ことのは学舎通信 ---朝霞台の小さな国語教室から---

ことのは学舎通信 ---朝霞台の小さな国語教室から---

考える力・伝える力を育てる国語教室 ことのは学舎 の教室から、授業の様子、日々考えたこと、感じたことなどをつづっていきます。読んで下さる保護者の方に、お子様の国語力向上の助けとなる情報をご提供できたらと思っております。

 朝日新聞土曜版「be on Saturday」「街のB級言葉図鑑」は、「甘づっぱい」という表記を採り上げていた。
 青果店のリンゴの値札に書かれていたという。
 「あまずっぱい」は、「甘」「す(酸)っぱい」なので、「あまずっぱい」が正しい。
 飯間浩明氏は、いつも使っているうちに元の語の意識が薄れてできた表記だと考察している。

 言葉は変化するものだとはいえ、「甘づっぱい」という表記には心がぞわぞわする。
 「じ」「ぢ」「ず」「づ」の使い分けには決まりがある。
 現代の書き言葉は音の通りに表記するのが原則なので、「zi」「zu」「じ」「ず」と書く。
 「ぢ」「づ」を用いるのは、「ち」「つ」連濁になる場合に限られる。
 例えば「底力」は、「底」「ちから」だから「そこから」と表記する。
 「力強い」は、「力」「つよい」だから「ちからよい」と表記する。
 「甘ずっぱい」は、元の語の意識が薄れても「甘づっぱい」になる道理はない。
 「づっぱい」という言葉はないのである。

 語の成り立ちが忘れられて、「づ」「ず」と表記される言葉は多い。
 これもわたしは気になってしまう。
 「おこづかい」「おこずかい」「みづから」「みずから」「ひざまづく」「ひざまずく」「うなづく」「うなずく」などである。
 飯間浩明氏は、「いなづま」「いなずま」を挙げている。
 「おこづかい」は、の「こづかい」は「小」{遣(つか)い」だから、「づ」が正しい。

 「みづから」は、「身」「つ」「から」である。
 「つ」は、連体修飾を表す助詞「天つ風」「わたつ海」「つ」と同じ)である。
 連濁で濁るのだから、「みから」でなければならない。
 「おのづから」「己」「つ」「から」だから同様である。
 「ひざまづく」「膝曲げ突(つ)く」、あるいは「膝前突(つ)く」であり、「つく」連濁「ひざまく」が正しい。
 「うなづく」は、「項(うなじ=首)」を前に「突(つ)く」ことであり、「うなづく」が正しい。
 「いなづま」は、「稲」「妻(つま)」である。
 「おこずかい」「みずから」「ひざまずく」「うなずく」「いなずま」などの表記には、わたしは今でも違和感を覚える。
 いずれも現代の国語辞典の見出しの表記は「ず」である。
 一般には語の成り立ちは意識されなくなっているのであろう。

 「築く」も、わたしは「きづく」と表記したい。
 「築く」成り立ちは、「木搗(つ)く」「杵搗(つ)く」などと考えられている。
 国語辞典の見出しは「きずく」である。
 パソコンも「きづく」では変換してくれない。
 「気付(づ)く」は、国語辞典の表記も「きづく」である。
 「気が付く」「気を付ける」という言葉がよく使われるので、「付く」が意識として生きているのであろう。
 これもいずれは「きずく」と表記されるようになるのかもしれない。

 言葉の成り立ちを離れて表記が変わっていくことは、言葉の歴史が失われることであり、ちょっとさびしい。
 発音の通りに表記するという現代仮名遣いの原則は、これから日本語の表記を覚える人々にとってはわかりやすい。
 その一方で言葉の成り立ちから意味を理解することは、しにくくなる。
 一長一短であるが、わたしは言葉の歴史とつながっている旧仮名遣いのほうがよいと思っている。
 ただし、自分自身が書くときには現代仮名遣いを用いる。
 わたしは、現代仮名遣いで育った現代仮名遣いネイティヴである。
 知識としては旧仮名遣いを身につけておいて、必要に応じて両者を使い分けることにしている。

