原爆の子

 

  「 子どもたちが、皆んな揃って、

     平和な世の中をつくり出すような人間になってもらいたい。

      平和を築くことを、

       人間としての最高の道徳と考えるような人間になってもらいたい。」

                         ( 「原爆の子」岩波文庫 )

 

 

        「 我が家の被爆記 」           中田淑子

  今日も朝から一点の雲もないよいお天気。暑くなって来る事を覚悟でいつも通り家を出て、八時には勤務先に着いていました。私は第一県女卒業後、女子延身隊の一員として友人四人と共に、広島文理科大学理学部の、藤原武夫先生の研究室に通っていました。部屋にはまだ私一人しか来ておらず、実験服を羽織って、今日お手伝いをする実験の準備を終え、私共の控室に帰り、椅子に腰を下ろしてほっと一息入れた時でした。机の右側にある運動場に面した窓全体が、異様な明るさの黄一色に染まりました。何事だろう、と窓の方を向こうとした瞬間、右頬が、太い鞭でピシッと強く打たれた様な感じがして、椅子諸共に横倒しに飛ばされ、床にたたきつけられていました

 一瞬あたりは暗闇となり、私もそのまま意識を失っていたように思います。どの位時間が経ったのでしょうか。気がついて起き上がろうとした時には,辺り一面に、衝立や椅子、本、その他部屋中のものがすべて床に投げ出されていました。無我夢中で暗い部屋を出て、大学本部の正面から運動場に走り出ました。そうしてあたりを見回しましたが誰一人見つかりません。暫くして、同じ研究室の学生さん(名前は忘れました)

が来られ、私を見て「右の耳の上と額が切れてひどく出血している」と言われました

気がつくと白い実験服の右半身が赤く染まっていましたが、それまで自分が怪我をしている等とは全く気がつかず、痛みも感じませんでした。「此の場所を動かないで」と言われて、その学生さんはたの方々を探しに行かれました。どの位待っていたでしょうか。相当長い時間の様に思えました。これは只ごとではない。早く何処かへ逃げなくては、と言う思いがしきりにして落ち着かなくなり、とにかく怪我の手当てをしてもらわなくてはと、とうとう一人で日赤に向かって歩き出しました。日赤では取り敢えず頭から右顔面にかけて包帯をしてもらい、暫く休んでいると、幸いにもやはり女子挺身隊の一員として、正木修先生の研究室に勤務されていた塚部さんは、足の打撲と怪我で歩行が困難の様でしたので、片側から支える様にして、御幸橋方向に逃げて行く人々の流れに加わって、電車通りを歩きました。途中で全身火傷で黒ずんだ、

裸足の五才位の男の子が、「お姉ちゃん一緒に連れて行って、熱いよ、熱いよ。」と

泣き叫びながら、私の手をしっかり握ってついて来ました。御幸橋の手前迄来た時、

その子は「お水が飲みたい」と言いながら川の方へ走って行きました。私もどうすることも出来ず、そのまま見送るより仕方がありませんでした。多分そのまま川の流れに飲み込まれてしまったのではないでしょうか。八月六日が廻り来る度に心の痛む思いがします。御幸橋のたもとで塚部さんの痛む足を休めている時、「文理大関係の方は此のトラックに乗ってください。」と大声で叫んでいるのが耳に入るました。

 私達も大学に関係のある者だ、有難い、と早速そのトラックに乗せてもらい、宇品迄無事来ることが出来ました。トラックの上で全員の住所と名前を確認して下さいましたので、家族との連絡はつくものと思い、ひと安心しました。その時は、牛田の家のことも、家族のことも考える事なく、頭の中は、ひたすら今をどうすればよいのか、それのみで一ぱいでした。トラックに乗せてもらったおかげで、歩いたのは大学から御幸橋のたもと迄の電車通りでしたが、まだ火災の煙も見えず、同じ方向に歩いて行く人達が、どんな姿をしていたのか全く覚えておりません。従って市内の惨状は殆ど知らないままでした。

 船で似島に渡り、桟橋を降りた後、広い倉庫らしき所に、畳一枚をもらって寝起きする事になりました。私達のあとからも続々と重傷の方々が運ばれて来て、忽ち建物の中は生き地獄となりました。水を求める声、うめく声、悲鳴、怒号、そして嘔吐、

