ヴェルビュタワー琴似町内会主催による「戦争について考える会」の講演原稿をここに記すこととします。

 私は、1926年(大正15年)生まれの現在90歳でございます。

記憶しているのは、満州事変、日中戦争、アジア太平洋戦争、いわゆる15年戦争の

時代と戦後の71年です。終戦は19歳の時でございます。

 本日、「岐路に立つ日本」という題で話をさせて頂くのは、日本が国の歩みの岐路

に立っていること、そして、一旦進路を誤るとすぐに破滅することは無くても、長期

的に見ると惨憺たる結末に陥ることを身をもって痛感しているからでございます。

 私が80歳頃になった時、過去を振り返って最も痛切な記憶として思い出されたの

は19歳の時のことでございました。終戦まじかのこの頃、軍部は本土決戦・一億玉砕と叫び世の中は異様な空気に包まれておりました。そして、私は広島で原爆を受け

数々の凄惨な光景を目にしました。

 私の本業は理系の学問をすることでしたが、お話したような記憶が契機となって、

80歳頃から日本の近代史関係の本を読み、近代において日本が行って来たこと、そ

れが現代にどんな影響を及ぼしているかをしたためたのが「改訂版 かえりみる日本近代史とその負の遺産」という本です。8月の「戦争について考える会」にお出でにならなかった方々に見て頂けるようお回しします。

 この本を書き上げた後も同じテーマにこだわり続け、まだ読んでいなかった本や新

しく出版された本を読み、後の世代の方々に訴えておきたいと思うことがいろいろと

出てまいりました。そこで町内会長さんのご依頼に応えて本日話をさせて頂くことに

なった次第でございます。

「国の歩みの岐路」という言葉を使いましたが、そのひとつの道は現在の政権に強い

影響力を持っている「日本会議」、「日本会議議員懇談会」の主導する道です。

もうひとつはそれと殆ど真反対の道です。まず、日本会議の由来からお話したいと存じます。お配りした資料の2頁の上の図をご覧下さい。詳しくお話すると大変混みいってきますので、ごく大雑把に説明しますと、神道系の各派が結集しそこに若干の仏教系の人達が加わって作った「日本を守る会」と右派の財界人、文化人、知識人が中心となって作った「日本を守る国民会議」が主な源となって出来たのが「日本会議」です。図には「生長の家」という流れを表示してありますが、これは谷口雅春が1930年(昭和5年)に設立した新興宗教の集団です。

