まえがき

                                長田五郎

 今から12年前の昭和61年7月19日に大久保馨組の第一回の同窓会が、大阪市

内で開催された。その際私は、各人の広島の原爆体験を文集にし、子々孫々に至るま

で残しておくように提案した。その後大部分の原稿は集まったが、活字化するには至

らなかった。それが、今回堀之内修君の手によって、日の目を見ることになった。

執筆者一同、堀之内修君の献身的なご努力に対して、心から感謝の意を表する次第である。

 私たちが、昭和8年から昭和14年に至るまでの6年間、在学していたのは、広島

高等師範学校附属小学校である。この学校は、当時全国で4つしかない官立の小学校

の一つで、全日本のモデル・スクールでもあった。この学校の訓導の諸先生は、全国

の各県師範学校を最優秀の成績で卒業された方々であった。大久保馨先生もその一人

で、大分県師範学校出身の秀才であった。当時の附属小学校の主事の先生は、広島高

等師範学校教授・守内喜一郎先生(広島高師明治41年卒)であった。

 当時の広島高等師範学校・文理科大学の学風は、スイスの教育者・ペスタロッチー

(1746ー1827)の教育精神に基づく教育であった。私の父・長田新(188

7ー1961)(広島高師 明治43年卒)は、大正9年6月に広島高等師範学校教授

に就任し、福島政雄・岡部為吉教授らの同志とともに世界的なペスタロッチー運動を

広島の地で始めた。その当時在学していた学生の中には、岡本明先生(大正13年卒)

玖村敏雄先生(大正15年卒)がおられた。

 昭和20年8月6日午前8時15分、私の父は、爆心地から1.5キロメートル離れ

た京橋川沿いの平野町の自宅において被爆した。

 父は、昭和20年8月より昭和24年に至るまでの4年間、原爆放射能によって重

度に汚染されている廃墟の中の学長室において、原爆症と闘いながら執務し、広島学

園の復興に没頭した。広島文理科大学長の任期を終え、学長の激務から解放された父

は、原爆の悲劇を身をもって体験した広島の少年少女たちの手記を編集し、「原爆の

子」と名付けて、朝鮮戦争の真っ最中の昭和26年10月2日に、核戦争による全人

類の絶滅を阻止するため、岩波書店から刊行した。

 この書は、世界最初の原爆体験国民である日本人のみが。なし得る平和への訴えであり、日本人自身の体験から生まれた平和思想の書であると同時に、最も国際性をも

った人類普遍の思想の書でもある。広島の少年少女の訴えが、全人類の平和への訴え

となっている。この書が、世界各国語に翻訳されたゆえんである。昭和26年に「原

爆の子」が、刊行されてから今日に至るまでの47年間、「原爆の子」に応える運動

は、燎原の火の如く、全世界に広がり、世界の平和運動と平和教育運動は、飛躍的に

前進した。

 私が、12年前に「大久保馨組の8月6日」の文集の作成を提案したのも、広島学

園の教育運動の流れに沿うものであった。原爆投下後53年の歳月が流れ去り、故人

となられた級友もいるが、まだ大半の級友は、健在で、原爆症と闘いながら、日本の社会に奉仕しておられる。懸案の「大久保肇組の昭和20年8月」の文集が、堀之内

修君のご努力によって、遂に刊行されることになったことは、執筆者一同の大きな喜びとするところである。

 ここに謹んで、この文集を、私たちの最も敬愛する大久保肇先生及び志半ばに逝去された級友諸兄姉の御霊に捧げたいと思います。

 

 

 「私の昭和二十年八月」      玖村敦彦

 

