はじめに

 私は広島高等師範学校付属小学校を卒業した。この学校では男女共学、四十余人のクラス編成だった。入学から卒業までの六年間を通して大久保肇という先生が担任して下さった。先生のお人柄がとても良く、六年間クラスを共にし、原爆という深刻な体験を共有したからであろう。級友は今でも相互に親蜜で毎年集まりを持ち、会話「馨友」を作成・配付している。会誌の世話役の堀之内君から、平成二十一年度は、昭和二十年の終戦のときのことを中心にそれぞれの体験・思いを書いて欲しい、との要望があった。私は現在体調がかなり悪く、原稿を書くのは辛いと思った。しかし、自分の人生の中で最も痛切な記憶が刻まれた時のことである。胸中の思いを書き遺しておきたいとの気持ちもあった。それが堀之内君の誘いに融発されて投稿。「馨友」四号に掲載された。

 その後、この文章を何度も読み返した。そのうちに表現の不適切なところ、書き足りないと思う事柄が気になり始め、この改訂版の作成を思い立った次第である。

 

1、昭和二十年のことと原爆後遺症

  (1) 呉の海軍工廠でのこと

    昭和二十年四〜七月中旬、旧制広島高等学校理科甲類に年生の時、私達は学   徒勤労動員を受け、呉の海軍工廠に派遣された。当時は九州などの基地から、   沖縄に向かって特攻隊機が盛んに飛び立っていた時期である。私達の仕事はこ   れらが機体に装着する五〇〇キロ爆弾の製作だった。

    ある日の日中米軍機の大群による猛烈な爆撃を受けた。当日は夜勤だったた   め、私達は工場に比較的近い工員寮で休んでいたが、空爆時には寮に隣接する

   横穴防空壕に避難した。爆撃は大型爆弾によるもので、落下のたびに腹にこた   えるような地響きがし、天井の土がバラバラと落ちてきた。そのうち寮が被弾   して炎上、大急ぎで防空壕から出て退避した。寮の建物と防空壕の入り口との   距離は極めて近く、そのままでは蒸し焼きになる恐れがあったからである。

   防空壕の入り口の直前には爆弾に抉られた大きな擂鉢状の穴が出来ていた。

   爆弾がもう二、三米近くに落ちていたら、そのとき私の人生は終わっていただ   ろう。昼夜兼行で懸命に爆弾を製作していた工場は見る影も無く破壊された。

   昼勤で工場にいた人には死者が出たと聞いた。

  (2) 日本製鋼所への移動

    昭和二十年度には、戰局のため、広島高等学校の入学時期が大幅に遅れ、七   月にずれ込んだ。新入生は広島近郊の日本製鋼所に勤労動員されることになり

   全員直接現地に集合するよう指示された。そこで工員寮内の一部を借りて、    「薫風寮」(本来は広島市皆実町の校舎の近くにあった広島高等学校の寮の名)と

   呼び、第一〜第六寮を設けた。それぞれに新一年生四十余人が入寮、三人の二   年生が「寮委員」としてつき指導することになった。私は寮委員の要員として   呉から日本製鋼所に移るよう指示され、竹政君、田辺君と共に第一寮の寮委員   に任じられた。

    新一年生の寮への到着は、切迫した戰局のためばらばらで、かなりの日数を   経てやっとほぼ全員が揃ったと記憶する。当初は、旧制高校のルールや寮歌を   歌えるのに精一杯だった。こうして、同じ寮の仲間の名前と顔をやっと覚えた

   頃に八月六日を迎えた。

  (3) 八月六日

    当日、日本製鋼所は「電休日」で工場の作業は休みだった。私は寮に残り寮   務をしていた。広島市に自宅がある寮生や広島見物の寮生の一部は朝早く寮を   出て広島市内に入った。