又多くの方が「お母さん」と叫ぶながら息絶えて行かれました。中のは「天皇陛下万歳」と叫びつつ息を引き取られた方もありました。最初は聞くに絶えかねて、耳を塞ぎ目を瞑って横たわっていた私でしたが、そのうちその苦しみの声も次第に気にかからなくなりました。あまりにも刺激が強すぎると、人間の感覚は麻痺してしまうのでしょうか。似島に着いた時の恐怖はうすれ、一枚の畳の上に、眠るでもなく覚めるでもなく横になっての一夜でした。

 原爆投下の時刻、牛田町神田区の我が家では、母が前日配給された馬鈴薯の目方を計り、三百匁(1125g) がどの位の量か確かめに来る様にと、台所から父と妹に声をかけ、二人が母の側に来たその時、閃光が走り、爆風が襲い、我が家の天井は吹っ飛んでいたのでした。しかし台所は太い梁に支えられて、三人共小さなガラス傷のみで無事外に逃れる事が出来ました。投下の直前まで、父はシャツ一枚で家の前の菜園でささげの出来具合を確かめており、市立女学校三年生の妹は、たまたま建物疎開の交替休日に当たっていたので、居間の箪笥の側で横になって本を読んでいました。母の、声をかけるのがもう少し遅かったなら、又母の声を聞き流してそのままの状態でいたならば、父は大火傷を、妹は箪笥の下敷きになっているところでした。危機一髪のところで、三百匁の馬鈴薯が三人の命を救ってくれたのでした。人の運命とはほんとうに不思議なものだと思います。私も怪我をしたものの、鉄筋の建物の中でしたので、幸い火傷はまぬがれました。

 二日後、同大学の文学部で漢文を教えていた父が、公務を兼ねて私を尋ねてくれました。父に逢えた安心と嬉しさに、あふれ出る涙をどうすることもできませんでしたしかし、その日は公用で来たのだからと、そのまま帰って行きました。

 似島での五日間はまさに生き地獄の日々でした。十二日、父の助手をしていた山口義男さんに付き添っていただいて、牛田の家にたどり着き、家族の無事な姿を見て安堵したせいでしょうか、急に手足が痺れてきてそのまま気が遠くなって行ったのを覚えています。終戦は、天井が抜け壁の落ちた我が家で寝たまま迎えました。

 その後間もなく母と妹と三人で、父の郷里である石川県七浦村皆月の親戚の家に約半年間ご厄介になりました。ピカドンの被害者だと言うことで、村の皆様に親切にしていただいたことは、ほんとうに有難く、山口義男さんの御恩と共に一生忘れることは出来ません。

 原爆の悲惨さを二度とくり返すことのない様、心から祈るのみです。

                                

 

 「大久保馨組の昭和二十年八月」       新延和子

 

  NO.1からの続き

 

 翠町あたりまで歩いたが、中心部がすべてやられているときときいて又きた道を引き返すしかなかった。途中宇治線のジーゼル駅ホームに累々と積みならべられた屍体がおかれてあった。蚊取線香がところどころにたかれていて、とてもそれが人のなきがらだとわかるまで時間がかかった。何時間が過ぎただろうか、軍の計らいで母が比治山の防空壕に避難していることを知らされ、早く逢いたい気持ちで向かった。幸い母は無傷でそこに居た。富士見町の家(第三次疎開で山陽中学の前の通りを入った所)

で災害にあい一瞬にして二階が落ちて来て下敷きになったそうだ。それでも母は縁側にいたのでしばらくは上にのっかかっているものを必死で押し上げたら光が見えたそうだ。私が生まれた時からいてくれたねえやの糸子さんは奥の方の座敷の掃除をしていたそうで、総二階が落ちてきて外へ出ることが出来なかったと話した。