 昭和二十年八月、私は旧制広島高等学校の二年生であった。広高の二年生の多くは

呉の海軍工廠に勤労動員されていた。私もそこで働いていたが、七月頃だったろうか

一部の二年生とともに向洋の日本製鋼に移った。

 当時、文部省の方針で一年生に対しては全寮制が敷かれていた。広高の寮は薫風寮と呼ばれ市内皆実町の校舎の隣にあった。しかし、新一年生が日本製鋼に勤労動員さ

れることになったため、向洋の日本製鋼の工員寮の幾棟かを借り受け、それを薫風寮

として使うことになった。薫風寮は第一ないし第六の六寮から成り、それぞれに一年

生が約四十人(?)割り振られた。各寮には二年生が三人ずつついて指導する体制が

とられ、この役目をする二年生は寮委員と呼ばれた。私達二年生の一部が呉から向洋

に移ったのはこの寮委員を務めることになったからである。私の受持ちは第一寮で委

員は他に竹政、田辺の両君であった。

 昭和二十年度の新入生の入学は戰局のため大幅に遅れた。薫風寮への入寮は七月中

旬以後だったように記憶する。ともかく八月に入った頃にはやっとお互いの名前を覚

えた程度で、相互の人間関係は未だあまり深まっていなかった。

 八月六日は、新一年生が入寮してはじめての日本製鋼の“電休日”であった、そのた

め自宅が広島市内にある寮生は帰宅のため、他県、他市の出身者は市内を見物しよう

としてかなり多くの寮生が朝から広島市内に向かった。私は寮にとどまっていた。

 八時十五分、私は室内にいた。強烈な光が閃いた。何だろうといぶかしく思ってい

ると、しばらくしてから轟音と爆風がほとんど同時にやって来た。窓ガラスは粉ごな

に砕けて飛び散った。私たちはてっきり近くに爆弾が落ちたものと思い、裏山にある

横穴防空壕へと急いだ。しかし近くに爆弾が落ちたけはいはなかった。空を見上げる

と真青な夏空に真赤なドーナツ状の雲のようなものがみられた。その中心付近から白い雲が湧き、みるみる巨大な雲の峰となって立ち昇っていった。

 しばらくすると、広島の方向から無数の人達が逃げてきた。多くの人達は衣類を吹き飛ばされ、はだしで、顔は焼け、裸出した部分にひどい火傷を負っていた。

 当日広島市内に向かった寮生のうち幾人かがこうした状態で寮に逃げ帰ってきた。

私たち第一寮のA君もその一人であった。彼の口から同行していたB君と京橋付近で被

爆し別れ別れになったことを聞いた。B君は夕方になっても帰って来ない。そこで三人

の寮委員が協議した末、私を隊長に一年生四、五人を隊員として捜索隊を編成し、同君を捜しに行くことになった。もちろん、すべての交通機関はストップしていたから徒歩で行くほかない。目的地に近づいた頃には長い夏の日も完全に暮れていた。

焼けるべきものは既にほぼ焼け尽くしていたが残り火はなおあちこちで燃え続けており、焼けた地面からは強い日照りが感じられた。熱い地面には無数の人達が倒れ横たわっていた。それらの中にはなおこと切れぬ人がかなりあって、私たちが通りかかると”助けてください” ”水をください” と最後の力を振り絞って口ぐちに訴えた。幸い水筒を持っていたので、何人かの人には恐らく末期の水となったであろう水を飲ませてあげた。しかし全部の人に対応するわけにもいかず、必死の訴えに耳をふさいで目的地に急ぐほかなかった。

 目的地に着いてみるととてもB君を捜し出せる状態とは思えなかったが、折角現場に

来たのだし、ともかく見付ける努力はしてみようということになった。三十分間くら

いだっただろうか、皆で手分けして捜したけれどもやはりB君を発見することはできなかった。私たちは夜かなりおそく寮に帰り竹政、田辺両君に事情を報告した。

 私達の第一寮からはB君のほかにも何人かの未帰還者がでた。そこで私たちはその後

も数次にわたり広島市内の捜索を行った。広島市の中心部は焼け尽くしており、周辺部の焼けていない地域の学校やお寺などが負傷者や遺体の収容所になっていた。そして、このような場所に収容された人達の名前が紙に書いて張り出されていた。私達捜索隊は八月の炎天の下をあえぐような思いでこれら収容所を次々とたずねて歩いた。

それらの中でとくに強い印象が残っているのは己斐のある小学校のことである。校庭

といわず教室といわず目をそむけたくなるような遺体に満ち、異臭が強く鼻を衝いた

 その中で立ち動く初老の婦人の一人が大きなそして切々とした声で” 南無阿弥陀仏”

”南無阿弥陀仏”と唱え続けておられた。その声は耳底に刻み込まれたようにいつまでも記憶に残った。第一寮にはA君のほか負傷して帰還した寮生が何人かいた。昼夜にわたって彼らを看病することも寮としての大きな仕事だった。こうして、原爆投下後、われわれの寮は、行方不明者の捜索と負傷者の看病に明け暮れた。

 終戦直前、一時休養の時間をもらって私は牛田の自宅に帰った。そして八月十五日の午後、知人から日本降伏のことを聞いた。心身ともに疲れ切り、正常な感情の麻痺

していた私は、これで死ななくてすむという喜びも、敗戦に対する悲しみもあまり感じなかった。敗戦のことを聞いた当日だったか翌日だったか、ともかく向洋の寮に戻った。薫風寮の各寮はそれぞれ負傷者を抱えていたが、彼らのうちの何人かが次々と死んでいった。ほとんどは肉親にみとられることなく、未だ知り合って日の浅い友人達にみまもられながら、八月二十日頃だっただろうか、A君もついに亡くなった。

我々は遺体を戸板か何かにのせて近くの山の火葬場に運び荼毘に付すよう頼んだ。一度では焼き切れず背中の肉が残り、燃料がないからといっていやがる火葬場の人に無理を言って焼き直してもらった。蝉のしきりに鳴く暑い夏の午後であった。

彼の遺品を整理していた竹政君が一通の封筒をみせ、ラブレターがあったといって何ともいえぬ複雑な表情をした。

 C君も負傷して寮友の看護を受けていたが、八月下旬だっただろうか、自宅のある大分県のある町へ帰すことになった。彼は足を負傷していて自力で歩くことができない。そこで寮生数人で向洋の駅まで運び列車に乗せた。車両は無蓋の貨物用のものであった。あとは私一人が付添った。敗戦の混乱の中だったが乗り合わせた人達は親切でC君が横たわるのに都合がよいように車両の隅のところを空けてくれた。列車は少し動いては止まり、少し動いては止まりをくり返して、やっと同君の町に辿り着た。