    八時過ぎ、突然、閃光・大音響と共に強烈な爆風が寮の建物を襲った。窓ガ   ラスは粉々に砕け散り、私の顔にも無数の破片が突き刺さった。とっさに近く   に爆弾が落ちたものと思い、在寮性は近くの山の防空壕へと急いだ。しかし近   くに爆弾が落ちた様子は見当たらない。そうしているうちに、広島市の上空の   真っ青な空に巨大なドーナッツ状の赤い輪が現れその中心に白い雲が生じた。

   この白い雲はみるみる大きく高くなり、やがて巨大なきのこ雲となった。

    きのこ雲の頂では雷が発生しているように見えた。いったいそれらが何を意   味しているのか分かるはずがない。怪訝な思いを抱きつつ寮に帰った。

   それから、どの位経ったであろうか。広島市の方向から殆ど裸で大火傷をし、   皮膚がまるで桃の皮のように剝けた人達が続々と逃げてきた。日本製鋼所の工   員寮の空いたスペースはそれらの人々の救護所に早変わりした。そしてこれら   の人達の言葉から広島市で何が起きたのか段々と分かってきた。しかし、それ   は想像を絶することだったので事態がなかなか飲み込めなかった。

    そのうち、広島市に出かけた寮生達に遭難者があることが分かってきた。

   そこで寮ごとに捜索・救援活動をすることになった。第一寮では、大宮正雄君   が負傷した状態で帰寮し、同行した寮友某君と広島市のある橋の袂で被爆、別   れ別れになった旨報告した。寮委員の三人は協議のうえ、大火傷を負った大宮   君の看護体制をとるとともに、私が一年生四人程をつれて現地に向かうことに   なった。現地に近づいた時にはすっかり日が暮れていた。橋の近くの一帯はす   でに殆ど燃え尽きていたが、なお残り火があちこちでチロチロと燃え、地面か   らは強烈な火照りが感じられた。多数の遭難者が焦土に倒れ臥しその多くは既   にこときれていたが、中にはまだ生きている人もあり、最期の力を振り絞って

   「助けて下さい」、「水を下さい」と訴えた。それらの言葉には肺腑を る凄   みがあり長く耳底に残った。若干の人達には水筒の水を飲ませたが、すべての   人にというわけにはいかず、目的の場所へと急いだ。

    目的の場所についてみると、あまりにも徹底的な破壊に捜索の仕様がなかっ   た。しかし、折角来たのだからと三十分位も探しただろうか。結局見つけよう   も無く帰寮し、状況を竹政、田辺両君に報告した。

  (4) その後の捜索

    それからも私が捜索隊長の役を引き受けることになり、原爆投下後、当日、   翌日を含め殆ど連日市内各所を捜索して回った。一年生はその都度違った人に   協力してもらったように記憶する。爆心地(広島市の市街地のほぼ中央) を中央

   とする半径約二キロメートルの地域では、完全に家屋が焼失し、地面には焼け   爛れた無数の遺体が散乱していた。火災を免れた市周辺部の小学校などの施設

   には、即死を免れようやくたどり着いた遭難者たちが、足の踏み場も無いほど

   の間隔で並べられていた。しかしこれらの人々も次々と死んでいき、救護所は

   たちまち死体置き場となっていった。焼失した市街地に放置された遺体、市周   辺部施設の遺体は真夏の暑さにみるみる腐敗し、耐え難いほど強烈な死臭を放   った。市内にあった幾つかの川には死体が沢山浮き、川の流れのままに運ばれ   ていた。赤ちゃんを脇にしっかりと抱えて流されていく若いお母さんの姿が印   象に残っている。私達捜索隊は一見して女性や子供と分かる人達は別として、

   同じ寮の人はいないか、いちいち顔を覗き込んで捜索した。無残に傷つき焼け   爛れた遺体を何千、何万見たであろうか。

    結局、捜索により遺体を発見し、お骨を遺族の方にお渡ししたのは藤井君一   人だった。彼の遺体を発見してくれたのは他の寮の人で、広島駅の西側の踏切   で見たという。そこで私が確かめに行き本人であることを確認した。彼の表情   は今も鮮明に覚えている。翌日、一年生四人位をつれて焼きに出かけた。