 「甘づっぱい」は、受け容れ難い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝日小学生新聞「天声こども語」の金曜日の筆者は、稲垣えみ子氏である。
 稲垣えみ子氏は福島の原発事故をきっかけに極力電気を使わない生活を始め、電力5A契約で冷蔵庫、電子レンジ、炊飯器、エアコンなどの家電を使わずに暮らしている。
 その食生活は干物や漬物を目一杯活用した、前近代的な、昔の日本人のようなものであり、何冊かの著書でその魅力を紹介している。
 このブログでも何度か紹介した。
 最近は、電気だけでなく石油にも頼らない生活を目指しているらしい。
 昨日(27日)の天声こども語の話題は、「シュロのタワシ」であった。
 こんな内容である。

シュロのタワシを使ってみた。弾力のある毛が密集していて力を入れずに汚れが落ちる。値段は高いが長持ちして使うほど柔らかくなる。ココナツ製や化学繊維に押されて廃れていたものを和歌山のメーカーが復活させた。

 シュロについて、ウィキペディアで調べてみた。
 以下、その受け売りである。

 シュロ(棕櫚)は、ヤシ目ヤシ科シュロ属の常緑高木である。
 平安時代、中国大陸の亜熱帯地方から持ち込まれ、九州に定着した。
 耐寒性が強いため、本州(東北南部以南)の暖地で栽培されており、和歌山にもっとも多く植えられている。
 ヤシ科の植物の中でほぼ唯一、日本に自生する。
 シュロ皮を煮沸し、亜硫酸ガスで燻蒸した後、天日で干したものは「晒葉」と呼ばれ、繊維をとるのに用いられる。シュロ皮の繊維は、腐りにくく伸縮性に富むため、縄(棕櫚縄)や敷物(マット)、タワシ、篩の底の材料などの加工品とされる。


 かつて金物屋の店先では必ず、シュロ製「亀の子たわし」が売られていた。最近は見かけない。
 我が家で食器洗いに用いるのは、もっぱらスポンジである。主原料はポリエステルやアクリルで、石油からできている。

 アメリカイスラエルイラン攻撃によりホルムズ海峡が封鎖され、中東の石油が手に入らなくなっている。
 高市首相は、ガソリンの備蓄が約8カ月分ある、と言う。
 8か月分しかないのである。
 8か月後には、ガソリンが手に入らなくなる恐れがある。
 ガソリンだけではない。石油から作られるプラスチック化学繊維も不足することになるだろう。
 わたしたちの暮らしは大丈夫だろうか。不安になる。

 考えてみれば、日本人はほんの160年くらい前までは、石油を使わずに暮らしていた。
 ガソリンプラスチックポリエステルも使わず、不自由なく暮らしていたのである。
 石油が手に入らなくなったら、江戸時代の暮らしにもどればよい。できないことはなかろう。稲垣えみ子氏はすでに実践している。
 わたしたちは、近い将来に訪れるかもしれない石油のない生活に備えて、おくべきであろう。
 もちろん、そうならないことを願っているが、前もって心構えをし準備をしておくに越したことはない。
 日常生活を、脱電力脱ガソリン脱プラスチック脱化学繊維に近付けることを考えておきたい。
 稲垣えみ子氏の生活は、その手本となる。
 早速明日、シュロのタワシを探してみようと思う。
 身の回りのものを少しずつ自然素材に置き換えていきたい。

 いち早く平和な方法でホルムズ海峡が解放されて、石油に不自由しない生活が維持されることを願っていることは言うまでもない。
 その一方で、石油に頼らない生活の可能性も考えておきたい。
 シュロのタワシ百均にあるかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 中国の六朝時代の説話集『異苑』に、2月5日のこのブログで紹介した「ハチドリのひとしずく」とほぼ同じ話があった。

 

 鸚鵡がよその山に遊びに行った。その山の鳥獣たちは鸚鵡を歓迎し大切にもてなした。鸚鵡はとても楽しい気持ちで帰った。

 数カ月後、その山が火事になった。鸚鵡は水に入って羽を濡らして飛んでいき、山に注いだ。

 天神は「お前に火を消そうという気持ちがあっても、どうしてその程度の水で足りようか」と言った。

 鸚鵡は答えた、「救えないことは分かっていますが、私は前にこの山に遊んだとき、鳥獣たちに親切にしてもらいました、みな兄弟です。何もせずに見ているわけにはいかないのです。」と。

