答えている。

 

 輪ゴムの色は、素材の天然ゴムの色だという。

 記事には輪ゴム製造の手順が、写真付きで紹介されていた。

 

①東南アジアでゴムノキの樹液に薬を加えて乾燥させた「生ゴム」を作る。

②輸入した生ゴムに薬をまぜて練り、なじませる。

③硫黄や色のもとと練り合わせる。

④長いチューブ状にして熱や圧力を加える。

⑤チューブ状のゴムを輪切りにする。

 

 ポイントは、手順③の硫黄を加えるところだという。

 共和の創業者の西島廣蔵さんが1917年に発明した方法である。

 それまでの輪ゴムは自転車のチューブを輪切りにして作られており、黒くて今よりも固く平らであった。

 西島さんは、硫黄を加えて加熱するとゴムが強くなりよく伸びることを発見し、研究を重ねて今の輪ゴムを生み出した。

 

 わたしは、輪ゴム天然ゴムから作られていることを知らなかった。

 何かしら工業的に化学合成したものだと思っていた。

 念のために確認してみると、うちで使っている輪ゴムの箱にも、「素材 天然ゴム」と書かれていた。

 

 西島廣蔵さんは、どうやって天然ゴム硫黄を加えることを思いついたのだろうか。

 はじめから理論の裏付けがあったのだろうか、それとも、手当たり次第に色々なものを加えてみてたまたまうまくいったのだろうか。

 記事には書かれていないが、おそらく後者であろう。

 エジソン電球の素材として竹のフィラメントを発見したときも、1万回の実験を行ったという。

 身の回りにあるものに片っ端から電気を流してみて、長時間明るく光るものはないか調べたのである。

 1万回の実験のうち、フィラメントの1回以外はすべて失敗である。

 西島さん輪ゴムの発明も、多くの失敗を重ねて生まれたのだろうと想像する。

 

 最近の世の中は、何でもAIに答えを求めることが多い。

 はたしてAIには、西島廣蔵さんエジソンのような発明はできるだろうか。

 輪ゴムの製造法がみつかっていない時代に、天然ゴムの強度と伸びをよくする方法を尋ねたら、AIは教えてくれただろうか。

 エジソンフィラメントを見つける前に、電気を流すと長時間明るく光る素材を、AIは教えてくれただろうか。

 手っ取り早く正解らしきものを教えてくれるAIよりも、何度も失敗を繰り返しながら真理を見つけていく人間の方が、人類の幸福に貢献するように思うのだが、どうだろう。

 

 わたしたちが普段使っている輪ゴムは、天然ゴム硫黄を加えるという西島廣蔵さんの発明によってできたものである。

 知っていても、たぶん役に立たない知識である。

 それでも、何も知らないで使うよりも知っていて使う方が、暮らしの質が少しだけ良くなる気がする。

 いや、そんなことはないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 17日(水)の朝日小学生新聞1面の話題は、大谷翔平であった。

 といっても、野球の話ではない。

 ホームランを打つ大谷選手の写真に、「イラッときたら負けなんだ」というタイトルがついている。

 大谷翔平メンタルの話題である。

 

 ノンフィクションライターの中村計さん大谷選手に取材したときに大谷選手が言った、「イラッとしたら負けだと思ってるんで」という発言は、大谷選手メンタルの強さを表す名言として知られている。

 記事の中で心理学者の杉山崇さんは、「人はだれかにイラッとさせられると、その相手に意識が集中する。そのせいで、自分が本来やるべきことがおろそかになってしまいがちだ」と説明している。

 イライラを回避して自分のプレーに集中することが、大谷選手の活躍の大きな要因のひとつになっているらしい。

 

 今シーズン、大谷選手デッドボールを受けた後ベンチを飛び出そうとするチームメイトに戻れ戻れと手で合図を送っているシーンが、ニュースなどで話題になった。

 大谷選手は、抗議や乱闘で試合が中断して集中が妨げられることを避けたかったのである。

 大谷選手にとって大事なのは、デッドボールを受けた怒りよりも、打者として次の打席でどのような打撃をするか、投手としてマウンドでどんな投球をするか、ということなのである。