   しかし、彼の遺体は前日見た場所には無く、軍隊が市街地の多くの遺体を東練   兵場に運び、そこに並べて焼こうとしているところだった。多くの遺体の中か   ら藤井君を見つけ、隊長に事情を述べたところ、一番端の分かりやすい場所で   焼いてくれることになった。そこで一年生達は寮に返し、私は自宅(焼失を免れ  

        ていた) に行き陶磁器用の桐の箱を携えて現地に戻り、在り合せの篠竹を折った   箸で遺骨を箱に納め寮に持ち帰った。この箱は後日、寮を訪れた同君のお身内   の方にお渡した。

    八月六日に大火傷をして帰郷した大宮正雄君は、寮生が協力して介抱してい   たが、まもなく亡くなった。私どもは彼の遺体を山の火葬場に運び荼毘に付し   た。結局私のいた第一寮の死者は、被爆後二十日頃までに五人、他の寮でもそ   れぞれに死者を出し、六つの寮全体で三十人を超えた。その後亡くなった人も

   あったに違いない。

    八月十五日に終戦を迎え、負傷者達(前記死者のほかそれぞれの寮で何人かの   

         負傷者を抱えていた。) のうち自力で帰れない人を手分けして彼らの自宅あるい   は親戚の家に送り届けることになった。私は河野裕治君を彼の叔母さんの家の   ある大分県の小さな町に届ける役を引き受けた。列車は混雑を極め石炭運搬用   の無蓋車に乗せるのが精一杯だった。長時間をかけてやっとその家のある町の   駅に到着した。彼は自力では歩けなかったので、列車外では背負って移動した   ように思う。目的の家に着いた時には、私も疲れとこの頃出始めた放射能障害   のためパッタリと倒れ込み動けなくなった。血尿も出た。叔母さんご一家は私   を親切に扱って下さったが、食料が極端に不足していた折でもあり、三、四日   後、ご挨拶をして帰路についた。ようやく寮にたどり着いたが既に閉鎖されて   いた。そこで事情を推察し、広島市牛田町の自宅に帰った。家は爆風でかなり

   痛んでいたが焼失だけはまぬかれていた。近くの小公園からは来る日も来る日   も遺体を焼く独特の臭いが流れて来た。

  (5) 私の放射能障害

    原爆投下二〜三週後から放射能障害が起こり始めた。体が異常にだるくなり

   目に見えないようなかすり傷までがく化膿し、体中いたる所に細長く黄色い膿  

         の盛り上がりが出来た。それに加え昼夜を分たぬ下痢が起こるようになった。

    この状態は翌年の三月頃まで続いた。昭和二十年の末には、母、結核療養中   の兄、被爆して火傷を負った妹、それに私の四人で父の実家のある山口県のあ   る村に転居した。(父は末子の弟を伴い東京に赴任中) 

   昭和二十一年度は原爆症のため高校を休学した。

   祖父母は農業を営んで忙しく働いており、何もしないのは心苦しかったが体が   動かない、やっと手伝いが出来るようになったのは昭和二十一年の秋だった。

    原爆症による体の不調、生きる目的を見失った精神的な苦しさから一時、学   業をやめようと思ったが父の強い励ましがあり、昭和二十三年、東京の大学に

   進学した。

    原爆症特有の体のだるさは昭和二十三年から同四十二頃までは周期的にほぼ

   規則正しく起こった。一周期は8〜9日くらいで、前半はほぼ正常、後年は異   常なだるさを伴う特有の症状が表れた。(広島の被爆者の間ではそれを「原爆ぶ   らぶら病」と呼んだ。だるくて体が思うように動かずぶらぶらするほかなかっ   たからである。)そのときはまことに苦しかった。その後、症状の起こり方が

   不規則になり、症状の強度も上下を繰り返しつつ次第に軽くなった。特徴的な

   症状が完全に現れなくなったのは、昭和七十年つまり被爆後五十年を経た時期   以降である。

  