 天神は感心し、火を消した。

 

 鳥がわずかな水を運んで山火事を消そうとする、という骨格は同じである。

 大きく異なるのは、その結末である。

 『異苑』では、鸚鵡の気持ちに応えて、天神が火を消してくれた。

 「ハチドリのひとしずく」では、結末は書かれていない。

 山火事は消えたのか、それとも、消える前にハチドリが力尽きたのか。

 その結末は、読者のひとりひとりが自分で考えるしかない。

 『異苑』の結末は、楽天的である。

 わたしは、神の助けを信じるほど楽天的でもないし、信心深くもない。

 ひとりの力では足りないと知りつつも、水を運び続けるしかない。力尽きるかもしれない。

 理想は、協力者が増えていつしか注がれる水の量が十分になり、山火事が消えることである。

 神の力よりも、仲間の力を信じたい。

 

 ふたつの話には、もうひとつ違いがある。

 『異苑』では、鸚鵡は自分が恩を受けた鳥獣のために火を消そうとする。

 「ハチドリのひとしずく」では、そのようなハチドリ自身との関りは書かれていない。

 ハチドリの行動の動機は、他者の命を助けたい、という思いである。

 『異苑』鸚鵡よりも「ハチドリのひとしずく」ハチドリのほうが、より利他的である。

 どちらがよいかは言うまでもない。

 自分が恩を受けていようといまいと、自分の味方であろうと敵であろうと、すべての命は貴い。

 等しく幸せに生きるべきである。

 

 イランの人々も、ウクライナの人々も、ガザの人々も、わたしたち日本人にとってほとんど無関係な人々である。

 日本で暮らす外国人も、ほとんどがわたしと直接関わりのない人々である。

 わたしたちは、縁もゆかりもない彼らのために水を運ぶハチドリでありたい。

 皆、同じ地球に生きる兄弟である。

 何もせずに見ていることは、できない。

 

 ほんとうのことを言うと、『異苑』のような結末を願う気持ちが、わたしにはある。

 どこかで神様が見ていて、戦争を終わらせてくれないものだろうか。

 一生懸命水を運ぶから、神様、助けて下さい。

 

日本を優しく強く、

すべての国を平和で豊かに。

 

 

 

 今日(26日)の朝日小学生新聞天声こども語は、言葉リズムについてであった。

 筆者は元朝日新聞記者の矢部万紀子氏である。

 こんな内容である。(百字要約)

 

「義実家(ぎじっか)」という言葉を聞くとぞわぞわとなる。二つの濁音のせいで違和感を感じるのである。言葉の音やリズムを意識している。最近のお気に入りは「楽しかりけり」である。はずむフレーズとして心にメモしている。

 

 「楽しかりけり」は、なるほど、素敵な言葉である。

 「楽しかった」と言うより「楽しかりけり」と言った方が、より楽しい感じが伝わる。

 「はずむフレーズ」である。

 「かりけり」の部分のカリカリした響きがよいのかもしれない。

 「か」「け」カ行音のちょっと固い感じと、ラ行音「り」の滑らかで丸い感じが交互に繰り返されて、心地よさを生んでいる。

 今度使ってみようと思う。

 

 形容詞助動詞「けり」が接続した「〇〇かりけり」が使われている歌を、古今和歌集から探してみた。

 23首あった。

 最も多いのは「恋しかりけり」で、7首である。

 次が「悲しかりけり」の3首である。

 

 古今和歌集「○○かりけり」の歌で、わたしの好きな歌はこの3首である。

 

いつとても恋しからずはあらねども秋の夕べはあやしかりけり

             (巻11・恋1・546・よみ人知らず)

〔訳〕いつだって恋しくないときはないのだけれど、秋の夕べは一段とあの人が恋しくなる、不思議なことよ。

 