 この集団は戦時中右翼として活動していましたが、戦後かなり経って政治活動から

身を引きました。しかしこの教団の思想の影響を受けた人達がかなり日本会議に入り活動しているようでございます。また、図では神道政治連盟も日本会議に流れ込んで

いるように書いてあります。しかし神道政治連盟という独立した組織は今もあります

ただ、その会員で日本会議にも加入した人は沢山いるようです。図はそのことを示し

ているのかと思います。

 日本会議の会員数はウイキペデイアによりますと、約38,000人だそうです。

国会議員の中にも日本会議に属する人は多く「日本会議議員懇談会」というグループ

を作っています。人数は約280名、多くは自民党員です。安倍首相そのものがこの

会に属し、資料4頁にあるようにかなりの会員が安倍内閣に入閣しています。

 次に日本会議の人々がどんなことを主張しているのかを見ていきたいと思います。

まず、資料の2頁の下の表を見て下さい。上から3番目の欄の歴史認識の欄が略した

記述になっていて分かりにくいかと思いますので補足します。「アジア開放戦争」と

いうのは、現在アジア太平洋戦争と呼ばれている戦争が、欧米の植民地となっていた

アジアの諸地域を開放し、独立させるための正義の戦いであった。という程の意味だ

と思います。「強制連行否定などの観点の普及」とあるのは、朝鮮からの「従軍慰安

婦」、中国・朝鮮からの労働者の強制連行の否定のことを意味しているのだろうと思

います。また、靖国神社を重視すべきことが書いてあります。靖国神社は天皇のため

に死んだ人を祀る神社で、戦時中は天皇のために死ぬことは最高の名誉、という理屈

でそれを押し進める役割を果たしていました。この神社の境内には遊就館という施設

が設置されていますが、私は約30年前に訪れた時、展示物やその説明は過去の戦争

を正当化するもので、まるで戦争中に逆戻りしたようで唖然としたことを覚えており

ます。

 次に資料の3頁を見て下さい。上から3番目の「教育関係の運動」の中に「自虐的

」という言葉がありますが、これは近隣諸国への加害を認める人達を罵倒するときに

右翼の人達がよく使う言葉です。これらの全体を見ると日本会議の人達の考えをご理解頂けると思います。要するに過去における近隣諸国への加害を認めず、過去の自国

を正当化する。これらの全体を見ると日本会議の人達の考えをご理解頂けると思います。要するにそのようなイデオロギーに立脚して憲法の改正、靖国神社への対応、軍事力の強化とその役割の範囲の拡大、子供達への教育を進めていこうとしているのです。そしてそれをもって国を愛することと考えているのだと思います。

 次に私の考えを申し上げたいと存じます。今、「私の考え」と申しましたが同様の

考えを持っておられる方は沢山いらっしゃいます。

 まず、事の順序として日本近代史をごくかいつまんでお話したいと存じます。

 1889年(明治22年)大日本帝国憲法が発布されました。1890年(明治2

3年)時首相山県有朋が「外交政略論」という文章を発表しました。その要旨は資料

1頁の下のキーになる事項の①に記しておきました。読んでみてください。

これがその後の対外膨張主義・帝国主義という国の歩みの出発点となったと考える学

者が少なくありません。日本はまず朝鮮への支配力を強めるため、日清戦争(1894ー

1895年、明治27ー28年)、そして日露戦争(1904ー1905年、明治37ー38年)の両戦

争を行い、朝鮮(韓国)への清国・ロシア両国の影響力を排除し、第一次(1904年

明治37年)から第三次(1907年、明治40年)までの三つの「日韓協約」で次

第に韓国政府の主権を奪い、1910年(明治43年)ついに併合して植民地としました。

 これに至るまでの日本の強引なやり方や併合後の武力を背景にした植民地統治が朝鮮の人々に強い反感を生むことになりました。以後、第一次世界大戦、満州事変日中戦争ー当時は支那事変と呼びましたがーと続き、領土や支配地域を拡大し、また対戦