 大谷選手の活躍の土台には、このようなブレない精神があるのである。

 

 この大谷選手の考え方に、わたしは全面的に共感する。

 苛立ち怒りは、決して正しい行動につながらない。

 イライラしたり、怒りが湧いてきたときには、それをぶつけたり発散することよりも、鎮めることを考えたほうがよい。

 大谷選手は、自身のイライラを自分で鎮める方法を身につけているのである。

 

 記事の中で、サッカー元日本代表中村俊輔選手イライラ対処法が紹介されていた。

 中村俊輔は現役時代に試合に出られずイライラする時期があった。

 そのときにやったことは、ノートに書く、ということであった。

 この中村俊輔サッカーノートは、わたしもテレビのスポーツ番組で見たことがある。

 うまくいかなかったプレーについて、言葉や図で詳しく書き記されていた。

 書くことで、イライラという感情に対して理性で向き合うことができる。

 感情よりも理性に従った方が、すべてのことはうまくいく。

 

 イライラをそのまま人に向けての発言や行動にするのではなく、自分に向けて言語化して書く

 それを習慣化すれば、自身の行動の質が向上する。

 ひとりひとりの行動の質が向上すれば、世の中のトラブルはほとんどなくなるのではないか。

 全ての人がイライラを自分でコントロールする言葉の力を身につければ、世界はもっと住みやすくなると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 13日(土)の朝日新聞土曜版「be on Saturday」「be between 読者とつくる」は、「左利きは直した方がいい?」というテーマであった。

 読者アンケートの結果は、「はい」が11%、「いいえ」が89%であった。

 妥当な結果だと思う。

 

 そもそも左利きは、直せるものではない。

 左利きを直して右利きになった人というのを、聞いたことがない。

 右手のほうが便利なものに関して、練習によって右を使えるようにするだけであって、右利きになるわけではない。

 世の中には右利きの方が便利なものが多いので、練習して右手で使えるようにすることは多い。

 右利きにはわからない苦労があるようである。

 

 左利きの不便さを、わたしも一度経験したことがある。

 小学校5年生のときに家庭科の授業で裁縫をやったのだが、わたしは兄のお下がりの裁縫セットを使っていた。

 兄は左利きなので、裁縫セットハサミ左利き用のものであった。

 右手で使うと、布も糸も全然切れなかった。

 結局ハサミだけは右利き用に買い直した。

 左利きの人の不便さを知った体験である。

 

 普通に売られているハサミは、ほとんどが右利き用である。

 わたしがいつも文房具を買う100円ショップで左利き用ハサミが売られているのを見たことがない。

 左利きの人も大体は右利き用ハサミを使っているのだろう。

 切りにくいものを苦労して使いこなしているにちがいない。

 ハサミの動きは開閉運動だけなので、右利き左利きも関係なさそうだが、右手と左手では力が加わる方向が違うから切れないらしい。

 品ぞろえの豊富な文房具屋さんでは、左利き用ハサミも売られている。

 単に右利き用のものを対称にしただけでなく、右利き用ハサミを左手で使うことになれている人が左手で使うように作られているという。

 ややこしい話である。

 

 「be」のアンケートでは、「はい」と答えた人が挙げている理由でもっとも多いのが、「ハサミが使いづらい」であった。

 左利きの人の多くが、右手用ハサミ左手で使う練習をしているのだろう。

 

  「はい」の理由で2番目に多かったのは、「横書きの時に手が汚れる」というものであった。

 縦書きの時には右利きの方が手が汚れるから、左利きを直さなければならない理由にはならない。

 わたしはいつも縦書き葉書に書くときには、汚さないように書いた部分の上に紙を当てている。

 それだけのために左手で書く練習をしようと思ったことはない。

 

 「はい」の理由で3番目に多かったのは、「習字が上手になりにくい」であった。

 漢字ひらがな左から右に引く線が多く、左手では書きにくい。

 毛筆の場合は、左手だと「はね」「はらい」も難しそうである。

 そのため、文字だけは子どもの頃に右手で書くように直されることが多いようである。

 わたしの兄も、字は右手で書く。

 わたしの娘も左利きだが、通常の文字は左で書き、書道のときだけ右で書く。

 どちらも同じくらいうまく書ける。

 