はかなくて夢にも人を見つる夜は朝の床ぞ起き憂かりける

               (巻12・恋2・575 素性法師)

〔訳)儚い夢の中であの人の姿を見た夜は、翌朝寝床からでるのもつらいことよ。

 

明日知らぬ我が身と思へど暮れぬ間の今日は人こそ悲しかりけれ

                (巻16・哀傷・838・紀貫之)

〔訳〕明日の命もわからない我が身だけれど、日の暮れぬ間の今日は、あの人のことが思い出されて悲しい。

 

 838番歌は、「紀友則が身まかりける時よめる」という詞書がある。

 紀貫之が、共に古今集の編纂をした従兄の友則の死を悲しんだ歌である。

 従兄弟とはいえ、20歳以上も年が離れている。

 これほど深く悲しんでいるのは、歌を通じて心のつながりがあったからであろうか。

 「悲しかりけれ」という真っ直ぐな表現が、心に響く。

 

 

 

 25日(水)の朝日新聞朝刊で素敵な言葉に出会ったので紹介したい。

 

 教育面の「学びを語る」という欄に、「中高生に平和教育 武器より言葉で味方を増やす」という見出しの記事があった。

 一般社団法人「かたわら」代表の高橋雄太さんの活動を紹介する記事である。

 広島で平和教育を受けて育った高橋さんは、大学卒業後に平和教育の実践団体を仲間と立ち上げ、「広島タイムトラベラー」という体験プログラムで中高生への平和教育を行っている。

 

 高橋さんは、国連やG7サミットなどの国際会議などにも赴き、若者代表として核を持つ国に言うべきことを言い続けてきた。

 ある高校生から「対抗して怖くないですか」と聞かれ、答えた。

 

武器を使えば敵が増えます。言葉を使えば味方が増えます。

 

 この言葉にわたしは激しく共感した。

 人と人との関係でも、国と国との関係でも、その土台に必要なものは信頼である。

 武器信頼を壊すことはできるが、築くことはできない。

 相手に銃口を向けながら、仲良くしよう、と言っても絶対に仲良くはなれない。

 本当に相手と親密な関係を築こうと思うならば、まず自分から武器を捨てなければならない。

 武器を捨てられないのは、相手を信頼していないからである。

 自分が相手を信頼せずに、相手に信頼を求めるのは無理である。

 

 武器を持つ相手の前で、自分から武器を捨てるのには勇気がいる。

 勇気を持つ者は、本当の、強い者である。

 武装しなければ怖くて相手に向き合えないのは、臆病な、弱い者である。

 強い武器を持つ国に対して、顔色を伺い御機嫌取りばかりするのは、卑屈な、弱い国である。

 

 大国の言いなりになって武力を使えば、世界中にを増やすことになる。

 武器を捨て、大国の横暴な振舞を堂々と批判すれば、多くの国が味方になるだろう。

 

 わたしたちに必要なのは武器ではなく、信頼されるに値する真実の言葉である。

 

 高橋雄太さんの言葉を、もう一度大きな文字で書きとめておく。

 

武器を使えば敵が増える。

言葉を使えば味方が増える。

 

 世界に平和繁栄をもたらすのは「言葉」だけである。

 

 前回に続き朝日歌壇から危機感によって詠まれた歌を採り上げる。

 永田和宏氏選第4席。

 

テヘランが燃えてゐる日の東京はマラソンの人銀ぶらの人

                     (横浜市 白川修)

 

 アメリカイスラエルによるイラン攻撃で始まった戦争は、終わる気配がない。

 トランプ大統領は、新たにイランの発電所を爆撃すると脅している。

 今後も戦争の犠牲者は増えるであろう。

 

 日本でも毎日イラン戦争がマスコミで大々的に報じられている。

 対岸の火事ではない。

 ホルムズ海峡の解放のために自衛隊の派遣もないとは言い切れない。

 そうなれば日本も戦争当事者である。

 

 テレビのインタビューを見ていると、日本国民の関心はもっぱら、ガソリン価格の高騰にあるようである。

 ガソリン価格が上がれば、あらゆる物価が上がる。

 物価高は、生活に直結する大問題である。

 しかし、イランでは多くの人が死んでいる。

 イランによる反撃で、中東諸国でも人が死んでいる。

 日本の物価高より、世界の人々の命の方がはるかに大切である。

 