した国の利権を奪ってきました。満州事変は当時日本の支配下にあった南満州鉄道を

1931年(昭和6年)日本軍が柳条湖で爆破し、それを中国軍の仕業として中国東

北部を占領し、地元民の自主的な運動の結果という名目で「満州国」を作りました。

国の元首には清朝最後の皇帝で革命により帝位を失った愛親覚羅薄儀を就かせました

しかし、政府各部門の実権は日本人が握り、満州国は日本の傀儡国家でした。

 日中戦争も基本的には日本の対外膨張主義・帝国主義から起こったものです。

参考文献Ⅱ には日中戦争の実情を書いたものが多く含まれていますが、日本軍が中国

人々に対して著しく残虐なことをしたことが生々しく書かれています。

私がとりわけひどかったと思っているのは731部隊のやったことですが、せめて①

だけでも読んで頂ければと思っています。

 米国は日本の中国侵略に強く反発し、1939年(昭和14年)日米通商航海条約

の打ち切りを通告して来ました。この効力は6カ月後に発生、当時日本が米国に大き

く依存していた石油やガソリンの輸入が出来なくなりました。また、米国は事実上中

国から日本軍を撤退させることを要求してきました。これに対し当時の近衛文磨内閣

の陸軍大臣東条英機が猛然と反発し、「多大の犠牲を払った支那事変ー日中戦争の当時の呼び名ーの成果を無にするものだ。満州、朝鮮も危うくする撤退は退却です。」

と述べたとのことです。当時の陸軍では退却は絶対に許されない事だったようです。

 1940年(昭和15年)7月、ドイツ、イタリアとの軍事同盟を結び「枢軸国」

を形成しました。後に枢軸国に対抗して戦った国々を「連合国」と呼びました。

1941年(昭和6年)10月、近衛文麿内閣は総辞職し、東条英機を首相とする内

閣が成立しました。1941年(昭和16年)12月8日、米、英、オランダ等の領

土を含む南太平洋の島々やアジア大陸南部の諸地域にいっせいに攻撃を始めました。

 政府は中国との戦争を含むこの戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことに定め、アジア諸

地域を欧米の植民地から解放すし「大東亜共栄圏」を作るための戦いと称してこの戦

争を正当化しました。当時の日本の国家権力は己に都合の悪いことは隠し、都合のよ

いことばかり強調していましたが、アジアの人々を欧米の植民地支配から解放すると

の政府の言い分は多くの日本国民に説得力をもち知識人達にも共感する人達が沢山出

ました。

 しかし、資料1頁目の一番下の②に記してある1943年(昭和18年)5月の御前会議で決定された「大東亜政略指導大綱」を読んでみてください。これを読むと広

大な地域を日本の植民地とすることが書かれており、美辞麗句をつらねて戦争の正当

化を強調したのも表向きの言い分で、この戦争も対外膨張主義、帝国主義路線の延長

線上にあるものでした。

 戦争の経過を略述しますと、開戦当初は破竹の勢いで太平洋の島々を占領しました

こうして資料5頁の左側に示されているソロモン諸島やニューギニア島を最前線とし

て戦うことになりました。しかし、食糧、兵器の補給が困難だったため多くの餓死者

を出しつつじりじりと押し返されるようになりその勢いは加速度的に早まりなした。

1945年(昭和20年)3月末、米軍は沖縄への攻撃を開始、圧倒的な兵力で日本

軍を攻撃、6月23日、日本軍司令官や首脳達が自決しました。この戦争で多数の沖

縄県民が犠牲となりました。また、多数の若者達が九州の基地から航空特攻隊員として沖縄に向い痛ましい戦死をしました。たのみにしていたドイツは5月7日降伏しま

した。イタリアは1943年すでに降伏していました。

 本土では、「本土決戦」、「一億玉砕」というスローガンが叫ばれ異様な空気に包

まれていました。しかし、日本の多くの都市が爆撃により焦土と化し8月6日に広島

に8月9日に長崎に原爆が投下され、8月9日ソ連が満州国に攻め込み、満州国は一

気に瓦解しました。多くの在留邦人が殺害され、強姦され、また、自決しました。

ここに至って1945年(昭和20年)8月14日、ポツダム宣言ー主要連合国が作

成した日本の降伏条件ーを受け入れ連合国に降伏しました。翌日、昭和天皇のラジオ

放送によりそれが国民に知らされました。ここで満州事変からアジア太平洋戦争敗北までの時代に私が肌で感じた日本社会の空気について述べさせて頂きたいと思います

 

