ことのは学舎通信 ---朝霞台の小さな国語教室から---

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考える力・伝える力を育てる国語教室 ことのは学舎 の教室から、授業の様子、日々考えたこと、感じたことなどをつづっていきます。読んで下さる保護者の方に、お子様の国語力向上の助けとなる情報をご提供できたらと思っております。

 今日(23日)の朝日小学生新聞「天声こども語」は、算数数学の話であった。

 筆者は元朝日新聞記者の国分高史氏

 こんな内容である。

 

算数の名称を数学にするという議論がある。私は中高の数学になってから苦手になった。大人になって、論理的思考や分析力が弱いと感じるときがある。将棋やマージャンなど先を読むゲームをすると自分の弱点がわかる。

 

 算数数学は一続きの科目であるから名称を統一したほうがよい、という考えには賛成である。

 ただし、中学生になって数学が苦手な生徒が増えるのが「数学」という名称のせいだという意見には賛成できない。

 科目の名称を統一したからといって、数学が苦手な生徒が減るとは思えない。

 わたしが思うに、小学生のうちに考える力をつけず、作業手順だけで答えを出すことを身につけたツケが、中学校になって表れて、苦手になっているのであろう。

 小学校の算数のテストは、割合とは何か、速さとは何か、というような本質の理解がなくても手順だけで解けてしまうのである。

 授業参観でも、そのような手順をマニュアル化するような指導が行われてるのを見たことがある。

 

 国分高史氏は、数学将棋マージャンなどのゲームを結び付けている。

 将棋マージャン数学の学力の間にどれほどの相関関係があるかは、わからない。

 あまり関係がないような気がする。

 藤井聡太の将棋を見ていると、数学方面の論理性よりもむしろ精神性芸術性を感じる。

 指し手の流れの美しさや、相手の意表を突く駆け引きのうまさが、その強さの土台にあると思うのである。

 先日の名人戦第3局で指されて「伝説の毒まんじゅう」として話題になった「4五歩」の凄みは、数学で説明できるものではないように思う。

 

 マージャンにおいては、数学の中でも確率は役に立つ。

 欲しい牌を引いてくる確率や、どの上がり方を目指すともっとも勝ちやすいか、など、確率に基づく思考は欠かせない。

 方程式関数などは役に立たない。

 図形の証明なども、マージャンとは無関係である。

 マージャンでいちばん重要な力は、観察力である。

 山から自分が何を引くかは運であり、論理は通用しない。

 他の人が何を切ったか、手牌のどこから切ったか、どんな表情で切ったか、など、対戦相手の動きを観察して待ち牌を読めば、勝率は高くなる。

 数学より、自然科学に近い。

 

 算数数学の中で日常生活の役に立つのは、「単位当たりの量」「割合」である。

 どちらも、買い物の際に役に立つ。

 わたしは毎日の食品の買い物の際に、頭の中で瞬時に100gあたりの値段を計算している。

 閉店間際の、値引きシールが張られたお惣菜の値段を、瞬時に計算している。

 算数数学は、貧乏人の味方である。

 

 名称が「算数」であるか「数学」であるかは、たいした問題ではない。

 何のために学ぶか、今学んでいることがどんな意味を持っているか、という本質をきちんと教えれば、数学が苦手な子どもは減るはずである。

 その上で、もっと実態に合った魅力ある名称を考えるのであれば、おおいにやってもらいたい。

 ついでに国語も、もっといい名前になるといいなあ。

 

 デモが広まっている。

 毎日日本各地でさまざまなデモが行われている。

 デモカレンダーを見るたびに、デモ開催の告知が増えている。

 デモカレンダーのおかげでデモの数も参加者も増えるという、よい流れができているようだ。

 できる限り、参加しようと思う。

 

 今日(23日)の朝日小学生新聞1面は「デモ 社会を変えるきっかけに」という記事であった。

 東北大学教授の中林暁生さんデモの目的や意義について解説している。

 記事の一部を引用する。

 

 社会には、さまざまな考えを持つ人たちがいます。中林さんは「自由に意見を表明して、みんなで御論できることが自由で民主的な社会をつくっていく」と話します。

 

 最初は自分だけのものだった意見も、ほかの人に伝えて共感してもらえたり、同じ考えの人とつながったりすることで、その「声」は大きくなります。

 