 テヘランが燃え、多くの人が死んでいるときに、ガソリンが何十円上がった、などと言っている場合ではない。

 と偉そうなことを言っているわたしも、世界で戦火が絶えないときに、安全な日本で呑気にこんなブログを書いている。

 マラソン銀ブラブログも、世界の人々の命に役に立っていないという点では、ガソリン価格物価の心配をしている人と同じである。

 

 今、わたしたちは何をすべきか。

 これから、わたしたちは何をすべきか。

 

 わたしたちにできることはほとんどない。

 せめて、戦火の下にいる人々のことを忘れないでいたい。

 次の選挙では、アメリカの暴君に対してはっきりと、国際法違反だ、と批判できる政党に投票しよう。

 わたしたちは無力であるが、民主主義をあきらめてはいない。

 

日本を優しく強く、

すべての国を平和で豊かに。

 

 22日(日)の朝日歌壇から。

 高野公彦氏選第8席。

 

徴兵の対象となる若者が高市支持とは不思議なりけり

                   (狭山市 朝日和信)

 

 本当にその通りだと思う。

 

 高市首相の支持率は、若い世代ほど高い。

 18歳、19歳の有権者は、自分たちが徴兵制の対象になることが分かっているのだろうか。

 高市首相は、教育勅語は現代の日本にも大切な価値観だ、と言っている。

 教育勅語は要するに、臣民(国民)は国家のために死ね、という命令である。

 憲法を改定して平和主義基本的人権の尊重国民主権という三大原則を捨て、徴兵制を復活させ戦争のできる「強い国」にしようというのが高市首相の考えてである。

 高市首相を支持する若者は、戦争で国家のために命をかけて外国人を殺す覚悟があるのだろうか。

 

 初の女性首相だから、ハキハキと物を言うから、消費税減税をしてくれるから、株価が上がるから、などの目先のあてにならない理由で高市自民党に投票した人々には、徴兵制戦争に対する危機感はないようである。

 (わたしが見たあるブログでは、株価が上がるから「選挙の結果がよかった」と書いていた。世界の平和や幸福よりも自分の資産のほうが大事なのであろう。)

 

 子どもたちを戦争で死なせないために戦争をしない政党に投票する、思慮分別のある大人は少数派である。

 

 朝日新聞の読者には、高市政権に強い危機感を持っている人が多い。

 歌壇「声」欄には、そのような立場からの投稿が多い。

 残念ながら、その声は高市支持者に届くことはない。

 彼らは朝日新聞を読まない人たちなのである。

 どうしたらよいのだろう。

 

 トランプ大統領を批判する投稿も多い。

 トランプ大統領朝日新聞を読まない。

 トランプ大統領を選んだアメリカの有権者も、朝日新聞を読んでいない。

 

 ほんとうに、どうしたらいいのだろう。

 

日本を優しく強く、

すべての国を平和で豊かに。

 

 

 

 

 日曜日は朝日歌壇である。

 今日はわたしの歌が入選していた。

 高野公彦氏選第4席、永田和宏氏選第5席、重選である。

 

他の石をはじき飛ばして中央に居座るカーリングのやうな大国

 

 手帳で確認してみると、この歌を詠んだのは2月22日である。

 アメリカイランを空爆したのは2月28日だから、この歌で念頭に置いていたのは1月のベネズエラ侵攻グリーンランドの領有などである。

 

 その後イランを攻撃し、トランプ大統領の暴挙はとどまるところを知らない。

 そのやりたい放題に他国を攻撃するさまを、開催中であった冬季オリンピックに寄せて詠んだのである。

 

 「カーリングのやうに」という比喩は、ベタである。

 その上、この比喩は適切ではない。

 カーリングは、相手の石をはじき出して自分の石を的の中央に残すために、深い思慮戦略、高度な技術を要する。

 トランプ大統領の暴挙は思いつきによる力任せの行動であり、カーリングに喩えられるべきものではない。

 カーリングに対して失礼である。

 カーリングをやっている人から「トランプと一緒にするな」と怒られそうである。

 この場を借りてお詫び申し上げる。

 