 日本の国家権力や多くの民間人は、日本は世界にただひとつの「神国」であり、そ

れゆえ「万邦無比」であり、ヤマト民族は他に優越する、としていました。それは中

国や朝鮮の人達を軽蔑することとつながっていました。

 政府は自らに都合の悪いことは国民に知らせず、言論の自由も思想・信条の自由も

無く郵便物は検閲されました。メデイアは国家権力の宣伝の道具になっていました。

国の方針に沿わない言動をする人は特別高等警察(特高)に厳しく取り調べられまし

た。こうした社会の空気に洗脳された一般の人々は、国の方針に沿わないと見た他の

国民を「非国民」とののしっていました。戦争が激しくなるにつれ、国家権力は神で

ある天皇のため、という名目で国民を使い捨てるような態度を取りました。

それに従って戦死した軍人を「名誉の戦死」をしたと美辞麗句の限りを尽くして褒め称えました。こうして死んだ人達の霊魂の受け入れ先が靖国神社でした。国民個人の

人権とか人間の尊厳とかについては全く考慮されませんでした。

 政府が自らに都合の悪いことを国民に知らせなかったことは前に述べましたが、政

府は同盟を結んだ国についても不利なことは報道しませんでした。それどころかラジ

オはしばしばヒットラーの演説を放送し褒めた称えました。

 日本会議の人達は戦前・戦中の日本を正当化しています。そしてアジア太平洋戦争

のことを当時の政府の定めた呼び名である「大東亜戦争」と呼んでいるそうです。

しかし、既にお話したように、アジアの諸地域を欧米の植民地から解放する、という

のは政府の表向きの言い分に過ぎず広大な地域を日本の領土とすることを外に漏らさ

ないかたちで決めていました。また、日本会議の人達は、アジア諸地域の人達が戦後

植民地支配を排除し独立したことを、彼らの言う「大東亜戦争」の正当性の根拠とし

ているようです。しかし、第二次大戦後の植民地の独立は全世界で起こったことです

アジア特有の現象ではありません。それは世界的に民族独立の気運が高まったこと、

1960年(昭和35年)国連で「植民地独立付与宣言」が可決されたことがそれを

加速させたためと言われています。

 ここで、時代を終戦後の出来事に話を戻したいと思います。降伏後、日本は米国を

中心とする連合国の支配下に入りました。総司令官は米国のマッカーサーで、彼の下

で具体的な政策を立案する部局はGHQと呼ばれていました。

 昭和天皇に対する米国の国内世論、連合国に属する諸国の見解は厳しいものでした

が、マッカーサーは占領軍による直接統治よりも昭和天皇を利用した間接統治のほう

がはるかに容易と考えその線で政策を進めました。それは日本の政府や宮中の天皇側

近の人達にも望ましいことでしたので大いに協力しました。

 1945年(昭和20年)12月に「神道指令」と呼ばれるものが日本政府に対し

発せられました。日本には明治以来国家神道と呼ばれるものがありそれに属する神社

の運営費は国が支出していました。靖国神社もそのひとつでした。国家神道は軍国主

義を推進したと言われていますが、「神道指令」はこうした役割を担っていた国家神

道をなくすること、国家が特定の宗教と結びついているのは望ましくないので「政教

分離」するというのがその目的でした。この指令で靖国神社はひとつの宗教法人にな

りました。また、憲法改正も行われることになりました。弊原喜重朗内閣では松本蒸

治を委員長とする委員会で原案を作りましたが、それは明治憲法を基本とし若干表現

を変えたものに過ぎませんでした。驚いたGHQは大急ぎで草案を作りに本政府に提示

し、それを基本に新憲法を作るよう提示しました。日本の国会は若干の修正を行った

うえ可決し、1946年(昭和21年)11月3日公布、半年後の翌年5月3日に発

効しました。

 明治憲法では統治権は天皇にありましたが新憲法では主権は国民にあり、天皇は国

民統治の象徴ということになりました。まさに天道説から地動説への転機、いわゆる

コペルニクス的転換でした。人権の尊重、言論の自由、宗教の自由も明記されました

しばしば問題になっている9条も盛り込まれました。

 山崎雅弘さんによると、この条項は弊原喜重郎の発言をうけてマッカーサーがその

骨子を決めたというのが現在の通説だそうです。

 新憲法発効後の1947年(昭和22年)9月、昭和天皇は側近を通じ、内閣の頭越しにマッカーサーに対し、沖縄に日本の主権を残したまま25年、50年あるいは

それ以上占領を続けることを要請しました。これを日本本土では「沖縄メッセージ」

沖縄では「天皇メッセージ」と呼んでいます。新憲法では天皇は国民統治の象徴であ

り政治的実権を持たない事になっており憲法違反の行為でした。

また、昭和天皇は戦後まもなく国民を励ますため全国を巡幸しましたが沖縄には生前

ついに訪れませんでした。沖縄は戦争末期本土の盾となり多くの県民が亡くなりまし

た。それを思う時、昭和天皇の冷酷な一面をみる想いがします。(平成天皇は11回

の沖縄訪問をし沖縄県民の心に添われておりました。

 もうひとつ大切なこととして極東国際軍事裁判がありました。詳細は略しますが、

1948年(昭和23年)判決が言い渡され、東条英機、松井右根ら7人に死刑が宣