 私にはそれ以前から放射能によると思われる症状が現れていた。C君を自宅に送り届けたとたん。気の緩みもあってか、どうにも動けなくなってしまった。そこで、C君の家に泊めていただいたがいつまでもお世話になるのは心苦しく、数日後力をふりしぼって広島に帰った。寮に行ってみるとすでに閉鎖されていたので牛田の自宅に帰った。そこでしばらく寝たり起きたりの生活をした。家の近くの小さな公園では秋が深まるまで、来る日も来る日も遺体を焼く煙が立ち昇り、そこから特有の臭いが流れて来た。

 広島高等学校はしばらく休校の状態を続けた後、場所を変えて再開された。しかし

私は気力も体力も完全に失っていた。結局昭和二十一年度は休学し、結核で京大を休学中の兄、広島女高師で被爆した妹、それに母とともに山口県のある村にある父方の

祖父の家で過した。父は東京に単身赴任していた。祖父は農業を営んでおり、忙しい生活の中で手伝いができないことは非常に心苦しくまた居づらいことであった。

しかし、どうしても体が言うことをきかなかった。少しずつ手伝いができるようになったのは昭和二十一年秋の稲刈りの頃からであった。こうして昭和二十二年四月に広高に復学し、二十三年三月に卒業して東京の大学に進学した。

 原爆の後遺症は私の場合、激しい下痢、目にみえないほど小さなかすり傷さえことごとく化膿していつまでも治らないこと、極端なだるさであった。C君を彼の自宅まで送り届けたときは血尿も出た。下痢や化膿は被爆後半年余りでほぼ治ったがだるさは長く続いた。その現れ方は判を捺したように一定のパターンを示した。一週間ないし十日を一周期としてその前半はだるさの著しい位相、後半はだるさが軽くなる位相

となった。いったんだるさの著しい位相に入ると、立っているのはもちろん座っているのさえ苦痛であった。こうした状態は昭和四十二、三年頃まで、少しの隙間もなく

続いた。二十才前後から約二十年といえば、人がそれぞれ活動分野で基礎的な研鑽を積み、社会的な基礎を築くべき重要な時期である。だるさがやってきて、やらなければならない仕事があるのにどうしても思うようにそれが出来ない時は泣きたいような気持ちになった。要するに大きなハンディキャップを背負って社会を生きなければならなかったわけで、原爆により私が失ったものはずいぶん大きかった。

 しかし、私の肉親には原爆で命まで失ったものはいない。大久保組の級友には肉親を失われた方が沢山ある。いや、ご本人自身が原爆で命を失われた方さえある。

 お気の毒なのは、原爆で亡くなられた方、肉親を失われた方だけではない。ガダルカナル、ニューギニア、ビルマ、沖縄、そん他の戦場で亡くなられた方々も、その時の状況を想像すると、お気の毒な点では原爆死された方々に劣るものではない。

 原爆後遺症の苦労のたびに思い起こしたのは、こうしたもっとお気の毒な方々のことであった。そして戦争を心の底から憎んできた。

 戦争はそれを憎む感情だけでは無くならないのはもちろんである。しかし、体験に裏打ちされた戦争の悲惨さ、非人間性への憎しみと怒りは、観念的な戦争反対論よりももっと強力な戦争への防波堤であることは確かであろう。

歳月の流れにつれて戦争を体験しない世代が増えてきた。この防波堤の風化が進むのを危惧の念を抱きつつ見ているこの頃である。           ー 終 ー

 

 

  「大久保馨組の八月」       岸本量子

 

 八月六日のあの日、お家の炊事場で旅の汚れを落としていた時、五寸程開いた裏木戸の間から ”ボッ” という異常な破裂音と共に、ガスの火のような青い炎がメラメラと

左腕をつたい左顔に異常な焼きつくような熱線を浴びました。筋肉が焼ける臭いと同時に太陽が落ちたかと錯覚するような眼も眩むばかりの白光の放射能線を頭から浴び

左顔と左腕とに大火傷を負ったのです。

 私は瞬間しっかり目をつむり、”キャッ” と悲鳴を挙げ、洗面台を後ろに二、三歩逃げた時、炊事場のコンクリートの壁が爆破され、コンクリートの大きな塊が幾つも、頭といわず背中といわず撲りつけるように落下してきて、私は其の場に多折れ込むと同時に家屋が倒壊したらしく私は木材や瓦礫の下敷きになり生き埋めとなりました。

「量子!」「量子!」と叫ぶ父の声が聞こえます。私は必死の思いで「お父さん!」「量子はここですよ。」と声を限りに叫んで救いを求めました。

父は私の声を頼りに救出作業に取りかかったようですが、どうやら父の足が私の背中

とおぼしき辺りに在るようで、其の為に私の埋まっている周囲が崩れ、瓦礫や木片が私の体をかみます。私は驚いて、「お父様の足が私の背中の上にのっていますよ。」と叫びましと、「お父様、貴方の足の下に量子がいるそうです。」という母の落ち着いた声が聞こえ「オッ そうか。」という父の声と同時に父は飛びのいたらしく私の背中の重みはすっと軽くなりました。父は余程焦っていたらしく、下から木片や瓦礫の障害物をこじり出しているようで、ざらざらと物の崩れる音が聞こえます。

