広島での被爆と終戦 

                   (改訂版かえりみる日本近代史とその負の遺産ー寿朗社より)

昭和19年(1944)4月、私は旧制広島高等学校理科甲類に進学した。動機は優秀な兵

器を作るのに少しでも役立ちたいと思ったからである。(理科甲類は大学の理工学部に進むのが原則だった。) 1年生のときは、学徒勤労動員で三ヶ月軍需工場で働いたこともあったが一応講義を受けることが出来た。  しかし、翌年4月初め、二年生になると早速勤労動員で呉の海軍工廠に派遣された。当時は九州などの基地から沖縄に向かって特攻隊機が盛んに飛び立っていた。私たちの仕事はこれらが装着する爆弾を製作することだった。

 ある日の日中、米軍機の大編隊による猛烈な爆撃を受けた。当日は夜勤だったため

私たちは工場に比較的近い工員寮で休んでいたが、空襲時には寮に隣接する横穴防空壕に避難した。爆撃は大型爆弾によるもので落下のたびに腹にこたえるような地響きがし、天井の土がパラパラと落ちてきた。やがて寮が被弾し炎上、大急ぎで防空壕から出て退避した。防空壕の入口の直前には大きなすり鉢状の穴が出来ていた。

もう少し近くに爆弾が落ちていたら私の人生は終わっていただろう。

昼夜兼行で爆弾を製作していた工場はみるかげもなく破壊された。昼勤で工場にいた人たちには死者が出たと聞いた。

 この間、戦況の悪化は加速度的に進み、六月末には沖縄が米軍に完全に制圧され、「本土決戦」「一億玉砕」が叫ばれるようになり、内心、自分の生きているのもあと一、二カ月だろうと思うようになった。そんな折り、七月上旬だったろうか、寮委員として広島市近郊の日本製鉄所に移るよう指示された。当時、旧制高等学校は「全寮制

」をとっており、一年生は全員寮生活をし、その一年生を二年生の寮委員が指導し面倒をみることになっていた。広島高等学校の寮は「薫風寮」と呼ばれ、広島市内の皆実町の校舎の近くにあった。しかし、この年は一年生が全員日本製鉄所に学徒勤労動員されることになったため、この会社の工員寮の一部を提供され、ここを臨時の薫風寮とした。寮は第一〜六寮に分けられ、各寮に一年生四十人余、寮委員三人という構成になった。私はT.K、T.G両君とともに第一寮を担当した。

入学時期は本来四月の初めなのだが、この年は戰局の悪化のため、入学が大幅に遅れ、新一年生の到着もばらばらで、担当する寮の一年生の顔と名前をやっと覚えたころ八月六日を迎えた。

八月六日ー原爆投下

 この日は工場の休日だった。私は寮に残り寮務をしていた。広島市内に自宅がある寮生や他府県から来た一部の寮生が帰宅・市内見物のため朝早く寮を出て市内に向かった。午前八時過ぎ、突然、閃光・大音響とともに強烈な爆風が寮の建物を襲った。

窓ガラスは粉々に砕け散り、私の顔にも無数の破片が突き刺さった。とっさに近くに爆弾が落ちたものと思い、在寮生は近くの山の防空壕へと急いだ。しかし、近くに爆弾が落ちた様子は見当たらない。そうしているうちに、広島市の上空の真っ青な空に巨大なドーナッツ状の赤い輪が現れ、その中心に白い雲が生じた。この白い雲はみるみる大きく高くなり、やがて、巨大なきのこ雲となった。きのこ雲の頂だは雷が発生しているように見えた。いったいそれが何を意味しているのか分かるはずがない。

一同怪奇な顔をしながら寮に帰った。

 それからどのくらい経ったであろうか。広島市の方向から、衣類が焼けてほとんど裸の状態になり、大火傷をして熟した桃の皮を剥いだように皮膚が剥けた人たちが続

々と逃げて来た。日本製鉄所の工員寮の空いたスペースはそれらの人たちの避難所に早変わりした。そしてこれらの人たちの言葉から広島市内で何が起こったのかだんだんと分かってきた。しかし、それは想像を絶することなので事態がなかなか飲み込めなかった。

 そのうちに広島市に出かけて寮生たちに遭難者があることが分かってきた。そこで寮毎に捜索・救援活動をすることになった。第一寮ではO・M君が負傷した状態で帰寮し、同行した寮友某君と広島市内のある橋の袂で被爆、別れ別れになった旨報告した

