アノ関西人もびっくり!実践「愛と心療問題」 -3ページ目

怒りのエネルギーってアホらしい

週末、胃腸、とくに腸の調子が悪かった。
ナゼだろう?
特に忙しかったわけでもないし、
特に食生活を変えたわけでもない。

土曜日にはゆっくりお休みもした。
にもかかわらず、日曜日の夜からおなか
の調子が悪く、眠れなかったくらいだ。

今朝、通勤中にその理由がわかった。
その原因は怒りのエネルギーだと思う。

最近、職場の若手が自分のアドバイスを聞かず、
出来がいまいちのアウトプットを上げてきた。

なぜアドバイスに耳を傾けないのか?
本当にハラがたった。

かといって、短気を起こすわけにもいかない。
その若手の顔を思い出すと、
(しかもつい思い出、自分の中で怒りが
頂点に達してしまう。

そのとき、おなかの中がどんよりと熱くなってくる。
ほんの一瞬で、それを感じると
「イカンイカン、イライラはよくない」と
自分に言い聞かせてきた。

義理のお父さんからも、
「言うべきことはどんどん言え、
ただし短気は起こすな」といわれていたので、
グっとガマンしてきた。

今日とか昨日とかのおなかの痛みは
このイライラしたときのおなかの状態が
ずーと続いている状態なのだ。

それに気付くと、アドバイスに耳を傾けない
出来のよくない若手にイライラするのがアホらしく
なってきた。
なんでこんな、センスやら見込みのない、
自分よりはるかにレベルの低いのに
こんな自分の健康まで害されて、
それで自分自身が苦しまなければならないのか?
アホらしくなってきた!

かといって、一切知らん顔はできないのだろう・・
そんなことを考えていると、
河合準男先生の「人間とは、矛盾を抱えながら
生きるもの。人生とは苦楽しいもの」という
言葉を思い出した。

それにしても、そうはいっても、自分がイライラして
いることなんて、全体から見たらとってもちっちゃいこと。

そんなことでリアルに体調を崩すのって割りに合わないことに気
付いた。

もうこんな、自分の体調に苦しむまで、アホな後輩のことを
気にするのはやめようと本当に思った。

その一方で、かつて自分はこういう怒りのエネルギーを
思いっきり外に向けて吐き出していたんだろうなと
いうことに気付いた。
これはこれで正しいかどうか以前に公害なのだろう。

結局は、怒りのエネルギーを持たないようにするのが
世の中にとって一番いいことのように思えてきた。
身を以って知った感がする。

世の中は間接的というが、本当にそうなのかもな、と
改めて思い知った気がする。

細かいことに気をもむのはやめよう。
自分の身が危ない、真剣にそう思う。

100匹目のサルがいないわけではない

よく考えると、100匹目のサルは
いないわけではない。

ただ、100匹目のサルは無意識についての
話をしているのであって、
われわれ人間がやる意識的な活動とは違う、
ということなんだろう
ということに気が付いた。

別の99匹のサルが、100匹目のサルに
「キミも芋を洗ったらどう?」と
いうわけではないんだな・・・。

無意識のつながりはあるけど、
それはあくまで無意識の領域なんだよな。

意識としは「無意識のつながりはある」として、
自分にではなく、周りに答えを求めるのが
正解なのではということなんだろう。

そういうことなんだと思った。

100匹目のサルはいない

不思議研究所のコラムは鮮烈だ。

驚いたのは、「100匹目のサルはいない」
んだそうだ。
心理学を勉強している身としては、
とてもショッキングだ。

なんでも、餌付けをしていた頃には、
そういう現象もあったそうだが、
餌付けをやめたら、その現象はなくなり、
いまでは提唱者のライアルワトソンさえ
訂正しているそうだ。

後で確かめてみよう・・・

この現象、トランスパーソナル心理学では
結構重要で、
無意識のつながりということ、
自我の超越とかなり密接な
話だったので、
ある意味トランスパーソナルの概念を
崩すような話だったりする。

不思議研究所のコラムによれば、この世は
・間接的で
・平等で
・しかも基準点がない

んだそうだ。

妙にほっとする話だと思った。
自分を取り巻くあらゆる関係や事柄が全て
「間接的」であるなら、
直接的でないとしたら、
自分の思ったとおりにならなかったとしても、
そんなに落ちこまなくてもよくなる。

全ては平等で、つまり誰もが神の表れとして
最高レベルを生きていて、
人が人を変える余地がないって思うと、
何かうまくいかなくっても、
どこかあきらめがつく。でも間接的なので、
いまの行為がいつかどこかでつながると
安心できたりする。

基準がないというのはもっと安心できる。
劣等感を持たずに済むから。
何かが得意でない自分、
うまく表現できない自分を許すことができる。
逆に相手の出来不出来にも、
それほど気にならなかったりする。
そうなると、
相手を変に嫌ったり、憎んだり、
見くびったりする気持ちが消えていく。
不思議だが、とても心地よい感覚だったりする。

不思議研究所はさらにこうすすめる。

「あらゆることをついでにやる」

確かにそうなると、固執がなくなる。
なぜがんばるのか?
なんとなくがんばりたいから、とか。
自然にそうしてしまう、
という感覚を味わうことができる。
愉しめる。

なんかこう、今までより以上にやさしく、
ラクになれる。
そういう気持ちを得た感がする。

不思議だと思う。

これまでにも「心の勉強」をしてきて、
これからもそうしようと思ってきたが、
労せずしてまた一歩前進できたように思える。
嬉しい。

より自然に、やさしく生きられるような気がする。

嬉しい。

魂の成長というのは、何なんだろう?
幻想なんだろうか?