 兄も娘も、文字だけは右だが、他はすべて左利きのままである。

 箸も左だし、スポーツもすべて左である。

 特に不自由や不便はないようである。

 自動改札は少しめんどうだが、慣れているので問題ないようだ。

 

 娘が最近、ギターを始めた。

 右利き用である。

 左手で弦を押さえ、右手ではじく。

 はじくだけの右手のほうが仕事が単純であり、左利きでも不自由しないようである。

 

 ピアノは、和音を弾く左手よりもメロディーを弾く右手の方が動きが複雑なので、左利きの人は弾きにくそうだが、実際はどうなのだろう。

 坂本龍一左利きであるが、ピアノで苦労したことはなさそうである。

 

 「はい」の理由の10番目に、「カメラが操作しづらい」というのがあった。

 左利きを直さなけらばならないほどのことではないと思うが、確かに使いづらいと思う。

 パソコンのキーボードのテンキーも、左利きの人には使いづらそうだ。

 これらは左利きを直すよりも、製品の改良によって克服するほうが良さそうである。

 テンキーは、後付けのものを買い足すこともできる。

 左利きの人は、カメラの使いづらさにはどう対処しているのだろうか。

 左利きの人の感想やカメラメーカーの考えを聞いてみたいものである。

 

 右利きの人間が気付かない左利きの不便さは、他にもまだまだありそうである。

 気をつけて観察してみようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 わたしは、新聞が好きだ。

 物心ついた頃から、朝日新聞を愛読している。

 小学生の頃は、朝日小学生新聞も読んでいた。

 自分で国語教室を始めてからは、生徒たちのために小学生新聞を購読しているが、生徒よりもわたしのほうがよく読んでいる。

 毎日1、2時間は新聞を読んでいる。

 新聞を読むと頭が良くなる、と子どもたちには話しているが、わたしにはあてはまらないようである。

 ただ娯楽として読んでいるのである。

 

 わたしがいちばん好きなのは、土曜版「be on Saturday」(「be」)である。

 通常の紙面は気が重くなる記事が多いが、「be」は、ただ面白いだけの、心が明るくなる記事が多いのがよい。

 何の役にも立たない記事が好きだ。

 

 先週の土曜日、13日の「be」の2面、「be RANKING!!」は、「町中華で注文したい料理は」というアンケート記事であった。

 調査しても何の役にも立たないランキングである。

 もちろん、読んでも何の役にも立たない。

 読む前から、トップ3は「ラーメン」「餃子」「チャーハン」だと予想がつく。

 こんなアンケートに誰が協力するのか、と思ったが、アンケートの回答者は2408人だという。

 朝日新聞の読者は、真面目で人がいい。

 

 さて、アンケートの結果である。

 上位はなんと、1位「焼き餃子」2位「チャーハン」3位「ラーメン」であった。

 予想通りである。

 

 結果は予想通りであるものの、記事の中で紹介されている読者のコメントにはそれぞれの思い入れが感じられて面白かった。

 わたしのいちばん好きなコメントは、千葉の女性(51)の、「近所の駅裏の店に子どもの頃から通っている。小学校の教頭先生がビールを飲みつつ餃子を食べていた。父がテレビを観て巨人軍を大声で応援するのが恥ずかしかった。結婚したら夫と行き、赤ん坊だった娘を抱えてラーメンをすすった。」というものである。

 これぞ「町中華」の姿である。

 

 わたしにとって、もっとも思い入れがある町中華は、大学の前にあった「錦楽」である。

 1階がテーブル席、2階が20畳ほどの座敷になっており、大体は2階を利用した。

 部活(研究会)の後に大人数で入店し、長時間居座った。

 親戚の家に来たような、くつろげる店であった。

 空いている午後など、横になって寝ている者もいた。(わたしはそんな行儀の悪いことはしなかった)