 2、あの戦争の経験から思うこと 

  (1) 「戦争で死ぬということ」の実感を伝えること

   「終戦」後六十四年を経て、あの戦争を直接経験した世代が少なくなり、社会   全体の中で戦争への実感が薄れてきた。しかし、今年八十三歳になった私の長   い人生の中で、あの戦争、特に昭和二十年に経験したことは最も強烈・痛切な   記憶として、脳裏に刻まれている。占領していた南方の島々で日本軍が次々と   「玉砕」し、フイリッピン、沖縄と加速度的に米軍が迫ってくるのを実感し、

   私は、そしてたぶん多くの若者たちは、ごく近い将来に確実に死ぬであろうと

   感じていた。私には地上戦の経験は無かったが、呉での猛烈な爆弾攻撃、広島   での原爆の経験から、近く行われるであろう「本土決戦」がいかに残酷なもの   であるか容易に推察できた。そして自らの死に備えて心をどのように整理すれ   ばよいか迷っていた。「天皇陛下のために死ぬのは日本人として名誉なこと」   と言われても、「生きたい」という当然の本能をもつ若者にとって、そう簡単   に自らの心を納得させることが出来るわけがない。

    さらに「生きたい」という本能だけが問題ではなかった。あの戦争の正当性   への疑念もあった。人は自らの死が不可能と思うとき、生以上に価値あるもの   を求め、それにより生への執着を抑えようとする。当時日本では戦争を正当化   する様々なことが言われていた。それらのうち、前記のような私の気持ちを比   較的もっともと思わせたのは、あの戦争が欧米の植民地主義からアジアの諸民   族を解放するための戦いだ、ということだった。実際、当時はアジアの大部分   の地域は欧米の植民地であった。中国も多くの利権を帝国主義国に剥奪されて

   いたからである。

    では、このような意味でも「聖戦」論に心から納得できたか。私のように知   的に未熟なものにとってもそうはいかなかった。広島市は当時「軍都」である   ことを誇りとし,街を軍人が闊歩していた。そのため軍人・軍隊との接触は頻   繁でその体質を肌で感じていた。市の南には宇治港があり、軍隊、軍需物資の   輸送基地で中国とのつながりが深かった。こうして関係から日本軍が中国でど   んな残酷なことをしているか、公式報道とは異なることがヒソヒソ話のかたち   で耳に入っていた。また、当時広島市には朝鮮半島から移住した人達がかなり   多く住んでおられたが、もともとの日本人は彼らを著しく侮辱しており、日本   政府の製作も朝鮮半島の人達を見下したものであった。

    アジアの人達を欧米の植民地主義から解放する、そのために日本人は命をか   けて戦うのだ。というきわめて崇高な政府・軍の言い分と前記の現実との乖離   はあまりにも大きく感じられた。しかし、そのことにこだわると死に立ち向か   う心が乱れてしまう。そこで、あの戦争の基本はアジアの解放であり、中国、   朝鮮半島の人達へのことは付随的なことと無理にも思い込もうとした。若い世   代の私でもそんな気持ちを抱いたのである。もっと上の世代の勉強を重ねた人   達にはあの戦争の正当性についてより強い疑念、さらには明確な否定の思いを