 中林さんは、「デモは一つの手段にすぎないが、社会を変えるきっかけになる」といいます。「多くの人に自分たちの声を伝えることでその声が育っていき、やがて大きな世論となって、社会を変えられるかもしれません」

 

 変えられるかもしれないし、変えられないかもしれない。

 デモにどれだけの力があるかは、分からない。

 SNSで何十万回、何百万回も拡散される視聴数稼ぎのための刺激的な動画やテキストに比べ、リアルの世界で少人数で行うデモの影響力ははるかに小さいかもしれない。

 それでも、パソコンの前で労せずに作られた動画やコメントよりも、実際に現場に足を運びプラカードを掲げ大きな声を出すデモの方が、心に響くものがあると信じたい。

 

 明日は志木駅南口で17:00から行われる反戦スタンディングに参加する予定である。

 主催者のXには、「お出かけついでに、お買い物帰りに、5分でもお立ち寄り下さい。」とある。

 少しずつでも、デモの輪が広がっていけば、世の中を変えられると信じるしかない。

 

 選挙権のない小学生も、デモには参加できる。最初は、見物だけでもいい。

 小学生新聞を読んで興味を持ったら、お出かけついでに見に来てほしい。

 憲法が改定され日本が戦争する国になったら、実際に戦地に送られるのは現在選挙権を持っていない世代である。

 小学生にとっても、デモはひとごとではない。

 ちょっとでも足を止めて、考えて、お父さんやお母さんと話してみてくれたらうれしい。

 

日本を優しく強く、

すべての国を豊かで平和に。

 

 前回に引き続き、わたしが封印している言葉について書く。

 

 最近、「~しかない」という言い回しを、よく耳にする。

 「感謝しかない」という「~しかない」である。

 これもわたしは不快であり、封印している。

 

 「あと10分しかない」「貯金が100円しかない」という「~しかない」は、よい。

 本当にそれ「しかない」のだから。

 人から恩を受け、感謝の気持ちを表すときに「感謝しかない」と言うのは、変だと思う。

 言っている本人は、最大限の感謝の気持ちを表すつもりで使っているのだろう。

 しかし、世の中にはわたしのようなへそまがりな偏屈がいて、「喜び」「感動」「感激」はないのか、と思ってしまう。

 「驚き」はなかったのか。

 

 わたしは、たくさんの人に迷惑をかけ、助けられ、を受けて生きてきた。

 わたしを支えてくれた人々の力がなければ、今まで生きてこられなかったと思っている。

 を受けるたびに、感謝する。

 感動し、感激し、歓喜する。

 狂喜乱舞することもあるし、感涙にむせぶこともある。反省することもある。

 を受けて、感謝しかなかったことは一度もない。

 わたしを援助し支えてくれた人にお礼の気持ちを伝えるならば、百万の言を以てしても足りない。

 

 「感謝しかない」と言う人も、本当は感激歓喜がないわけではないはずである。

 みんなが使っているから、つい「感謝しかない」という手垢のついた紋切り型の表現を、定型文として無意識に使ってしまうのであろう。

 定型文は、自分で考えなくて済むから楽である。

 感謝の意を伝えるときくらいは、楽をせずに自分の言葉で伝えた方がよいと思う。

 言葉が思い浮かばなければ、手を握り涙を流すだけでもよい。

 「感謝しかない」という薄っぺらな定型文より、ずっと気持ちが伝わる。

 

 いつもこのブログを読んで下さっている人には、大いに感謝している。

 貴重なお時間をこんな駄文のために使わせてしまって、申し訳ないと思っている。

 コメントで御意見や御批判を下さることは励みになり、ありがたく思っている。

 賛同のコメントには勇気づけられる。

 感謝の気持ち以外にも、実にさまざまな感情が沸き起こる。

 だから、「感謝しかない」とは言いません。

 

 ありがとう。

 

 18日の朝日新聞朝刊の読者投稿欄「声」に掲載されていた、「語彙力奪う「やばい」封印したい」という投書に共感した。

 投稿者は16歳の高校生岸本悠依さんである。

 こんな内容である。

 