 貧乏学生だったのでラーメンばかり食べていた記憶がある。

 味は覚えていない。特に美味しくもなくまずくもなかったのだと思う。

 「桃饅」という、桃の形をした小ぶりなあんまんも時々食べたことを、今、思い出した。

 味は普通のあんまん(こしあん)だったのだが、ラーメンの後に食べるととても美味しく感じたものである。

 卒業以来一度も行っていないが、「錦楽」は若き日のわたしの一部であり、忘れられない店である。

 これぞ正しい「町中華」の姿である。

 

 最近は、町中華を利用することがめっきり減った。

 わたしの家の近くにも何軒かあるが入ったことがない。

 つい、どこにでもあるチェーン店に入ってしまう。

 長居はできず、ただ食べて帰るだけである。

 何の思い入れも、ない。

 

 「be RANKING!!」を読んでいたら、学生時代の記憶が鮮明に甦ってきた。

 いい記事である。何の役にも立たないけれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨日(14日)の朝日俳壇でわたしの心に残ったのは、小林貴子氏選第8席のこの句である。

 

見上げれば今日を生きよと皇帝ダリア   (狛江市 板垣徹)

 

 まず心にとまったのは、「今日を生きよ」である。

 将来に対する不安で鬱々と暮らしているわたしに、「今日を生きよ」はいちばん必要な言葉である。

 その言葉を伝えるのが、「皇帝ダリア」である。

 この厳めしい立派な名を持つ花を、わたしは知らなかった。

 

 いつものように、愛用の『カラー図説日本大歳時記』(講談社)で調べてみたが、載っていなかった。

 「ダリア」は、夏の部にある。

 角川文庫「俳句歳時記」にも、採られていなかった。

 まだ季語として認められていないらしい。

 

 インターネットで検索してみた。

 ウィキペディアには、「キダチダリア」の項に「日本では学名を訳した「皇帝ダリア」等の別名でも呼ばれる」と紹介されていた。

 以下、ウィキペディアからの引用である。

 

キダチダリア(木立ダリア、学名 Dahlia imperialis)は、高さ8-10メートルになるダリア属の種で、メキシコ、中米、コロンビアの原産。

高地・山地の植物で、標高1,500-1,700メートルの所に生育する。

懸垂しまたは下向きに咲く頭花は直径75-150mmで、舌状花はラベンダー色または紫がかったピンク色をしている。

本種は生長が速く、急激な生長は短日条件により起き、普通秋の最初の霜の下りる前に開花する。

 

 高さ8~10mとあるから、かなり大きな木である。

 写真を見ると、薄紫の可憐な花が、たしかに見上げる人に語りかけるように下向きに咲いている。

 ダリアというとバラにさらに装飾を加えたような、派手で豪華な花を想像するが、「皇帝ダリア」はその名に似合わず色も姿も控えめである。

 見たことがあるような気がするが、別の花かもしれない。

 

 インターネットの歳時記には、「冬枯の皇帝ダリア孤高なり」(赤座典子)という句があった。

 その名といい、丈高く咲く姿といい、孤高を感じさせる花である。

 孤高皇帝ダリアから聞くとき、「今日を生きよ」という言葉が力を持って感じられるのだろう。

 実物を、見上げてみたい。

 

 朝日歌壇には、こんな歌があった。川野里子氏選第5席である。

 

今までどこにいたのってよく聞かれるが皇帝ダリアもそんな感じだ                  (東京都 伊東澄子)

 

 この歌も不思議な魅力のある、わたしの好きな歌である。

 孤高の花だから注目を集めることはないが、その存在に気づくとほうっておけない、そんな魅力を持った花なのであろう。

 自己主張しなくても、「皇帝」の名にふさわしい風格気品が備わっているからか。

 

 インターネットの歳時記には、こんな句もあった。

 

皇帝ダリアは皇帝ダリアといふ名が嫌ひ  佐藤竹僊

 

 どう思っているか、皇帝ダリアに聞いてみないとわからない。

 立派過ぎる名を恥ずかしがって、うつむいて咲いているのかもしれない。

 「皇帝」以外の名をつけるとしたら、どんな名がよいだろうか。