   抱いた人達があったに違いない。事実、岡部伊都子の婚約者などそうだったの   である。さらに、次のことも重要と思う。

    人が極限状態に置かれたとき、その内面では利己と利他が厳しく対立する。

   このことは私も痛感したが、体験者の証言は多い。軍艦・汽船が沈没し救命ボ   ートの容量が限られているとき,安全な避難場所が限られているとき、食料が

   極端に不足するとき等々、多くの個人・集団・組織は利己の道を選ぶ、日本人

   がそれまで共に働き戦ってきた同胞を死に追いやるのである。戦争のもつ残酷   さ・餽悪さの極致と言えよう。

    戦場での個人の死のありかたは、その人の思想・人間性と、たまたまどのよ   うな状況に置かれたかという偶発的な要素により大きく異なるであろう。

   これらの結果、中には何の迷いも無く死んでいった人もあろう。しかし、あの   戦争の膨大な死者達の多くは、唯一度のかけがえのない生を、心に深い悩みや

   恨みを抱きつつ、かつ言語に絶する肉体的な苦しみを覚えつつ絶たれたのでは   ないかと想像している。

    戦争が過去のものと感じられるようになった今もなお、南の海の底には三千

   数百隻の無残に破壊された日本の輸送船や軍艦が沈み、無数の遺骨がその内部   や周辺に散乱しており、太平洋の島々、アジア大陸の広範な地域に沢山の草む   す屍が存在しているという。この厳然たる事実を決して忘れてはならない、と

   思う。

    今の世の中の状況は当時とはあまりにも違う。人は直接的に経験したことと

   余りにも隔たった事象については、推察することすら困難である。「戦争を語   り継ぐ」とはよく使われる言葉だが、そのことの困難を身に沁みて感じている

   しかし、われわれが生きている限り、戦争による死の生々しい実感を何とか語   り続けたい。次の世代の方々には、上記のような戦争における死を、わが身の   ことの如く感じ取るよう努めて頂きたい。それは戦争と不可分な関係にあるわ   が国の安全保障の問題,さらに世界平和構築の問題を考えるうえで根源的なこ   とだからである。

   (2) 戦争の無い世界を構築するための知的努力とそれに基づく国際社会での努力

   人類が少なくとも数千年の間、戦争を繰り返してきたことは紛れも無い事実で

   ある。この動かしがたい事実には深い根拠があるに違いない。このことから、

   平和を叫ぶことは容易だが戦争を無くすることは容易ではないと思う。

    現在も戦争・戦闘が絶えない。私は日本が戦争の当事者になることはもちろ   ん望まない。しかし、日本が平和でさえあれば他の国はどうでもよいとは決し   て思わない。その理由はただ一つ、戦争による死の当事者にとって,唯一度の

   かけがえのない生を失うことの苦しさ、そして残された肉親の悲しみは人類普   遍のものと思うからである。

    私は我が国が主体的・積極的に戦争の無い世界の構築に寄与することを願う

   ではどうすればよいか。近道はありえない。過去の戦争の歴史,特に近現代の

   戦争(テロを含む) の歴史について、その表面的な経過だけではなく、その背景   まで深く掘り下げる知的努力を様々な視点(注)から相互連携しつつ営々と進める

   こと、その基盤のうえに国際社会で説得力のある発言・行動を積極的に行うこ   と、それにより同調する国・国民を広げ、戦争を続けてきた過去の構造を根底   から変えていくこと、これが唯一の道と思う。

    目標の達成には長い時間がかかる。その間、様々な難関に直面するだろう。

   その都度、罪の無い人々の戦争による死を避けるため最大限の努力をしつつ、

   前記の営為を粘り強く積み重ねる他は無い、戦争の無い世界実現のための困難   で長い道を歩む強い意志の根源は、前記一、で述べた戦争の残酷さに対する生   々しい実感だと思う。その意味で「戦争の体験を次の世代に伝える」ことはや   はり重要と信じる。

    過去において戦争の加害者として膨大なアジアの人々を殺害し、かつ戦争の   残酷さの極限である原爆を人類史上初めて経験した日本人には、この方向を押   し進める使命があると考える。

    なお、先ほど述べた知的努力が実を結ぶためにはいくつかの要件がある。

   ひとつは特定のイデオロギー(皇国史観、唯物史観など) にとらわれないことで   ある。特定のイデオロギーにとらわれると、なにもかもそのイデオロギーに合   うよう解釈する傾向が生じ、考えを深めることが出来なくなってしまうからで   ある。幅広い判断材料についてそれぞれが自分自身の頭で考え、どこまでも思   考を深めていくべきだと思う。