母が家を後にするとき、「奥さん!奥さん!」と二度程糸子さんの叫び声をきいたが

火が廻ってきてどうすることも出来なかったと泣いた。ハダシでガラスの破片やガレキをふんで逃げてきたというのに傷はなかった。比治山の防空壕には二日間程いた。

その間も横にねていて動けないけが人、気が狂ってしまった人など相次いで亡くなった。いい知れぬこわさに身をちぢめて母と手を握り合ってすごした。

三日後に軍の人の好意で宇治から井の口に向けて船が出るからといって下さったので

それに乗せてもらった。相変わらずの爆音におびえながら海路、井の口まで逃れた。

途中波の上を白ぶくれしてところどころ赤い斑点のついた死体がプカプカ浮いていた

 その後、長兄が佐伯郡友和村に病気で疎開していたため井の口から七里の道を夜にかけて歩くことになった。途中トラックが数台通り過ぎるのにのせてもらい、”玖波わかれ”でおろされた。トラックにはなきがらが数体のせてあり、便乗している人は皆無口のままそのまわりに座っていた。母にその様子を見せまいと必死で外に向かせ、おおいかぶさった。夜中近くやっと兄のいる家にたどりついた。

再会に抱き合って泣いた。その後、名古屋の飛行隊にいた次兄が脇腹を患って、みる影もなくやせて帰って来た。帰る時、その身体で広島まではとても無理だ、帰ると死ぬぞと医師に言われたそうだが、振り切ったという。広島駅から焼け野が原となった街を歩いて家の近くで焼跡の立札をみて来たそうだ。これで兄妹三人が揃った。

それからは毎日のように周囲の人達が死んでいった。

 八月十五日は朝からめずらしく爆音がきかれなくなり、長い間その音におびえていたのがうす気味悪い程静かだった。正午に玉音放送があり、何となく日本が負けたらしいという話が出てきた。放送の音声が悪く、とても聞きづらいものだった。不安のままなすすべもなかったが、突然アメリカ兵がこの村にも来るから、女は男の格好をしてそれをさとられない様にと伝わって来た。その他色々な流言飛語がとびかった。

でも頭上から聞こえていた爆音だけでも、のがれられたことに少しホットしていた。

一方父の消息はまったくわからなかった。流川方面の訪問先で爆風にとばされ即死だったときかされたのはしばらくたってのことだった。その時まで父と一緒だった人が別れぎわに父は表へ、その方は家の中へ入られ、その方がしばらく生きておられて、

父の死を家族のものに知らせるよういっておられたそうだ。

一週間位後、その方も亡くなられたとのこと。母が亡くなったのは九月九日、四十三才、今思えば早すぎた死だった。その前から母は下血がはげしく、自慢の髪もクシを当てるとバサット抜け、体中に紫斑が出ていた。すごく気弱になっており、最期まで生きたい!死にたくない!と言い続けた。鯉の生血がよいとか聞いたが、何も手に入るすべもなく、はなやかな人生を送った母にしてみれば哀れな死であった。せめて兄妹三人が見守っていたのがうれしかったと思う。

 私はとても幸せな幼児期・少女時代を送った。三人兄妹の末であり、一人娘であることから、恵まれて育った。附小の六年間、県女の五年間、そしてあこがれの東京の大学へも入学出来た。でもだんだん空襲がはげしくなり、上京はあきらめ、家にいると徴用がくるというので、知人の少佐殿の秘書ということで、船舶司令部に入れてもらい、そこでも大切に扱われた。

 八月六日、十八歳のある日からすべてが失われ変わってしまった。少女時代の明るい日々も、上京してというあまい夢も、かけがえのない父母もすべて私の手からこぼれおちた。始めは何かのキッカケだったと思うこの戦争が、思わぬ方向にどんどん突き進んで、多くの人々の人生を不幸のどん底におとしいれ、年を重ねた今もなお、戦争の後遺症をあらゆるところでひきづっている自分。広島をこよなく愛した多くの人達と共に・・・・戦争を憎む。

原爆が落ちたから日本の国が救われたのだといってもこんな悲劇は断じてあってはならない。

 

  「大久保馨組の昭和二十年八月」    中原順子

  ー 運命の汽車  ー

 女学院卒業と同時に、白鉢巻きの女子延身隊として、海田市にある海軍航空廠兵器部に勤務していました。広島から汽車通勤でした。

 八月六日(この日昭和二十年、死ぬ迄忘れる事のない、メモリアリデーになりました)午前七時五十分発の汽車に乗ろうと、私がホームに駆け上がった時、ちょうど汽車が発車したところでした。「あーっ! 次の汽車に乗ろうかな」と思った時、汽車の窓から「早く、早く」と手を振る友達の顔に、私は思い切って、エイッと飛び乗ったのです。