 私はよく「やばい」という言葉を使う。「この味やばい」などである。

 「やばい」は嬉しいとき、悲しいときなど、何にでも言ってしまいがちで、語彙力低下の原因になっている。

 「やばい」以外の言葉を使って生活しようと試したが、考える前に「やばい」が出てしまった。

 急に使わないようにするのは難しいが、これからも意識して「やばい」という言葉を封印したい。

 

 言葉は、考える道具であり伝える道具である。

 考えること伝えることは、人間だけが持つ他の動物より格段に優れた能力である。

 良く考え良く伝えるためには、良い道具が必要である。

 人間としての能力を存分に発揮するためは、言葉という道具を適切に使いこなせるようにしたい。

 

 「やばい」は、便利な言葉である。

 どんな感情も言い表せて、なんとなく伝わってしまう。

 なんとなく伝わってしまうけれど、細やかな感情正確に伝えることはできない。

 そのことに投稿者の岸本悠依さんは気づき、封印しようと決意した。

 その考えにわたしは賛同する。

 

 わたしにも、使いたくなくて封印している言葉がいくつかある。

 そのひとつが、「~的」である。

 

 いつの頃からであろうか、「わたし的には~」「気持ち的には~」というような表現を耳にするようになった。

 これらの「的」は、不要である。

 「わたしは~」「気持ちは~」でよいのである。

 「的」を使っている本人が、「的」表現効果を意識して使っているのであればよい。

 多くはなんとなくで、不要な言葉を使っているのである。

 「値段的には~」「味的には~」なども、「値段は~」「味は~」でよい。

 わたしは、このような不要な「的」封印して使わないことにしている。

 今までのこのブログを調べてみても、たぶん使っていないはずである。

 

 「~的」には、「積極的」「結果的に」など、すでに言葉として熟して使われているものもある。

 これらはつい使ってしまいがちである。特に会話では言ってしまうこともある。

 他に言いようがないし、許容範囲だと思う。

 わたしは変に意地っ張りなところがあり、「~的」を封印した以上、これらも他の言葉に言い換えるようにしている。

 「積極的に」は、「積極性を持って」「自ら進んで」「強い意欲とともに」など、何通りにも言い換えられる。

 「結果的に」は、「結果は」「結果として」でよい。

 「~的」でなければ表現できない場合や、「~的」という表現が最もふさわしいと考えられる場合は、その価値効果を認識した上で使おうと考えている。

 今のところ、「的」の必要性はほとんど感じていない。

 「わたし的」「気持ち的」などは、聞いていて気持ちわるい。

 他の人に使うなとは言わないが、自分では絶対に使いたくない言葉である。

 

(つづく)

 

 5月2日(土)の朝日小学生新聞「天声こども語」は、世界地図の話であった。

 こんな内容である。

 

一般的な世界地図に用いられているメルカトル図法では赤道近くの国よりヨーロッパや北アメリカの国が大きくなる。小さく見えるアフリカ諸国は、面積が正しく表わされるイコールアース図法の使用を訴えている。

 

 メルカトル図法とは、球体の地球を円筒に投影してから開いて平面にする、地図の図法である。

 地球全体が長方形の地図になる。

 緯線の長さは、すべて等しい。

 北緯60°の緯線の長さは実際は赤道の半分である。

 それがメルカトル図法の地図上では同じ長さになるため、長さの比が実際の2倍になる。

 長さが2倍ということは、面積はその2乗で、4倍になる。

 赤道付近の国との北緯60°の緯線付近の国とでは、実際の面積が等しい場合、メルカトル図法の地図では後者が4倍の大きさに描かれることになる。

 この誤差は緯度が高くなるほど大きくなり、地図上ではグリーンランドは赤道上にある同じ面積の国の17倍になる。

 

 アフリカ大陸の国のほとんどは、北緯20°から南緯20℃の間にある。

 一方、多くのヨーロッパの国や北米カナダは北緯40°から70°の間にある。

 メルカトル図法では、赤道上の国に比べヨーロッパの国々は平均2倍以上の大きさになるのである。

 アフリカの国々が不満に思うのも当然である。

 イコールアース図法では、地球上のどこでも同じ縮尺になる。

 面積比も変わらない。

 