母のしっかりした声が「お父様、上から一枚一枚取り除いてください。そうしないと

量子が怪我をします。」と聞こえて来ます。

 間もなく私は掘り出され、父の笑顔、末弟の「姉ちゃん!」の一言、母の涙の顔に取り巻かれました。母はと見ると、石槌大権現様の木のお札を大切に抱きかかえ、 「量子! 貴方の背中の上に この木のお札が乗っていたのよ。」と嬉し涙を流しています。石槌さんが救って下さったのだと心の底から感謝しているようです。このお礼は二階のタンスの上に安置してあったのですから、階下で生き埋めになっていた私の背中に乗っていたという事も、あの難聴の私が一尺下から父の声を聞き、自分の生き埋めになっている地点を知らせる事が出来たという事は、とても不思議なことなのでした。私の埋まっていたすぐ傍からもうブスブスと煙が立っています。それを見て、ああ私は救われたという感慨を深くしました。掘り出されて周囲を見廻すと、一望千里

建っている建物という建物はすべて倒壊して、遠く高い高い煙突のみが一本立っているのが見えるのでした。

「さ、早く逃げましょう。」という母の声に促されて、私共四人は、倒壊した家屋の山のような木片を乗り越え乗り越えして五間道路に這い出しました。どこからもかしこからも、大勢の人が倒壊した家屋の下から這い出して来ます。

「皆、観音町に避難さよ!」

と警防団員の人達がメガフオンで叫びます。誰を見ても爆風で露出した皮膚が裂け、その裂けた皮膚がぼろきれのようにぶらさがっています。私の火傷は今は火ぶくれになっています。そして黒いサージのもんぺの左腰の辺りがぼろぼろと焼け落ちているのに、その下につけていた白いキャラコのシミーズは無事で、そのお陰で左腰は火傷をまぬがれていたのでした。空は一天かき曇り、黒い松やにのような小指の指頭大の油の塊が降ってきます。硝子の破片で血まみれになっている人、死の灰をかぶって、まるでセメントの粉袋から這い出して来たような人、私もそうだったのです。

 観音町で行列して次の指示のあるのを待っている時、後ろにいた少女が冷たいトマトを一つくれました。それを食べ、暫くすると私は気が遠くなり、その場に座り込みました。「お姉ちゃん! しっかりして! 」という近所の若奥様の声をかすかに聞いたように思いますが・・・。それから突然苦い胃液を多量に吐き、それから意識がはっきりして来ました。あとからあとから続々と避難民が・・・。

 子供を柱と小屋との間にはさまれて出すことが出来ず、猛煙の中において来たという半狂乱の若い母親。そして中でも中年の婦人の悲しみに満ちたお話は、東條に対する憎しみをいやが上にも募らせたことは事実です。私の両親は東條政権を批判して憲兵隊で「非国民」と罵倒されていますから。

 その婦人のお話とは、「娘が梁の下敷きになって腸が飛び出しました。私と小さい息子とでは到底救い出すことは出来ません。そうこうしていますうちに火の手が迫って来ます。私は娘に申しました。『今、貴女を救い出せても腸が飛び出しているからとても生きる事は出来ないから・・・・・。』息子は、『姉ちゃん、お母さんと僕とを逃がして!』と申しました。娘は『いいわ。じゃあお母さん。この世の別れに今一度私の手を握って頂戴!』私と息子とは代わる代わるしっかりと娘の手を握りしめました。そして、『じゃあ、さようなら』と言って逃げようとした時『お母さん!あんたは薄情な人やね。わたしを見殺しにするのん!』と娘は絶叫しました。

そういう訳でわたしはどうにも諦めがつきません。」とおっしゃって泣かれました。

私も母も悲痛な思いでした。夜がきました。私共は観音町の畠の中に蚊帳を吊ってござを敷き、まんじりともしませんでした。遠く広島市内は地獄の業火が燃え上がっております。その中を人々の逃げまどう阿鼻吸喚の声が聞こえるようで、私は思わず耳を塞ぎました。

 其の頃から私は高熱が出て、何ともいえない不快感に苦しみました。夜が明けました。広島市内の火はまだ燃えています。私の火傷は崩れ出し、膿が出始めました。

皆、五日市の小学校の講堂に収容するという指示があり、父が買って来てくれた藁草履をはいて、炎天下のアスファルト道路を大勢の難民と一緒に五日市へ向かいました

五日市の講堂はもう火傷の負傷者で一杯でした。ひどい悪臭と火傷に苦しむ呻き声に満ちていました。

 陸軍の兵隊が駐屯していて、五日市小学校の講堂の傍に大きな穴を堀り、そこで毎日出る死体を焼いています。講堂のステージには祭壇が設けられ、そこに毎日僧が来て読経して行きます。その声もどうしょうもない程暗いものでした。

私は母に連れられて救護所に行き、右手の拇宮に突き刺さった一升瓶の口の破片を錆びた糸切り鋏で切り取り、爆風で裂けた皮膚を全部処理してオキシフルで消毒して頂きましたが、その痛みは大変なものでした。私共は近所の農家に分宿させて頂き、冷たい井戸水で火傷に冷湿布を致しました。この世のものとも思われぬ激痛も、この冷湿布で不思議な位鎮痛するのです。四十一度八分という高熱で母は私の看護で大変だったと思いますが、三十秒おきに冷湿布をとりかえてくれました。夜になると淡黒の町の上空をB29が赤いテールランプを輝かせて我が物顔に飛行します。青い蚊帳の中で、母は時々私の火傷を暗いので月の光にすかして見てくれるのです。