    次に、幅広い資料・情報の収集と公開、思想、言論の自由の確保である。

   これらがあってこそ、前述の知的な営みが保障されるからである。しかし、い   くら言論の自由があっても、それぞれの国、時代の無形の「空気」があり、そ   れに流されないよう常に注意を怠らないことが必要であろう。

    戦争を主題とした番組・記事は今日に至るまで数多く繰り返されてきた。

   それらを見ていると、戦中派的平和主義者とその同調者の発言には、戦争の残   酷さ・戦没者の胸中への熱い思いが感じられ、この点には共感を覚える。

   しかし、彼らの考え方はあまりにも情緒的な段階に止まっていることが多いよ   うに思う。それでも戦争経験者が多かった時代には、心から心へ直接伝わるも   のがあり、ある程度の説得力を持ちえただろう。しかし、戦後世代が増えるに

   つれて、次第に説得力を失ってきたように感じる。

    他方、それに対する側の一部優れた論者には、国益対国益が錯綜する国際社   会の現実を直視するリアリズムがある。それは大切と思うが、この種のリアリ   ストには、ともすると既存の構造を固定的に考える傾向や、ものごとを抽象化   して考える傾向が強く、戦争と不可分に結びついた具体的な人の死に対する生   々しい実感が希薄なように思えてならない。

    次の世代の方々には、戦争の残酷さを感じ取る人間的で鋭敏な感性と、国益   の錯綜する複雑な国際社会の現実を直視しつつ非戰の論理を生み出す知性、こ   の二つを兼ね備えるという困難に果敢に挑戦して頂けないだろうか。そして、   それを平和実現のための知的探求や国内的・国際的な実践活動に結び付けて頂

   けないだろうか。この挑戦は唯一度の己の人生を賭けるだけの価値をもつもの   と思うのだが。

    (註 政治、外交、経済、軍事等に関する諸学問、文化人類学、行動生理学、進化生物学等々 )

 (3)アジア諸国の人たちに対する戦争責任

    この問題について多様な意見があることはよく承知している。随分多くの本   を読み、また話を聞いた。その上での私なりの結論は、アジア・太平洋戦争は   多くのアジア諸国に対する侵略戦争であり、日本人はこの地球に住む人たちの   人権を蹂躙し、かけがえの無い命を奪い、その肉親達に癒えることの無い悲し   みと困難を与えたということである。この戦争において日本が殺害したアジア   人達の数は膨大であり生確な数は不明だが日本の戦没者よりも遥かに多く二千   万人とも言われている。これは実に大きな罪であったことを深く自覚し続けな   ければならないと思う。こう言うと、「部分的には良いこともしたではない    か」とか、「ヨーロッパの帝国主義国も同じではないか、日本だけが責められ   る理由はない」といった自己正当化の論がよく返ってくる。しかし、私は、い   ろいろ理由をつけて言い訳や自己正当化をする人よりも、過ちを犯したならば

   潔くそれを認め、他人よりもより厳しく己を責め、その上でもっと立派になろ   うと努力する人のほうを尊敬する。多くの人達もそうではないだろうか。この   点は国際社会での他国の評価についても同じなのではないだろうか。国際社会   の中で前記二、のような進路をとろうとする際、真の理解者・同調者を増やし   ていくためにもこのことは必要と思う。特にアジアの諸国民と真の和解を遂げ   協調を進めるうえできわめて大切と思う。

    愛国とは何か。それは狭いナショナリズムに基づく自己正当化ではない。

   人類に普遍的な規範(国境を越え、一人ひとりの唯一度の生を尊重すること) に

   沿って自らの国を高めていくことこそ真の愛国だと思う。

  (4) 戦没者に対する追悼について

    前記のように、私は特攻隊用の爆弾の製作に従事した。一体何人の若者が私   の作った爆弾とともに南の海に散っていったのか。そのときの彼らの心の中を

   想像するとき胸の痛みを禁じえない。そのほかの膨大な人たちの死に至る過程   での心身の苦しみは如何ばかりだったか。自らも死を不可避のものとして実感   した経験をもつ身として彼らに対する哀悼の念は人後に落ちないつもりである