 わたしの教室に貼られている世界地図は、メルカトル図法で描かれたものである。

 赤道付近アフリカ諸国南アジアの国々が不当に小さく扱われているのだが、ほとんど意識したことがなかった。

 子どもたちに地球儀で比べさせてアラスカグリーンランドが地図で見るほど大きくないことを教えることはあったが、ヨーロッパアフリカの扱いの差は考えていなかった。

 迂闊である。

 

 わたしの教室の地図では東経150°の経線がほぼ中心にあり、中心の右側に太平洋がある。

 日本は東経140°の経線上にあるので、中心のやや左側に位置している。

 この地図では、ヨーロッパアフリカ左端北アメリカ南アメリカ右端である。

 上がなので、オーストラリア日本の下にある。

 日本人にとって、これが最も見慣れた当たり前の世界地図である。

 

 この地図を見ていたら、自然と日本を中心とする考え方が身についてしまうであろう。

 アフリカ諸国ヨーロッパの国々より小さく、オーストラリア南米は、にある国だと感じてしまう。

 無意識のうちに、わたしたちは偏見を持ってしまっているのである。

 

 オーストラリアなど南半球の国々では、地図の南を上とするのが一般的だという。日本オーストラリアである。

 ヨーロッパの国々の地図では、日本右の端である。

 

 偏見に気付くためには、いろいろな国や地域で使われている地図を見るべきである。

 アフリカ諸国が訴えているように、イコールアース図法の地図も必要である。

 自分のいる場所を世界の中心と考える悪い癖から脱却したい。

 

 アジアの片隅の小国首相が、自国を世界の中心で咲き誇る国にする、と言っているらしい。

 丸いひとつの地球のどこかを中心と考えるのは無意味である。

 わたしは、地球全体が幸せな惑星になることを願っている。

 イコールアース図法世界地図を手に入れたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 16日(土)の朝日小学生新聞「天声こども語」の話題は自転車の交通違反の反則金であった。

 筆者は元朝日新聞記者国分高史氏である。

 

自転車の違反に反則金が課されるようになった。規則が厳しくなったことをよく思っていない人が多い。車のシートベルトやバイクのヘルメットと同じで最初は面倒に思っても事故の犠牲者が減ることを思えば大切である。

 

 交通事故の犠牲者を減らすために罰則が必要である、という意見にはわたしも賛成である。

 公共の道路を通行する以上、交通ルールを守らなければならないのは当然である。

 今回の自転車のルールの厳罰化について、批判が多いのは車道通行についてである。

 原則として自転車は車道の端を走行することになっており、歩道の通行は違反として反則金の対象となっている。

 車道通行は本当に安全のために有効であろうか。

 

 わたしは通勤に毎日自転車を使っている。

 以前は歩道を走ることが多かったが、今回の法改正後は車道を走るようにしている。

 車道を走ってみて感じたのは、車道の方が危険だということである。

 わたしの通勤路はあまり幅の広くない2車線道路である。

 道の端には側溝があり、車道部分のアスファルトとの間に少し段差がある。

 排水口鉄の網状の蓋で覆われている所もある。

 段差にはタイヤをとられやすく、鉄の蓋はタイヤが滑りやすい。

 どちらも転倒につながる恐れがあるので、側溝を避けて自動車に近いところを走ることになる。

 かなり危険である。

 果たして事故が減るかどうか、きちんと統計をとって実証してもらいたい。

 

 自動車に比べて、自転車走行環境は整っていない。

 自転車行政に軽んじられているように感じることが多い。

 自動車の方が自転車よりも国や自治体の税収に貢献するからではないだろうか。

 日本の大手自動車メーカーの年間売り上げは兆を超える。

 多額の法人税を納めている。

 自転車メーカーで、それほどの売上がある会社はない。

 自動車利用者自動車税ガソリン税などを納める。

 自転車利用者自転車の利用によって特別なを納めることはない。

 国や自治体にとって、自転車利用者はあまりありがたくない存在なのだろう。

 

 国はEV(電気自動車)の購入に際して補助金を出している。

 環境にやさしい、というのがその理由である。

 環境にやさしいという点では、ガソリンも電気も使わない自転車の方がはるかにやさしい。

 自転車利用者にこそ補助金を出すべきである。

 