 普通食は全然うけつけてくれません。食欲のないその二週間、のどを通るものといえばトマトだけでした。カリカリに乾いたのどを潤してくれたのはトマトでした。

このトマトが私の回復に大変幸いしたと思います。冷湿布とこのトマトのお陰で私の火傷は奇跡的に癒え、ケロイドにもならず元のすべすべした肌にかえったのです。

併し、八年後に原爆放射能ガスによる精神分裂症に罹患したことを思えば、決して喜んでばかりはおれないのです。このような療養の効能は枝葉末節的なことであり、核廃絶こそが私の悲願です。

 八月十五日が訪れて来ました。其の日、しんと静まり帰った田園の昼下がり、重大放送があると伝えられ、皆何事かと緊張してラジオに耳を澄ましました。

天皇陛下の重々しい玉音が流れて来ます。難聴の私には母は終戦になったことを知らせてくれました。廃墟になった日本を思う時、いよいよこれからが大変だという思いで一杯でした。

 私の幻聴は昭和二十八年以後、未だに続いておりますし、もう一生治らないのではないかと思っております。若し原子爆弾が落ちていなかったら、私の運命も大分変わったものになっていたと事だろうと思います。同様なことは広島市民、長崎市民みんなに言えることと思います。死ぬまでこの悲劇の十字架を背負わされるのでしよう。

あの悲惨な悪夢にような投爆の日から五十余年、いままた、核の問題がクローズアップされておりますが、(最新核廃絶の方向へ向かい、僅かながら曙光がみられますが)

こんな理屈にもならない理屈はもう結構です。とにかく理屈抜きに世界が仲良くして

我ら「人間家族同種民族」を標語に離れ難く、分かち難く兄弟姉妹と思い、愛し合っていきたいものです。今程政治に愛を謳われなければならない時はないと思います。

全人類は混血民であり、太平洋一環皆アジアの兄弟であると人類学者(中国の某博士)

は申します。誤れる民族主義を排し、全人類お互いに愛し合って生きたいものと思います。全世界がお互いに平和を愛し、理屈抜きに相愛してゆくならば、いかばかり喜びの実がたわわに実り、幸せは地に満ちることでしょうか。世界の政治家が迷妄を去り、愛の政治に目覚めてくれる事を私は天を仰ぎ、地に伏して祈っております。

こんな事になるまでに日本は和解の方法もあったと思いますが、「軍人の硬い頭では政治は分からない」と東條政権を批判していた亡父の言葉を今繰返し思っております

 この原爆で従妹は昭和二十年八月十六日に全身火傷で亡くなりましたし、広島高師附小、昭和高女、広島第一県女の恩師、クラスメイトも被爆で多数亡くなられ、寂しさ、憎さこの上もありません。心で慟吠し、ご冥福を祈り、この犠牲を無駄にする事のないようみんなで仲良く平和を守るよう、この書をliving will (生前遺書)としたいと

切に願います。          (昭和六十二年寄稿)    ー 終 ー 

 

 

   原爆に父母を奪われて     池島絢子

 

 当時、広島女専一年生の私は、昭和二十年一月八日から学徒動員で、岡山市倉敷市外の三菱工業水島航空機製作所で働いていました。

 八月六日、広島に新型爆弾が投下されたとのことで、広島から来ている私達には、

罹災証明が出されて、順次帰広しました。私は八月八日福山の空襲で山陽本線が不通

のため、芸備線を利用して、九日朝広島に帰りました。

 広島の市内はすべてが灰色で、焼けて遠くの方まで見渡す事の出来る状態でした。

くろこげになった人をあちこちで見ました。くすぶっている煙の臭いは例え様のない

異様なものでした。電車は止まったままで中まで焼けただれていました。自分でない様な自分を引きずって、人一人通っていない全く廃墟と化した道を、上流川町十八縮景園の前の松林の中にあった家へ急ぎました。家は一軒として残らず全くの焼け野原

勿論我が家も跡形もなく、石うすとかミシンの頭の部分が焼け残って、ころがっていました。ボッとしていると、庭の防空壕の中から包帯で頭を包んだ母が、乞食さんの様にフラッと表れ、二人声もなく手を取り合って、先ず無事をよろこび合いました。

 母は投下時には応接間の机に向かって、私に便りを書いていた様で、ピカッと光った途端に、何もわからなくなったそうで、「キミ子、キミ子」と呼ぶ父の声でわれにかえったそうです。父は丁度天窓の補修をしていて、屋根の上から地面にホーリ出されて、家の回りを母を探して、家の下敷きになった母を助け出してくれたらしいです

 父の両親は共に焼けただれ、「こんなになった」と言って、手先にぶらさがった皮を自分で、引きちぎりながら、二人して縮景園を通り抜け、裏の川を渡り、牛田の知人宅にお世話になり、父は翌日海軍軍医の手当てを受け、間もなく亡くなったそうです。母は担架で運ばれて行く父を見送り、家が気になり帰って来た所を丁度運良く私と会ったわけです。母の状態も心配でしたので先ず救護所に共に行き診察を受けました。額はポクッと口が開き、何か白いものが見えました。(これは骨だったのです)