そこで三人の寮委員が協議し、大火傷を負ったO・M君の看護態勢をとるとともに、私が一年生四人ほどをつれて現地に向かうことになった。

 現地に近づいたときには日はすっかり暮れていた。橋の近くの一帯はすでにほとんど燃え尽きていたが、なお残り火がチロチロと燃え、地面からは強烈な火照りが感じられた。多数の避難者が焦土に倒れ臥し、その多くはすでに息絶えていたが、なかにはまだ生きている人もあり、最期の力を振り絞って、「助けてください」「水をください」と訴えた。それらの言葉には肺腑を抉る凄みがあり長く耳底に残った。

若干の人たちには水筒の水を飲ませたが、すべての人にというわけにはいかず、目的の場所へと急いだ。目的の場所についてみると、あまりにも徹底的な破壊のため捜索のしようがなかった。しかし、せっかく来たのだからと三十分くらいも探しただろうか。結局見つけようもなく帰寮し、状況をT.K、T,G両君に報告した。

 それからも私が捜索を担当することになり、未帰還の四人の一年生を探しに四人くらいの一年生をつれてほとんど連日市内各所を捜索して回った。爆心地(広島市の市街地のほぼ中央)を中心とする半径約二キロメートルの地域では完全に家屋が消失して一面の焼け野原となり、地面には焼け爛れた無数の遺体が散乱していた。

火災を免れた市周辺部の小学校などの施設には、即死を免れようやくたどり着いた遭難者たちが、足の踏み場もないほどの間隔で並べられていた。しかし、これらの人々も次々と死んでいき、救護所はたちまち遺体置き場となっていった。焼失した市街地に放置された遺体、市周辺部の救護施設の遺体は真夏の暑さにみるみる腐敗し、耐え難いほど強烈な死臭を放った。市内にあったいくつかの川には死体がたくさん浮き、川の流れのままに運ばれていた。赤ちゃんを脇にしっかりと抱えて流されていく若いお母さんの姿が印象に残っている。私たち捜索隊は一見して女や子どもと分かる人たちは別として、同じ寮の生徒はいないか、いちいち顔を覗き込んで進んでいった。

 結局、遺体を発見しお骨を遺族の方に渡し得たのはF.H君一人だった。

彼の遺体を見つけてくれたのはほかの寮の人で、国鉄広島駅の西側の踏切りで見たという。そこで私が確かめに行き、本人であることを確認した。翌日、一年生四人くらいをつれて焼きに出かけた。しかし、彼の遺体は前日見たところにはなく、軍隊が市街地の多くの遺体を東練兵場(軍隊が訓練に使っていた大きな平坦地)に運び、そこに並べて焼こうとしているところだった。多くの遺体の中から、F.H君を見つけ出し、隊長に事情を述べたところ、一番端の分かりやすい場所で焼いてくれることになった。そこで一年生は寮に帰し、私は自宅(焼失を免れていた)に行き陶磁器用の桐の箱を携えて現地に戻り、あり合わせの篠竹を折った箸で遺骨を箱に納め寮に持ち帰った。この箱は後日寮に来られた同君のお身内の方にお渡しした。

 八月六日、大火傷をして帰寮したO.M君は、寮生が協力して看病していたが、まもなく亡くなった。我々は山の火葬場に運び荼毘に付した。結局私の担当していた第一

寮の死者は五人、ほかの寮でもそれぞれに死者を出し、六つの寮全体で三十人を超えた。その後亡くなった人もあったに違いない。

八月十五日ー終戦

 八月十五日、終戦を迎え、負傷者たち(それぞれの寮で何人かの負傷者を抱えていた)のうち自力で帰れない人たちを手分けして彼らの自宅あるいは親戚の家に送り届けることになった。私はK.Y君を彼の叔母さんの家のある大分県の小さな町に届ける役を引き受けた。列車は混雑を極め、石炭運搬用の無蓋車に乗せるのが精一杯だった。長時間かけてやっとその家のある町の駅に到着した。彼は自力では歩けなかったので列車外では私が背負って移動した。目的の家に着いたときには、私は疲労とこのころ出始めた放射能障害のためバッタリと倒れ込み動けなくなった。血尿も出た。叔母さんご一家は私を親切に扱ってくださったが、食料が極端に不足していた折でもあり、三、四日後

ご挨拶をして帰路についた。広島市牛田町の自宅は、爆風でかなり傷んでいたが、前記のように焼失は免れていた。近くの小公園からは来る日も来る日も遺体を焼く独特の臭いが流れてきた。