 自転車の事故が多いとはいえ、交通事故の犠牲者で圧倒的に多いのは自動車バイクによるものである。

 自転車による違反の罰則を強化するのはよいが、それに見合うだけの自転車保護も必要である。

 特に自転車専用レーンの完備は早急に実現してもらいたい。

 車道の端子ども乗せ自転車が走っているのを見ると、ハラハラする。

 子どもたちの安全な移動手段の確保は、少子化対策にも役立つと思うのだが、いかがだろうか。

 

(おまけ)

 現在、自転車ヘルメットの着用は努力義務というあいまいなルールとなっている。

 今後、義務化されるかもしれない。

 わたしは、義務化には反対である。

 わたしはヘルメットが似合わない。

 自転車ヘルメット義務化するのであれば、対象は18歳未満に限定して欲しい。58歳未満でもよい。

 もし義務化されたら、わたしは自転車に乗ることをやめるつもりである。

 

 わたしはよく、YouTube「イングリッシュドクターの非常識な英語」という番組を観る。

 タイトルの通り、英語に関する番組なのだが、わたしの仕事である国語の指導の参考にもなる。

 

 動画を作成しているイングリッシュドクター西澤ロイ氏英語指導の方針は、「木の幹」をきちんと教える、ということである。

 

 例えば「take」という動詞について。

 

 「take」という動詞には、様々な用法がある。

 「take a glass」は、グラスを手に取ることである。

 「take a fox」は、キツネを捕まえることである。

 「take a train」は、電車に乗ることである。

 「take a bath」は、風呂に入ることである。

 「take a break」は、休憩することである。

 「take the road on the right」は、道を右折することである。

 

 日本人の感覚では、物を持つことと、動物を捕まえることは同じではない。

 乗り物に乗ることと、風呂に入ることは、全然違う。

 休憩と右折も、全然違う。

 このように、全く異なる色々な動作を英語では「take」という一つの動詞で表すのである。

 日本語の感覚ではよく理解できないので、しかたなく日本人はこれらさまざまな用法を丸暗記する。

 実は、手に取る、捕まえる、乗り物に乗る、風呂に入る、休憩する、右折する、などは、「take」という木の「枝」「葉」である。

 「幹」を見ないで「枝葉」だけ見ているから、「take」という動詞が理解できない。

 では、「take」「幹」は何か。

 以下は、西澤ロイ氏の解説をわたしなりにまとめたものである。

 

 イングリッシュドクター西澤ロイ氏は、「take」積極的に選んで手で掴むこと、と説明する。

 その掴むものは、物体だけでなく状態行為の場合もある。

 

 「take a train」に於いて掴むものは、「train」という「乗り物」ではなく、「移動手段」としての「train」である。

 「移動手段」として積極的に「train」を選び取る、というのが「take a train」なのである。

 

 「take a bath」「bath」は、物体としての「風呂」ではない。

 「bath」は、「入浴」という行為である。

 物体としての「風呂」は、「bath tub」「bath room」である。

 「take a bath」は、積極的に「入浴」という行為を行う、ということである。

 

 「take a break」も同様に、「休憩」という行為あるいは状態を積極的に選択するのである。

 似た表現に、「have a break」がある。

 「have」「take」の違いは、積極性の差である。

 「take a break」は、時間になったから休憩する、というのではなく、積極的に休憩に入る、というときに用いる。

 

 このような西澤ロイ氏の説明で、わたしは「take」という動詞が腑に落ちた

 西澤ロイ氏はこの要領で、基本的な動詞や助動詞、前置詞などの「幹」を説明する。

 「幹」が分かると、「枝葉」の部分も分かってくる。

 

 このように、言葉を「枝葉」でなく「幹」から理解する、という考えは、英語だけでなく日本語を正しく理解する上でも有効である。

 言葉だけでなく、数学、物理、歴史、政治経済などにおいても有効であろう。

 さまざまな学びに於いて、「幹」は何か、という視点を持つことでより深く正しい理解ができる。

 生徒たちに「幹」「枝葉」を意識させる指導を、工夫したい。

 「イングリッシュドクターの非常識な英語」からの収穫である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 先週の水曜と金曜に、娘の学校の学校公開に行ってきた。

 わたしが中・高生のころ、わたしの学校にも授業参観という行事があったが、保護者が決まった日に1、2時間、授業を見学するだけだった。

 娘の学校では学校公開と称して、3日間、1限目から5時間目まですべてのクラスの授業を見学できる行事になっている。

 