 一時も何か広島に居たたまれなくて、母を連れて、ボツボツと駅に向かい、夕方丁度

折よく発車する大阪駅に着き、当時義兄の勤める大阪幼年学校を目あてに、大阪駅長室に母を預かって頂いて訪ねました。次姉達も罹災して自宅を焼かれており、避難先の知人宅へ一先ず落ち着きました。そして十五日には終戦の御詔勅を拝聴して、ホッ

とした様な、肩の抜けた様な気分になったことを覚えています。

 すべてを無くした私、青春期の私には、いろいろ考えさせられました。悶々と卒業に流され、二十二年十月に結婚し、子供二人を育て足が地に着かないまま過して来た様に思います。でも母は何時も「傷害が残らなかっただけ、まだまだましよ」と話していました。痛手を受けられた方々の、ピカッドンの影響は永遠に続くと思います。

 二度と戦争は、どんな不自由不満があっても、絶対に避けるべきです。母もその後一目には元気な様子でしたが、十年後の昭和三十年十月六日、原爆後遺症のため、一年余りの入院も虚しく亡くなりました。

 その後あきらめていた、父の遺骨が昭和五十九年に、市役所の方々のご努力で長兄の家に帰り、改めて法要もすませ、すべてが戦後三十九年目に、やっと家中揃ったことを家族で喜び合いました。四月二十九日で、七十二才になりました。若い頃は七十二才と言えば、ばあさんで、ヨボヨボと思っていたのですが、自分がなってみると、案外なのですよね。あまり長生きしては何時までも若い方々に、子供達に心配をかけると思いながら、生きている限りは、心美しく、正しく、素直に、と念じつつ生きる毎日です。

 七十二年間、原爆にあって、すべてを失ってしまったけど、学校時代、主人と暮らした四十五年間、まあ大過なく暮らさせて頂き、二人の娘も何とか無事に成人してくれて、四十九才と四十六才になり、私達には過ぎた二人の婿にも恵まれ、三人の可愛い孫も上二人は、今春は大四と大一に成長してくれて、恙無くそれぞれの道を得てくれる様に祈っています。

 とにかく、最期まで亡くなった主人に感謝しながら、子供達に、孫達にどんな面倒をかけることになるかも知れませんけど、有終の美を飾れる様に、躰を動かして、前向きに、楽しく、今更自分を変えられることも出来ないでしょうし、自分なりに生き抜けたらと思っています。                   ー 終 ー

 

 

   「大久保馨組の昭和二十年八月」   浜永雄照

「雄ツ 伏せろ」

夏の朝の静寂を破って、白鳥の叔父貴のけたたましい声、自分も何かピカツと光った様な気がして反射的に伏せた。   様な気がしたが、かぶっていた学帽が後方にころげているところを見ると、或は爆風で後ろに飛ばされていたのかも知れない。

 時は、昭和二十年八月六日、午前八時十五分。

 所は、広島市荒手(宮島線の草津の次の駅、現在はもうない)

荒手の地形は三方が山と丘になっていて正面は山陽本線と電鉄宮島線、その先は瀬戸内海。広島は観音の三菱造船の端が僅かに見える程度。

 我が家でも食糧の自給の為、荒手の土地を借りて何とか凌いでいた。然し此の何でもないカボチャ畠が私達母子の命を救ってくれるとは夢にも思わなかった。東京で二度の大空襲に遭って、夏休みで広島に帰って再びあんな目に遭うとは!

 当日広島市内に用があったので出掛け様とすると荒手の畠を見て来て呉れてと言われ、小生不承不承であったが叔父貴と母と三人で古江の疎開先から(現在広島学院になっているあたり)荒手の畠に到着した直後のことであった。あのピカツは。

 とにかく広島に出てみようと叔父と別れて母と二人で草津の方に向って歩き始た。

もう電車は運転を停止していたのであろう。線路上を歩いてみると両側の屋根の窓その他が爆風で吹き飛ばされて、ガラスの破片が足の踏み場もない程であった。途中でいろいろ話をしているのを聞いてみると、兵器廠の火薬庫が爆発したのであろうかと

真偽の程は判らない。

 高須方面で市内から逃れて来た人達(奇跡的のも殆ど無傷)に訪ねると、詳しいことはよく判らないが、これ迄の他の都市の空襲とは比較にならない大被害らしいとのこと。市内に住む親戚や多くの友人・知人のことが気になって乗り物もない市内に向かって急いで直行することにした。高須を過ぎたあたりで夕立の様な豪雨に会う。

 あたりは、一面野菜畠で雨宿りするところもなく、二人ともびしょびしょ濡れになった。然も着ていた白のワイシャツが真っ黒になって気持ちが悪いので、古江の我が家に引き返すことにした。市内の様子が判らないので気掛かりで仕方なかったのであるが。然し此の時向かおうとしていた広島市内は此の世のものとも思えない地獄の様な惨状が展開されていたのであった。今現在此の原稿を書いている部屋の窓から見えるあたりは、国の為に動員された「第一県女」「山陽」「市中」等の多くの純真な若い生命が散って行ったところである。