告され、後に刑が執行されました。彼らは後に靖国神社に合祀されました。

 その後、東西冷戦が進む中で1950年(昭和25年)警察予備隊令が公布されや

がて保安隊となり、1954年(昭和29年)自衛隊となりました。時を少し遡りま

すが、1951年(昭和26年)西側諸国との講和条約が米国のサンフランシスコで

結ばれました。同時に日米間には安全保障条約が締結されました。

 日本の敗戦後独立した朝鮮半島の国ー北の朝鮮民主主義共和国、南の大韓民国(韓

国)、国民党と共産党の内戰の結果中国本土を支配することになった中華人民共和国

ソ連との講和条約は後回しになりました。

 韓国とは1965年(昭和40年)日韓基本条約と日韓請求権協定が結ばれました

しかし、これらの条文の解釈をめぐって何かと論争が起こっています。

 次に中国ですが、1972年(昭和47年)当時の首相田中角栄らが訪中し協議の

末 日中共同生命を発表しました。その中で中国側は日本国に対する賠償請求権を放棄

することを明言してくれました。1978年(昭和53年)園田直外相らが訪中し、

日中共同声明を基礎とした日中平和友好条約に調印し、日本側は中国に対し約3兆円

のODAを提供することになりました。

 次に、今まで述べたように日本近代史の残した負の遺産とその処理につきお話した

いと思います。日本は明治以来戦争に次ぐ戦争を重ねてまいりました。その間、特に

アジアの近隣諸国にさまざまな加害を行い多くの傷を負わせて来ました。それが今な

お前記諸国の人々との和解を妨げています。

 以下主なものについてお話したいと思います。

① 従軍慰安婦問題

 日本軍は広範な地域に慰安所を設置し、軍人達に対し慰安婦に性的サービスをさせ

てきました。1991年(平成3年)韓国の元慰安婦の方々が謝罪と賠償を求めて東

京地裁に提訴しました。これを契機に日本政府は実情を調査し、1993年(平成5

年)宮沢内閣の河野官房長官が日本軍の関与を認め謝罪しました。これを受け199

4年(平成6年)村山富市を首相とする自民、社会、さきがけ3党の連立政権が「ア

ジア女性基金」という方式で謝罪と償いをすることを決めました。

その内容は、

ⅰ 元慰安婦の人達に国民が拠出した償い金と政府が支出した医療福祉支援金を提供。

ⅱ 時の内閣総理大臣が署名したお詫びの手紙を個々の元慰安婦の方々にお渡しする。

ⅲ 上記を実施するための諸経費は日本政府が負担する。

日本のそれまでの歴代政権は、賠償問題は1965年(昭和40年)の日韓基本条約

日韓請求権協定で決着済みという態度を取って来ました。そこで村山政権もこれを踏

襲し賠償つまり法的なものではなく道義的なものという形をとったと言われています

 前に述べたような提案に対する反応は国により、個人によりまちまちでしたが特に

韓国で猛烈な反発が起こりました。慰安婦制度は日本国軍すなわち日本国家が設けた

ものであるから国家として法的な形で謝罪・賠償をすべきだ、というのです。

ここにも日韓基本条約・日韓請求権協定の解釈の違いがあるように思えます。ただ、

日本人の中にも「アジア女性基金」という方式に批判的な人がいます。また、北朝鮮

にも慰安婦にされた方はあるはずですがアジア女性基金の対象にはなりませんでした

 2015年(平成27年)安倍内閣の外相と韓国の外相との間で次のような合意が

なされたと発表されました。元慰安婦の方々を支援するための財団を設立し、日本政

府は10億円を支出することで最終的かつ不可逆的に解決した、というのです。

 日本側はこの際、ソウルの日本大使館前に立てられた慰安婦を象徴する少女像を撤

去するよう最大限の努力をするよう求め韓国側もそれを受け入れたと報道されました

しかし、韓国国民は像の撤去に強く反発しているようです。

② 中国国民の強制連行・強制労働の問題

 未解決の戦後補償・戦後70年残される課題によりますと、1944年(昭和19

年)12月、次官会議で中国から労働者を移入することが決定されました。

それは労働者の不足に悩む炭鉱、金属鉱山、土木、建設などの企業の強い要望による

ものでした。中国で労働者を集めるにあたっては軍事力による強制連行が行われ、約

39,000人の中国人が日本全国135の事業所に配分されました。終戦翌年の3

月までに全国平均で17.5%の死者を出しました。

 「戦後70年残される課題」によりますと戦後・強制連行・強制労働の被害者達が

日本の裁判所に15の訴訟を起しました。

 当初問題になったのは日本でも中国でも日中共同声明に書かれていた対日賠償請求権放棄の解釈でした。これが個人や個人の集団の賠償請求権も認めないことにつながるかどうか、ということでした。

 始めは個人や個人の集団の賠償請求権を否定するとの解釈が有力でこれが多くの訴えを敗訴に導くことにつながったようです。しかし、やがて個人や個人の集団の賠償請求権を奪うものではない、という見解が日中両国で一般化し、秋田県花岡で中国人

に強制労働をさせていた鹿島建設と2000年(平成12年)に和解成立しました。

また、広島県安野で中国人を使っていた西松建設との間で2009年(平成21年)