 このような拙い歌を選んでいただいたのは、高野公彦氏永田和宏氏が、わたしのトランプ大統領の暴挙に対する怒りに共感されたからであろう。

 高野公彦氏は【評】にこのように書いている。

 

4首目と5首目は、「アメリカ・ファースト」で、したい放題の大統領に対する深い疑念を詠む。

 

 トランプ大統領暴挙を、はやく止めなければならない。

 

 高市首相は昨日のトランプ大統領との会談で、「世界に平和と繁栄をもたらせるのはドナルドしかいない」と、歯の浮くようなお世辞を、卑屈なお愛想笑いを浮かべながら述べた。

 「世界の中心で咲き誇る」というのは、世界の中心に居座る大国におべっかを使って、中心のちょっと脇に便乗して居座ることなのか。

 鹿を蹴り上げる外国人には厳しく対処するが、軍事攻撃で大勢の人間を殺す大統領は批判しないのか。

 

 2024年5月19日の朝日歌壇に、こんな歌があった。

 

外交とはアメリカに媚び売ることかジャイアンの前のスネ夫のごとく

 

 首相は変わったが、状況は変わらない。ますますひどくなっている。

 世界の中心でなくてよい。

 悪いことは悪いとはっきり言える国であってほしい。

 

日本を優しく強く、

すべての国を平和で豊かに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日(21日)の朝日小学生新聞の1面は、「タンポポ」であった。

 タンポポ博士保谷彰彦さんが、タンポポを観察するときのポイントを解説してくれている。

 身近な植物であるが、草花に関心が薄く知識が乏しいわたしにとって、新しく知ることばかりであった。

 

 日本中に生息しているタンポポには、在来種のニホンタンポポと外来種のセイヨウタンポポがあることはわたしも知っていた。

 しかし、どっちがどっちか見分けろ、と言われてもできない。同じように見える。

 記事では、その見分け方を教えてくれている。

 総苞片を観察すればよいのである。

 総苞片とは、花の下にある、花を支えている緑色のお椀型の部分である。 

 その総苞片が、ニホンタンポポは閉じてつまっており、セイヨウタンポポは開いて垂れさがっている。

 今度、実物で確認してみようと思う。

 

 ニホンタンポポセイヨウタンポポは、繁殖の方法も違う。

 ニホンタンポポは昆虫に花粉を運んでもらって受粉する。

 セイヨウタンポポは受粉の必要がなく、自分と同じ遺伝子の分身を作って繁殖する。

 ニホンタンポポは近くに仲間が必要なので、密集して生える。

 セイヨウタンポポは単独でポツンと生えることもある。

 これも実物を見つけて確認してみたい。

 

 どちらにも共通するのは、綿毛である。

 タンポポは広い範囲に子孫を残すするために、綿毛の下のタネを風に遠くに飛ばしてもらう。

 ところが、綿毛の99%は2m以内のところに落ち、遠くに飛ばずボトッと地面に落ちるものもあるという。

 残りの1%だけが、1~2km、気流にうまく乗れば数十km先まで飛ぶ。

 一つの花から100~200の綿毛ができるので、1%でも十分なのである。

 下手な鉄砲数撃ちゃ当たる、というのが、綿毛を使ったタンポポ繁殖戦略なのである。

 よくできている。

 

 いつもの習慣で、講談社『カラー図説 日本大歳時記』も調べてみた。

 「たんぽぽは最も代表的な春の野の草だが、これが不思議に万葉以下、古代、中世の短歌に詠まれていない」とあった。

 確かに言われてみればタンポポを詠んだ歌を見たことがない。

 和歌に限らず、多くの植物が登場する「源氏物語」にもタンポポは出てこない。

 小学館『日本国語大辞典』は初出例に、15世紀後半の『文明本節用集』「蒲公英 たんほほ」という記述を挙げている。

 1603年刊の『日葡辞書』には「Tanpopo」とある。

 『カラー図説 日本大歳時記』の例句では、加舎白雄(1738~91)の「たんぽぽに東近江の日和かな」を最初に載せている。

 