 高校生の保護者はあまり行かないようだが、わたしは2日、見学に行った。

 娘の授業の様子を知りたいということもあるが、自分の仕事の参考にしたいという気持ちが強い。

 わたしの教室にもこの学校を受験する生徒がいるので、どんな先生がいてどんな授業をやっているのか、情報収集するという目的もある。

 というわけで、水曜と金曜の2日、1限目から4限目まで、ほぼすべてのクラスを覗いてきた。

 

 授業の内容は、玉石混交であった。

 自分が生徒だったらこんな授業を受けたい、と思う良い授業もあれば、そうでない授業もあった。

 自分が受けたいと感じた良い授業には、共通点があった。

 この2つである。

 

①先生が、教える内容を深く理解していること。

➁それを生徒にわかりやすく伝えようという情熱と、わかりやすく伝える技術を持っていること。

 

 もっとも面白くて役に立つと感じた授業は、高校生の「情報」であった。

 先生は、インターネットやAIの進歩によって現代の世の中が大きく変わりつつあることについて、自分自身が非常に興味を持っており、その面白さや危険性を生徒に伝えようという熱意を持っていた。

 教材として使用していたパワーポイントのスライドも、警視庁作成のアニメ動画やアメリカ映画の予告編など、バラエティに富んだ素材を採り入れており、50分の授業があっという間に感じられた。

 作成に膨大な時間を費やしていることは間違いない。

 しかも、その作業を先生自身が楽しんでいるのが伝わってきた。

 良い授業であった。

 

 退屈極まりない授業もあった。

 高校2年生の「家庭科」の授業では、「子どもの発達」を教えていた。

 先生が教科書を読み上げ、生徒に線を引かせるだけの授業であった。

 その先生自身が子どもの発達に関して興味も知識もなく、生徒に教える意義も感じていないことが伝わってきた。

 うちの娘の授業だったので帰宅後に感想を聞いてみると、「退屈。教科書は自分で読めば分かる」という予想通りの感想が帰ってきた。

 

 全体としては、良い授業が1割、そうでない授業が9割という印象である。

 良い授業は大いに見習って、自分の仕事に役立てたい。

 そうでない授業も、人の振りみてわが振り直せ、で、自分の仕事の質の向上に役立てたい。

 

 生徒たちはみな礼儀正しく、好感が持てた。

 高校部にはスポーツ推薦で入学した生徒ばかりのクラスがあるのだが、そのクラスの生徒はみな廊下ですれ違うわたしに大きな声で「こんにちは!」と挨拶をしてくれた。

 わたしも負けじと大きな声で挨拶を返した。

 気持ち良かった。

 いい学校である。

 

 朝日新聞朝刊の読者投書欄「声」に、「学校から 若い世代」という特別欄がある。

 学校単位で送られてきた、生徒の投書が掲載される。

 5月12日(火)は、兵庫県の雲雀丘学園高校からの投書であった。

 そのひとつめは、「憲法学ぶ 自分と周り守るため」という、島村恵太さん(16)の投書である。

 こんな内容である。

 

 憲法は私たちの生活を守る大切な約束である。学問の自由、表現の自由、平等に扱われる権利など、すべて憲法で保障されている。ただ、憲法について考える機会はあまりない。私たち高校生も憲法について考え、意見を持つことが大切である。学び、考えることで、自分や周りの人を守る力を育てたい。

 

 島村恵太さんのいう通り、学校で憲法について学び考える機会は多くない。

 社会科の授業で習うが、試験に出るから一通りのことを教える、というレベルで、社会で生きていく上で必要な、重要かつ身近な知識という実感、ほとんどの子どもたちは持っていない。

 大人になって社会に出ると、ますます憲法の勉強をする機会は少なくなる。

 やはり学校で時間をかけてきちんと教えるべきであろう。

 憲法を知ることで、日本がどのような国で、自分が日本の主権者としてどのような権利義務を持っているか、知ることができる。

 

 わたしは、高校時代に現代社会の授業で憲法を習った記憶がある。

 授業そのものは知識を一方的に教えるだけのそっけないものであったが、第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とう条文に、わたしは深く感銘を受けた。

 生存権とは、ただ生命を維持するだけの権利ではなく、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」なのである。