に和解が成立しました。強制労働をさせていたのは企業でしたが、強制連行したのは

国でした。しかし、国はそれを償うお金を出すことはしませんでした。

③ 朝鮮人の強制連行・強制労働・未解決の戦後補償、

「戦後70年残される課題」によりますと朝鮮からは中国よりも早くから多くの人々

が強制連行され強制労働をさせられました。1990年(平成2年)以降、被害者9

グループが日本の裁判所に提訴しましたがすべて敗訴に終わりました。

 ここで思い出すのは第二次大戦中ナチス・ドイツが行った強制労働に対する戦後ド

イツの対処の仕方です。ナチス・ドイツは第二次大戦中、占領軍から多数の人々を連

行し強制労働をさせました。これに対し2000年政府主導の下に「記憶・責任・未来」という財団を作り、強制労働をさせられた人々に、政府と企業が半分つつ補償金

を出すことを決め実行に移しました。この事業は2007年終了しましたが受取った

のは100ヶ国以上の人達で約176万人でした。事業終了の記念式でケーラー大統

領は「補償は平和と和解の向けた旅の始まりに過ぎません。」と述べ、ドイツは過去

の罪を永遠に償うとの姿勢を強調したそうです。なおこの補償は道義的なものとされ

たそうです。

④ 中国への毒ガスの放置

 資料5頁の右の図をご覧になって下さい。15年戦争中日本軍はジュネーブ議定書

で禁じられていた毒ガスを使用しました。南さんによりますと、敗戦後、日本軍は毒

ガスや毒ガス兵器を現地の土に埋めたまま帰国しました。そのため中国の人達に多数

の被害者が出ました。

中国は日本に対し毒ガスのある場所を特定する情報の提供を求めましたが、日本は全

くそれに応じなかったそうです。岩波から出版された「私の戦後70年談話」の中で

自民党の元幹事長野中広務さんが、中国から土の中に埋めた

毒ガスの被害を受けた人達が訪ねてきて残された毒ガスの処理を訴えたことを書いて

おられます。

 以上、特に問題になったことだけを取り上げましたが他にも訴訟になった事は沢山

あります。15年戦争つまり満州事変からアジア太平洋戦争終了までの中国人の死者

は、中国のメデイア新華社通信によりますと2,100万人にのぼるそうです。期間が

長かったこと、戦域が広大であったことを考えると誇張とは思えません。その殺し方

は参考文献Ⅱをみると全く罪の無い人達を含む極めて残虐なものでした。拷問・略奪

強姦も頻繁に行われました。当事者、肉親、見ていた人達が日本軍に対し強い怒りや

深い怨恨感情を抱き続けるのは当然のことと思います。

既に、お話したように、中国政府は1972年(昭和47年)の日中共同声明で賠償

請求権を放棄してくれました。これに対し日本は中国にODAを提供しました。

しかし、日本軍の犯した非人道的行為はお金で帳消しに出来るものではありません。

日本は日本軍の犯した犯罪・加害に対し大きな道義的な責任があるはずです。

もしODAで決着がついたと考えるとすればあまりにも非人道的だと思います。

 1995年(平成7年)村山首相はいわゆる村山談話で過去の侵略、植民地支配に

つき謝罪しました。また、「アジア女性基金」で元慰安婦の方々への謝罪と償いに努

めました。サハリンに残された朝鮮半島の方々を母国に送還する事業を行ったとも聞

いています。しかし、これら全体をみても近代においてアジアの隣国の人達に対して

犯してきた加害の罪を償うにはあまりに不十分だと思います。

 岩波の「私の戦後70年談話」の中に1931年(昭和6年)生まれの映画監督

山田洋次さん、あの寅さんの映画を作った山田洋次さんの文が載っています。

 山田さんは幼い時期満州にいたそうですが、当時日本人が満州人、中国人に対し傲慢であったことを記した後、次のように書いておられます。「戦後生まれのドイツの