 今日広島を訪ねる人々は驚異の目でその復興ぶりを讃え去ってゆく。私もあの終戦時の瓦礫の山を思い出す時、よくぞここ迄立派な都市に復興できたものと思う。

 然し、京都・奈良・鎌倉・その他小京都と呼ばれる地方の都市を旅した時、ああ昔は広島も同じ様な都市であったのにとなつかしい思い出に浸される。あれから五十年近く此の町に住んでいるのに、眼を閉じて広島の町を思う時、出てくるのはいつもあの古き良き時代のそれであるのは私一人であろうか。        ー 終 ー

 

 

   「消えた広島」         前田 周一郎

 

 昭和二十年には、私は春から学徒動員で呉市の海軍工廠で働いていました。

六月に工場は爆撃で大きな被害を受け、近くにあった工員寮も焼失したため、我々は呉市の南はずれ(宮原通り)にある寮に移り、その後は毎日小さな舟を乗り継いで江田島に渡り、海軍の倉庫で雑作業をするようになっていました。隔週の厳しい夜間勤務が無くなり、戰局の前途を案じながらも少しほっとしていた時期でした。

 八月六日の朝、途中の吉浦港で乗り継ぎの舟を待っていたとき、突如として広島の方から大音響がひびきわたり、後ろの小山の上に不気味な雲が立ち上がるのでが見えました。その時はまだ、広島の近くでガソリンタンクでも爆発したのかな位に思っていたのですが、乗り換えの舟が来て、海上の見通しもよいところに出て眺めると、ますます大きくなった「きのこ雲」の根元はちょうど広島の町の中央部であると思われ

これは大変なことにではないかと急に胸さわぎを感じました。広島市内に住んでいた私の家族は、父が病気のため、七月下旬に田舎(神戸郡油木町)に疎開していましたが

市内に何軒かの親戚があり、中でも十日市に近い私の生家には祖母と叔父夫妻が住んでいて、昨五日が工場の定休日だったので私も呉からこの家に帰って祖母と夕食を共にしたばかりだったのです。翌七日の朝、工場より急に通知があり、これから広島へ工場の船を出すから、広島に親族があって、その消息を早く調べたい者は乗ってもよいとのこと。私も早速に二日ばかりの休暇届けを出し、数人の仲間と一緒に乗船しました。宇品港に着いたのは十時過ぎで、それから歩き続けて御幸橋を渡り、先月まで家族が居た南千田町に一人で立ち寄りました。このあたりは焼けてはいませんが、塀は倒れ家は傾き、出てきた知人の顔もうつろでした。ゆっくり様子を聞く余裕もなく別れて北上すると、日赤病院の裏のあたりからいよいよ焼け野原となり、歩きやすいところをと電車通りの道を選んで、鷹野橋→紙屋町→相生橋→十日市→横川とひたすら歩きました。

 強烈な夏の日差しの下、ひどい異臭と暑さに耐え、道路端にずらりと並ぶ無残な死体の列に目をそむけ、土手下で水を求める重傷者達の悲痛な叫びに心を痛め、ああこれが地獄というものかと思いつつ歩を進めましたが、この日私がうけた最大の衝撃は

爆心地のすぐ近くの相生橋の上に立って周囲をぐるりと一まわり見回した時の絶望的な「むなしさ」でした。生まれて十数年間慣れ親しんできた広島の町が今や全く消えてしまった。一昨日はたまたま呉から祖母の家に帰って心身を休め、夕方、広島駅行きの電車に乗ってこの相生橋を渡ったというのに、何という恐ろしいこの変わり様であろうか。ーーー何とも言えない虚無感に襲われて、強い放射線を浴びていることも知らず、しばらくは立ち尽くしたまま、足がすくんで動けませんでした。

 この後のことはあまり詳しく書く気になれないので簡単にすませます。

白島町の親戚は焼けていましたが、火がまわる前に逃げる余裕があり、全員無事でした。この晩から郊外の親戚の家に二泊して、緑井付近の収容所等をまわり歩きました

叔母(父の姉) は家の下敷きになり負傷しながらも自力で逃げて助かり、結局、死亡したと思われるのは祖母を含めて四人でした。祖母は享年七十三才。冥福を祈ります。

 

 

    「運命のいたずら」           頼 郁代

 

 昭和二十年 八月六日 八時十五分 広島市に原子爆弾が投下された。

 当時父と私とすぐ下の弟の三人は、上柳町八番地に住んでいました。祖母と母と弟二人と妹は、昭和十九年四月から父の実家の竹原に疎開し、東京都目黒区八雲在住の父の弟長男昭男君と長女文子ちゃんも預かっていました。八月五日は日曜日だったので、上柳町に住んでいた叔母と第一県女に通っていた従妹は、竹原に食糧の買い出しに来ていました。

 私は比治山女学校を卒業後、宇品の運輸部の監督官が所属していた兵器行政本部に勤務していて、八月六日は丁度休日に当り、特別用事はなかったのですが五日の最終列車で竹原の母のもとへ出掛けました。伯母達は五日夕方広島へ帰るというのを一晩泊まって帰ってと母に引き留められて、六日朝帰って行きました。

 海田市で列車は止められ、原子爆弾が落ちた市内には入ることが出来ず、その足で竹原に引き返して来ました。昼過ぎ父から手紙を預かって来たという町の人が訪ねて下さり、広島に新型爆弾が落とされた様子を詳しく知ることが出来ました。