 若し、その汽車に乗っていなかったら・・・、私は、次の八時十五分発の運命の汽車に乗るところだったのです。

 

  ー きの子雲 ー

 海田市駅下車、町並みを抜けて、たんぼ道を行きます。ぬける様な青空に、落下傘が一つ静かに流れて行きました。友達と「あれは捕虜収容所に、アメちゃんがチョコレートでも落としたんじゃないの」等と、陽気な事を言っていた時です。突然、背後から暑い空気がワーッとかぶさって来ました。

 思わずみんな走り出した時、ピカッと写真のフラッシュを目の前でたかれた様な光!  私は目の前が一瞬暗くなり、すぐ後ろを振り向きました。すると広島上空は、

先程までの青空がピンク色に染まり、何とも形容の出来ない、不気味な音と共に、きのこ形をした雲がまっすぐ立ち上がり始めたのです。

 そして、地の底、地獄の底から伝わって来る様な、何とも気持ちの悪い音、それは言葉にならない二十数万人の、助けを求める声だったのでしょうか。

地鳴りと共に「ウーッ」とも「ゴーッ」とも、濁音のうなりとなって、足元からかけあがって来る様に聞こえました。

 きの子雲は、次々と色を変え、上空へ上空へと、ふくれ拡がっていきます。夢の中にいる様で、心から恐怖を覚えるまで、少し時間がかかりました。夢中で駆け出し、勤務先の建物に飛び込み、気がつくと、窓ガラスは全部飛んでなくなっています。

「何だろう」「広島駅あたりかしら」将校連中も朝礼を忘れ、ただうろうろしたり、会議を開いたり、そのうち「広島に新型の爆弾が落ちたらしい」と誰からともなく未確認情報が伝わってきました。

 私は、朝家を出る時、心臓の弱い母が蚊帳の中から「行ってらっしゃい」と言ってくれたのを思い出しました。(帰ろう!母を助けなければ!)「勝手な行動を禁ず」との指令がありましたが、私は「もうそんな事どうでもいい、早く広島へ帰ろう」と同級生三名と勤務先を抜け出したのです。

 母一人子一人の我が家です。(兄は近衛で家族も東京)<母よ どうか家に爆弾が

落ちていませんように>交通は全面ストップの為、歩くしかありません。広島市内迄約一時間半、友達と無言で歩くうち、市内から逃げ出してくる怪我人の行列に、出会い始めたのです。

 

 ー おばけの行列 ー

 それは、まるでおばけの行列でした。ワイシャツの背中が焼けてさがっているのかと思ったら、背中の皮がペロリとむけて、ズボンのベルトにひっかかり、赤肌を出して杖にすがって歩いている人、衣服をまともに着ている人など皆無です。裸で火傷だらけ、血だらけの人々が、ゾロゾロと、私達とは反対の方向に歩いていきます。

「駅の所におったら、ドカンと来て、広島駅直撃よ」「福家が見えんかったけ、あそこに落ちたんじゃろ「判らん判らん 火の海じゃけ!「もう広島は 何にもないよ」

どの人に聞いても、一向に頼りなく、うつろな口調で、ボソボソと話してくれる丈でした。「広島ん中へ行かん方がええよ」と、注意してくれた人もありました。でも私は帰らなければ・・・心は広島へ飛び、地に足もつかないもどかしさでした。

 初めて怪我人を見た時、その悲惨な姿に思わず顔をそむけた私ですが、段々と神経が麻痺したのか、暫くすると怖くもなんともなくなってきました。地の底からのうめき声は相変わらず続き、むれかえる様な暑さに、血の生臭さ、生き地獄とはこのことでしょうか。

 

 ー 火の海の中を ー

 愈々市内に入る所、大須賀町にさしかかると、市内は見渡す限り火の海で、火の粉が降りかかって来ます。防空頭巾を濡らそうと家庭用防火用水のタンクを見ると,水は蒸発して中は空っぽでした。かくなる上はと、石垣をつたって川へおりれば、水面が見えない程死体が流れています。。私は死体をかき分けて、着の身着のまま、頭迄水中にしゃがみ込みました。水にすっかり濡らして立ち上がろうとすると、死体にさえぎられて、仲々立ち上がれません。私はやっとの思いで川からはい上がり、石垣を登って道路に出ました。