メルケル首相は、アウシュビッツ収容所の解放70周年に合わせてベルリンで開かれ

た式典に出席し「アウシュビッツを私達ドイツ人は深く恥じます。人道に対する犯罪

には時効はありません。過去を記憶し続けることは私達の責務なのです。」と述べて

おります。ヒトラーの時代に同盟国であった日本は、日本人と日本の政府はこの態度

を謙虚に学ぶべきである。中国や韓国との関係改善そこから始めなければならないだろう。思いやりという言葉があるが、中国人や韓国人の立場に、つまり相手の立場に

立って考えて見ればそれはすぐ判ることではないか、と少年時代を中国で思育った僕

は今思うのである。私も同感です。

 なお、アウシュビッツというのは多分ご承知と思いますがポーランドにある都市で

ユダヤ人の大量虐殺が行われたところです。ドイツのワイツゼッカー大統領は198

5年5月、終戦40周年にあたり「過去に目を閉ざすものは現在にも盲目となる。」

という言葉を含む有名な演説をしました。

 過去を知ることは勿論大切ですがそれが客観的で正しいものでなければなりません

ドイツは戦後、客観的で正しい歴史を明らかにしそれを後の世代に伝えるために非常

な努力をしました。東西冷戦の時代にも、かって侵略したポーランドの歴史学者と討

議を重ね協力して教師向けのハンドブックを両国の歴史学者が合同で執筆し、199

4年から5巻に分けて出版したということです。他方フランスとも共同で歴史教科書

を執筆し発行したそうです。また、ドイツにはゲオルグ・エッカート国際教科書研究

所という施設があり、世界各国の歴史教科書を収集し、歴史学者、歴史教育者、教科

書執筆者の合同会議を開き、教科書の内容が公正・公平なものとなるよう勧告を行っ

ているそうです。

 私も歴史に学ぶ場合、客観的、国境を超えた真実の探求がなされなけらばならない

と思っています。日本会議の人達は、国境を越えアジアの隣国の人達に通用する考え

方ではなく、独りよがりの自己正当化を行っていると思います。

 日本が過去にアジアに隣国に加害を行ったことは議論の余地がないほど明白なこと

です。それを否定するようでは隣国との和解が出来る筈はありません。

 日本会議の強い影響下にある安倍政権は隣国との本質的な和解に努力することなく

アジアで孤立し、強大化する中国に対抗するため、はるか東にある米国に頼り、沖縄

に膨大な米軍基地を押し付け、米国との軍事的提携を拡大・強化しています。

これは、相手の更なる軍事力の強化という悪循環にはまり込んでいく危険な道だと思

います。それに米国は何の見返りも無く日本のために自らを犠牲にするはずはありま

せん。それが日本に不利益をもたらす可能性は十分にあると思います。

 日本会議の人達は過去の於ける隣国への加害を否定し、自国を正当化することを国を愛することと思っているようですが、それは違うと思います。

 どこの国も過ちをすることはあるでしょう。それを知った時潔く非を認め謝罪や償

いをすることこそ己の国を立派にする真の愛国の道だと思っています。これは過ちを

犯した当事者だけでなく、国を引き継ぐ子や孫の使命でもあると思っています。

 日本会議の人達の主張する道を選ぶか、私の主張したような道を選ぶか、日本は今

重大な岐路に立っていると思います。柳条湖事件から14年で日本は惨憺たる敗戦を

迎えました。 ヒットラーは1933年1月首相になり12年後の1945年5月にナチス・ドイツは降伏しました。日本もナチス・ドイツも、自己正当化し一時的には

大成功したように見えました。しかし、基本的、本質的な点で国の進路を誤ったため