 『カラー図説 日本大歳時記』に載っていないが、わたしの記憶に深く残っているタンポポの句がある。

 

たんぽぽを握りつぶしたその手かな   小林恭二

 

 小説家の小林恭二氏が大学のゼミで初めて作った俳句である。

 この句に衝撃をうけたわたしは、小林氏『実用青春俳句講座』を図書館で借りて読んだ。

 わたしが人生でいちばん最初に読んだ俳句入門書である。

 40年近く昔のことだが、なぜか今でもよく憶えている。

 

 この春は道端のタンポポを気にして見ようと思う。

 短歌か俳句のひとつでも詠んでみたい。

 

 今日、志木鷹匠を見た。

 志木は田舎ではない。

 池袋まで20分、東武東上線、地下鉄有楽町線、副都心線が乗り入れている急行停車駅である。

 駅前にはスターバックスが2軒ある。

 その、志木鷹匠を見た。

 マンションの前の小さな広場で、トレーニングをしていた。

 

 鷹匠というと高齢の男性を想像するが、わたしが見た鷹匠は、二人の若い女性であった。

 身なりも、そのまま街に買い物にでかけるような服装であった。

 ただひとつ違っていたのは、うでに革のカバーを着けていたことである。

 ひとりの女性の腕カバーには、が乗っていた。

 

 は体長が50cmくらい。意外と小柄である。

 ただ、眼光は鋭かった。

 二人の女性は20mくらい離れて立ち、女性の腕から飛び立ったは地上1mくらいの低空を滑るように飛び、もうひとりの腕に着いて止まった。

 この往復を繰り返していた。

 その間、鷹匠の女性は一言も声を発することはなかった。

 阿吽の呼吸で、は二人の鷹匠の間を往復した。

 

 わたしは、お出かけの途中だったのでしばらく立ち止まって観察しただけで、その場を去った。

 いろいろと聞いてみたいことはあったが、真剣な訓練の途中に話しかけてが逃げてしまったりしたら大変である。

 あるいは、わたしが獲物と間違えられても困る。

 そんなことを考えて、話しかけなかった。

 

 は古来、狩(かり)の道具であった。

 昔の日本では、「狩」といえばを使って鳥や小動物を獲る、鷹狩のことであった。

 現代の鷹匠の主な仕事は、害鳥の駆除である。

 おそらく志木も、そのためのものであろう。

 わたしが鷹匠を見かけたあたりにはタヌキハクビシンが出没するが(田舎ではない!)、鷹狩をするという話は聞いたことがない。

 志木は、明らかによく訓練されていた。

 ただのペットではなさそうである。

 

 をうまく使うには、鷹匠との信頼関係が大切らしい。

 どんなに優秀なでも、信頼する主人のもとでなければ働かない。

 今昔物語集巻29に、こんな話がある。

 

 宇治に住む民部卿藤原忠文は、良い鷹をたくさん持っていた。重明親王が忠文のもとに鷹をもらいに行った。忠文は、一番優れた鷹を惜しんで二番目の鷹を献上した。重明親王が帰り道に雉を狩らせたが、その鷹は狩ることができなかった。下手な鷹をくれたと思った重明はその鷹を返しに行った。忠文は、今度は一番良い鷹を献上した。再び重明親王が帰り道に狩をしたところ、鷹は雲の中に消え、戻ってこなかった。重明親王は諦めて京に帰った。

 

 末尾にこんな教訓が付いている。

 

さとりなき鳥獣なれども、もとの主を知れることかくの如し。いかにいはむや、心あらむ人は古きを思ひ、もはらに親しからむ人のためにはよくすべきとなむ語り伝へたるとや。

〔訳〕知恵のない鳥獣でも本来の主人を知っていることはこの通りである。ましてや分別のある人間は古くからの関係を思い、専ら親しい人のためにはよくするべきである、と語り伝えているとか。

 

 との信頼関係は、どうやって築き上げるのだろうか。

 今度見かけたら、聞いてみたい。