 もう一軒、上柳町九番地に住んでいた父の兄一家も、被爆して竹原に引き揚げて来ました。四世帯が集まって生活することになり、さしもの広い家もこの時ばかりは超満員になりました。お風呂も五右衛門風呂でしたから、大勢で入っても時間はかかりましたが、お湯もたっぷり使って快適でした。夜具布団や食器類も皆に分かち合い、お互いよく助け合って暮らしました。

 父は上柳町の家の下敷きになりましたが、運よくそこから脱出し、隣の兄一家の人達と縮景園の裏の河原に避難し、そこで弟の正夫と出逢うことが出来たと話していました。弟も前日迄は県庁庁舎跡や付近の建物疎開の手伝いに行っていました。

六日は東練兵場での作業となり、火傷を負いましたが、命拾いしました。現在は高槻市に在住し、兵庫県立塚口病院の脳外科医として働いています。附属小学校では堀之内先生に受け持っていただき、大変お世話になりました。娘の息子は附属中学校、高等学校で、大久保先生に教えを受け、親子で大久保先生御兄弟に御恩を受けたことになりました。

 父は県立広島病院へ勤務していましたが、丁度出勤前で、浴衣の寝巻姿で家に居た為に、机の下に身をかくし、大怪我にはならず、河原に避難後すぐに、通りがかりのトラックに便乗させてもらって、西条の国立療養所の院長の藤井先生を訪ね、友人のよしみでワイシャツ、ズボン、靴の一式を頂戴し、早速広島に取って返し、多勢の患者さんの治療に当たりました。

 当時の怪我人の診療の様子が後日、アメリカから返還されたビデオの中から見つかり、とても懐かしく思いました。当時県病院は水王町にありましたので、先生方や看護婦さん達も多勢亡くなられました。草津小学校に集まり多くの方々と日本医療団を結成して、多勢の患者さんを収容し治療を続けました。

 八月中は父も弟も学校に泊り込みの為、母と交代で見舞っては下着等をとどけたり

お手伝いもしました。毎晩のように誰かが息を引取り、次は私の晩ではないかと皆がおそれおののく様子は、この世のものではありませんでした。額に大きな梁が落ちて来て、ザクロの様にパックリと傷口があいている人、全身火傷で皮がめくれ、うみが出ている人、その傷口にハエがたかりうじ虫がわいている人、それでも皆一生懸命生きようと頑張り、元気な人は傷ついた人をいたわり慰め、暑さも忘れていました。

校庭の隅には亡くなった人を荼毘に付す火が燃え、夜になるともの悲しさがただよいました。幸い草津港が近くにあり市場で魚を買って、大世帯の病院の台所も助かりました。又福島町の屠殺場へ父は往診に出掛け、牛肉等を仕込んで来て、これも皆さんの貴重な蛋白源になりました。

 県病院は字品にありました陸軍病院の建物を利用して診療を開始することになり、官舎も修理が終わった時点で、引っ越しました。

 竹原に疎開していた母や弟や妹達も広島へ帰って来ました。私は忠海に疎開して洋裁学校を開いておられた土井田阿佐代先生のもとに竹原から通いました。先生が広島に帰られて国泰寺町に校舎を新築されたのを機に又広島校へ通いました。昭和二十四年五月、従兄と結婚して再び竹原に住むことになりました。終戦後しばらく一つ屋根の下で暮らした姑や主人や小姑もまるで兄弟姉妹の感覚で、他家へ嫁いだ緊張感はなく、我が家の延長のようでした。胃腸が弱かった事と原爆に逢ったことで体調をこわした主人は、昭和三十年十一月十九日に亡くなり、翌年三月又広島の実家に身を寄せて、再び洋裁の勉強をすることになりました。以来天満屋や県庁物資部の婦人服を手がけておりましたが、五十五年八月又竹原へ帰りました。

 竹原の家は昭和六十三年十二月十九日付けで本家に当たる春風館、復古館共、国の重要文化財に指定されました。平成五年一月から平成九年三月迄四年と三ヶ月かけて修理も完了しました。国と県と市と個人で各々費用を分担しての作業で、八億円余りで立派に復元していただきました。               ー 終 ー

 

  「 大久保馨組の昭和二十年八月 」    新 延 和 子

 

 ピカ! ドーン 突然の閃光と轟音で何が起こったのかすぐにはわからなかった。

そのうち皆が爆弾が近くに落ちたらしいと口々に叫んだ。

 その時、私は字品の船舶司令部の部屋に朝礼を終えて帰ったところだった。十八才の私はとにかく心配しているだろう両親に自分が元気でいることを知らせなければと焦った。何が何だか判明しないまま数時間がたち、皆それぞれ散っていった。いいしれぬ不安と恐怖におびえながら仲間の友達と三人でともかく富士見町の家の方へと向かった。自分のいる近くがやられたと思っていたが、どうもそうではなく市内の中心部の方向のようだ。行く途々、軍のトラックが沢山の罹災者の人を積んで字品方面へ次々と向かっていた。まるで地獄絵図、乗っている人がみな古代の土偶のようで、その上、髪は逆立ちして茶っぽく、ホコリにまみれ、目だけギョロリとにらみつけていて、この世では見ることも出会ったこともない形相だった。こちらが普通の身体で歩いていることがその多くの人の目でなじられているようで辛かった。 NO,2へ続く