    問題は追悼の仕方である。私なりの結論を言えば、死者たちを美化・聖化し   たくない。ということだ。それは彼らを冒涜せよということではない。彼らの   死に至る過程での心と体の人間的な痛みに寄り添い、それを理解する努力をす   ることこそ最も大切、ということである。理解者がある、ということは最大の   慰めだと思っているからだ。

    戦没者の肉親は死者が無意義なことのために死んだと思いたくない。それは   人情である。しかし、その意義をあの戦争の正当性あるいは部分的な正当性に   求めることは同意できない。彼らがなぜ死に至ったか、その歴史的経緯を正し   く認識・反省し、先に  述べたような努力を積み重ね、国際社会の中で戦争

   の無い世界を構築するために生かすこと、これこそが彼らの死を最大限有意義   なものにする道だと信じている。

  (5) 日本国憲法における主権在民と人権尊重

    戦争末期には、日本の勝利はもはやありえないことが事情通の人達の多くに   は明らかだった。しかし、陸軍の首脳部は徹底抗戦を主張し、本土決戦、一億   玉砕を叫んでいた。一方、一部「重臣」達の間では戦争終結策が模索されてお   り、その場合、最優先されたのは「国体護持」であった。天皇な天つ神の万世   一系の子孫であり、その権威・権力(註)の根源はそこにあるとされた。

    一方、国民は即「なんじ臣民」であり、天皇のために生まれ、天皇のために   死ぬべきものとされた。本土決戦準備の時間稼ぎのため、また最優先された国   体護持策を立てるのに手間取った結果、「終戦」は遅れに遅れた。その間、特   攻隊に象徴されるように、国民の命は塵・ のように軽く扱われた。若者達の

   純真な心に付込んで如何に多くの青少年を死に追い遣ったことか。沖縄県民は   国内唯一の地上戦への参加を要求された。当時の陸軍の体質を肌で感じた経験   をもつ私には、それが如何に苦難に満ちたことであったか容易に想像できる。

   沖縄県民にしわ寄せされた苦難は、今もなお巨大な米軍基地のかたちで延々と   続いている。戦後すでに六十余年、同胞としてまことに申し訳ない。この状況   を何としてでも打開しなければと切に思う。それは長い間、沖縄に犠牲を強い   てきた政府と本土国民の責務である。本土でも米軍による空爆のため多数の命   が失われた。

    敗戦後、米占領軍の指示により明治憲法が改正されることとなった。当初、   日本の指導層は何とか明治憲法的な天皇制の性格を残そうと固執した。しかし

   結局米側に押し切られ、新しい憲法の前文に主権在民が明記された。

   天皇は主権者たる国民の総意のうえに象徴としての存在を認められることにな   った。まさにコペルニクス的な転回である。さらに憲法本文に基本的人権の尊   重も明記された。戦争中、とくに戦争末期の状況を思い起こすとき、これらは   本当に良かったと思う。残念ながらこれらは米国側の圧力によることは歪めず

   国民の側の自覚の盛り上がりの結果ではなかったが。

    主権在民はすばらしい。しかし、これは国民が国の進路に対して極めて重い   責任を負うということと表裏一体をなすものである。直接政治にかかわるので   はなくても、絶えず社会、国、世界の出来事に関心を持ち、学び、それを選挙   に活かす義務、さらに直接社会に訴える義務を負うと言うことだと思っている

    (註) 日本の天皇は権威は持つが権力は持たない、との見解がある。しかし、

   明治天皇下での昭和天皇が、あの戦争において実質的にかなりの影響力を発揮   した史書は少なくない。国体護持が唱えられていたときの「国体」はこの明治   憲法的な国の体制である。