最終的には悲劇的結末を迎えました。現在の政治の評価もそうしたことを考慮に入れ

てすべきだと思っています。

 現在、国内・国外で日々様々な出来事が起こっています。そして私達は目先のそれ

らに気をとられがちです。しかし、現在アジアで起こっている様々な出来事のうち少

なからぬ出来事の根底に、近代における日本の侵略・非人道的な植民地化とその統治

が硬い岩盤のように横たわっているように思えて仕方がありません。

 戦後ドイツは過去の教訓を生かし、かって戦った近隣職国への謝罪と償いを誠実に

行い和解を実現しました。

 日本も日本会議の主張するような自国正当化の路線を取るのではなく、おそまきな

がら隣国への謝罪と道義的償いを誠心誠意行い心からの和解を実現する道を歩んで欲

しいと願っています。

 

 最後に、国の進路とは直接的な関係は無いように思われるかもしれませんが、私が

強くこだわっている沖縄のことに少しお話をさせてください。

 沖縄は幕末には日本の薩摩藩と清国の両方に貢物をささげる、いわば日清両者の属

国のような王国でした。ところが、1872年(明治5年)に日本政府は強圧的に日

本の一部である琉球藩とし、さらに1879年(明治12年)琉球藩を沖縄県としま

した。清国は日本のこうしたやり方を認めませんでしたが、日清戦争後それを認める

ようになりました。日本政府は沖縄県民に皇民化教育を行ってきました。

 アジア太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月26日、米軍は慶良間諸島

に上陸、4月1日には沖縄本島に上陸、日本軍守備隊を次第に南部に追い詰めて行き

ました。この過程で多くの県民が犠牲になりました。日本軍人が県民に対し数々の残

酷な仕打ちをしたとも言われています。14歳以上の少年を鉄血勤皇隊に組織し実践

に参加させその50%が死亡しました。女子生徒はひめゆり学徒隊その他を結成して軍に協力し57.5%が死亡しました。

 既に述べたように、6月23日島の南部に追い詰められた日本軍の首脳は自決し、組織的抵抗は停止されました。当時、広島にいた私には沖縄がごく近くに感じられい

よいよ次は我々の番だ、と実感しました。

 こうして本土の盾となった沖縄に対し、昭和天皇は既に述べたように「沖縄メッセ

ージ」により米軍の沖縄占領の継続を要請しました。

 1971年(昭和46年)佐藤栄作内閣の時に沖縄返還協定に調印、翌年5月沖縄

は日本に返還されました。しかし、その後も政府から膨大な米軍基地を強制的に押し付けられて苦しんでいます。

 ここで思い出すのは大田実海軍少将のことです。今から40年位前だったでしょうか。琉球大学に集中講義に行った際、豊見城にある海軍壕と呼ばれているところを見

に行きました。斜めに深く掘り下がてある壕の入口に、多分海軍陸戦隊の司令官だっ

た大田実海軍少将が、6月6日の午後8時過ぎ、自決直前に海軍次官にあてて送った

電文が掲示されていました。そこには沖縄県民が如何によく日本軍に協力してくれたかが切々と述べられ、最後に「沖縄県民かく戦へり。願わくは後世県民に対し特別の

ご高配を賜らんことを。」と記されていました。

現在の沖縄の状況は「特別のご高配」どころかその真反対です。現在の状況を変える

のは本土の日本国民全体の重要な責務だと思っています。

そして、解決のカギは中国との真の和解を進めることにより沖縄の米軍基地の必要性

を少なくすることだと思っています。

 

 以上で私の話を終わらせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。

 

                          ー 札幌 玖村敦彦 ー