 この条文を知って以来、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という考えは、わたしの思想や行動のひとつの指針となっている。

 

 戦場で殺したり殺されたりするのは、「健康で文化的な最低限度の生活」を満たしていない。

 戦争徴兵制は、憲法25条に反する。

 

 新型コロナが流行したとき、多くの人が感染し命を落とした。

 感染しなかった人や感染したが回復した人も外出などのさまざまな活動を制限され、「健康で文化的な最低限度の生活」ができなかった。

 国が感染症対策を十分に行わないのは、憲法25条に反する。

 

 貧困家庭の人が十分に衣食住を手に入れられない状態は、「健康で文化的な最低限度の生活」が満たされていない。

 福祉の充実は、憲法25条を守るために国家が必ずやらなければならないことである。

 

 憲法前文の末尾には、こう書かれている。

 

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。

 

 また、第12条には、こう書かれている。

 

 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。

 

 憲法国家権力が守らなければならないルールであるが、われわれ国民は国家に丸投げしておいてよいものではない。

 日本国民「全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成する」のであり、「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」のである。

 わたしも日本国民のひとりとしてつねに憲法を学び、考え、また子どもたちに教えていかなければならない。

 島村恵太さんのように、憲法を自分のこととして学び考える人が多くなり、憲法崇高な理念が実現されることを切に願っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 10日(日)の朝日俳壇に、おもしろい句があった。

 

遠足の園児の列におぢいさん   (蒲郡市 三田土龍)

 

 歩みの遅いお爺さんが、遠足の園児の列に飲み込まれたのであろう。

 元気な園児の集団の中にポツンとひとり老人が混じっている情景を想像すると楽しい。

 

 この句の手柄は「おぢいさん」というひらがな表記である。

 「お爺さん」でもなく「おじいさん」でもなく「おぢいさん」としたのは、その視覚上の効果を意識してのことであろう。

 この句は「おぢいさん」でなければならない。

 試しに並べてみるとよくわかる。

 

遠足の園児の列にお爺さん

 

遠足の園児の列におじいさん

 

遠足の園児の列におぢいさん

 

 断然、「おぢいさん」がよい。

 小柄な、かわいらしい老人の様子が目に浮かぶ。

 「ぢ」「じ」の違いは大きい。

 

 「おばあさん」でなく「おぢいさん」であるところも、よい。

 「おばあさん」では、印象の上で「園児」との距離が近すぎる。

 「おぢいさん」の、ちょっと場違いなおかしさが「おばあさん」では薄れてしまう。

 こういう感覚は理屈で説明するのは難しいのだが、わかっていただけるだろうか。

 

 現代の私たちは、詩歌を音よりも文字で鑑賞することが多い。

 どのような文字で表記するかで、その印象は大きく変わる。

 ひらがなか、カタカナか、漢字か、アルファベットか。四つの表記を持つ日本語の豊かさが嬉しい。

 

 同じ10日の朝日新聞朝刊に、永田和宏氏岡野弘彦氏への追悼文を寄せていた。

 その中で、「岡野弘彦はまた、歌の韻律、歌の姿の美しさを追求し続けた歌人でもあった」として、次の歌を挙げている。

 

ごろすけほう心ほほけてごろすけほうしんじついとしいごろすけほう (『飛天』)

 

 この歌について永田氏は、「ほぼすべて平仮名で、ふくろうの鳴き声だけからなる一首。「心ほほけて」「しんじついとしい」という心情告白が「ごろすけほう」に囲まれることによって、深夜に一人、はるかな人を恋う切なさが際立ってくる一首である」と評している。

 

 ひらがな表記といえば、山添聖子さんにこんな歌がある。

 

ひらがなの「ら」のふくらみに花びらが入っているのは四月だけです

ひらがなで書けば桜は散ってゆくさくらさくらは落花の軌跡

               (「コスモス」2026年1月号)

 

 四月の「ら」のふくらみに花びらが入っていること、散る桜はひらがな「さくらさくら」であることを、最初に発見したのは山添聖子さんであろう。

 

 園児の列の中の老翁を「おぢいさん」と見た三田土龍さん

 ひらがな「さくらさくら」落花の軌跡を見た山添聖子さん。

 その詩人の感性に、ただただわたしは感服するばかりである。