   (6)  持続可能な世界の構築と戦争の無い世界の構築

    現代文明を基礎としたシステムは持続可能ではない。有限資源の消耗、濃縮   されたかたちで存在する物質の拡散など、一言で言えば地球上の物質循環のサ   イクルが閉じていないかである。そのひとつの結果が地球温暖化である。人類   は目先の利便を追求することにより自らの生存基盤を破壊しつつある。このま   までは人類社会は必然的に崩壊の時を迎えるであろう。そのときの状況は残酷   極まるものに違いない。世界各国は協力してそれを避けるため持続可能な新し   いシステムを作らなければならない。時間は限られている。戦争などしている

   暇は無い筈である。

    ただ、持続可能な世界を作る国際協力と戦争の無い世界を構築する国際協力   は相関連し、相互に促進しあうものと思う。人類の中には戦争で儲け持続不可   能な世界の存続により一時的に利益を得る人もあるだろう。しかし、人類の大   多数は、共通して戦争が無く持続可能な世界の構築により利益を得るだろう。

    そこに基本的な強みがある。それを広く全人類の共通認識とするためには、

   事情を理解した先進的な人達による広範な啓発の努力が必要だが。

 

  おわりに

    終戦後六十余年を経過したにもかかわらず、あの戦争に対する認識・評価に   ついて国民の間に大きな見解の差異や混乱がある。その原因は、第一に「戦後   改革」が米国・連合国の主導のもとで行われ、日本人自身の主体的な努力によ   る過去のあり方への徹底的な反省が不十分だったこと。第二に、皇国史観を引   きずった人達と左翼の間でイデオロギーに拘束された不毛な論争が、党派の勢   力拡張の利害関係ともからんで、延々と続いたことである。結局、戦争の経験   者が多数生存し、その記憶が間になすべき検証が不徹底・不十分なまま終わっ   てしまった。

    さらに次のことを指摘しておきたい。あの戦争で指導的地位・影響力の強い   地位を占めた人達のことである。彼らの大多数は、責任を東条英機ら一部の人   達だけに負わせ、天皇、側近、軍人、政治家、ジャーナリスト、学者、文化人

   教育者等々の多くは、権限・影響力に応じて当然為すべき己の責任を自ら取る

   ことをしなかった。彼らが関与して亡くなった戦没者達の言語に絶する苦しみ

   と遺族達の深い悲しみを想うとき、彼らは潔さに欠けていた、否、人間的に退   廃していたと言うほかは無い。

    上記のこと(歴史認識と戦争責任の問題)は戦後において国のあり方・進路を考   えるうえで大切なものの欠落を招いたように想う。日本は確かに経済的には発   展した。しかし、現在の社会は「人にとって本当に大切なものは何か」を見失   ってしまったのではないかという虚しさを感じる。

    もうそれを卒業したい。このままではわが国は国際社会での正しいそして確   乎とした進路を定めることはできない。「名誉ある地位」を占めることもでき   ない。それではあの戦争の膨大な死者達に申し訳ない。そんな思いが私を駆り   立ててこの い文を書かせたのである。

    私にとってあの戦争の体験は苦しかった。戦後も長い間原爆による放射能障   害に悩まされた。それが無ければもっと勉強もでき、仕事もできたのでは、と

   思う。しかし、その反面、あの経験があったからこそ己の人生のあり方、国の

   あり方、世界のあり方を根本から考える駆動力を与えられたことも事実である

   もしあの経験がなかったら、もっと浮ついた人生を送っていたかも知れない。

    最後に一つだけ参考資料を挙げておく。ここには個々人の具体的な戦争体験

   が、時代の空気を背景に、肉声で生き生きと語られている。歴史書などの文字   からは伝わってこないものが伝わってくる。

 

   「昭和を語り継ぐ」製作・発行 NHKサービスセンター

            企画・販売 ユーキャン

            電話    03−3378−4600

       大田昌秀 平山郁夫 早坂  暁 なかにし礼 ら12人の話を納めた

       CD12枚(一枚約一時間)と解説書(話の要旨と用語解説)

                                                                                              (09.12.31記)