でも、ついでにお習字をすることで雅号を得られた。
これからもついでに何かを続けようと思う。


自分の弱点

自分の弱点は多い。

最近目立つのは・・・
1.他人に影響されやすい
2.バランス感覚が乏しい

相手のレベル(というか何というか)
に引きずられる傾向が強い。

たとえば電車の中で、相手の所作に
いらいらしてみたり、
相手の一言にカリカリしてみたり。
相手の一言に妙に反応してみたり。
不自然に腰が低くなったり(変にペコペコする)。

自分に自信がないからではなく、でも根っこは
そうかもしれない。
実はプライドが高い。でもそう見られたくない。

心理学でいう「投射」とかにめっぽう弱い。

こういうのは、大事な場面で客観的な判断が
できなかったりするので、
非常に要注意だと思う。
実際、これが原因で、大変なトラブルに
なったことがある。

バランス感覚が乏しい。

すぐに自分の世界に入り込む傾向が強い。
なので、相手に対するねぎらいとか、
感謝の言葉とか、
それを幅広くいろんな人にまんべんなく
できなかったりする。

ある意味、このふたつの弱点はお互いに
相関関係があるのかもしれない。

職場の同僚で、45歳の課長がいる。
どんなにエレベータの中が混んでいても、
いつもほぼ真ん中で
腕を組んで「どーん」と両足を
程よくひらいて仁王立ちをしている。

とっても安定感がひしひしと伝わってくる。
実際、いつも冷静なのだ。

この二つの弱点を克服できると、
今よりもっとラクに生きられるように
なるように思う。

他人に影響されないようになるには?
しっかりした自己を持つことだと思っていたが、
むしろその逆かも?と
思い始めている。

不思議研究所の会報誌を読んでから
そう思いだしてきた。

「自分でではなく、環境に焦点を当てる。」
「問いを持てば、周りが答えてくれる」

自分自身でも、何となくそう思い当たることがある。
「そうかもしれない」と実感することがある。

ただ、そう思えるのはむしろ、自我を意識して
生きていたからこそ、
そう思えるのかもしれないということも
あるのではないか?と
思ったりする。

今日の昼間、アメリカにとってのキューバについて
職場の同僚と話した。
なぜキューバはアメリカにつぶされないのか?と。

自分たちとは逆の立場のモノを身近に置くことで、
むしろ都合がいいと
いうこともあるのでは、とある人は言った。

そうかもしれない。

何かひとつの面がはっきりしているからこそ、
もうひとつ別の面が見える。
そういうバランスのとり方もあるのかもしれない。

転職してから今日まで、人との関係で
イライラしたこととかいくつかあったが、
怒りではなくその前に「問い」を持つことによって、
妙に怒りが鎮まるという感覚を得た。

また「こういう時、どんな問いを持つのが最も適切なのだろう?」
と思ってみたり。
無意味に思える時間が、
なにか遠い未来に向けての第一歩に思えたりするから不思議だ。
そうすると、あまりイライラしなくなる。

目の前の相手の一挙手一投足に、
そんなにデリケートに反応しなくなるのだ。

この感覚はとっても不思議だ。

問いのある生き方

不思議研究所から会報誌が届いた。
あいかわらず面白かった。

一番面白かったのは、

「問いのある生き方」だった。

答えを持つのではなく、

問いを持つことが重要なんだと。

自分自身がずーと

自分自身に問いかけている
「自我とは何か?

自分と他人との関係を

どのように築くのか?」
を考えるうえで、

とても大きなヒントになったように思う。

「問い」を持つことで、社会の流れ、
宇宙からのメッセージを素直に受」

け取ることができるようになるとか。
確かに自分が職場とか

家族との関係とかで苦しんだり

悩んだりしているのは、
「こうあるべき」とか「これが正解だろう」

といったこだわりに起因することが
多い。


自分は温厚に見えるけど、

実は結構恥ずかしいくらいイライラするタイプで、
しかもその感情を表に出すのを

抑えることができない。
だから余計に恥ずかしい。

仕事でちょっと厄介なことがあると、

家に帰っても、病気の父の様子にさえ気が
廻らなくなる。
バランス感覚に乏しくて、

それがまたコンプレックスだったりする。
そこから「こんなバランス感覚の

欠如したままでいいのか?」と自分を責めると
ころがある。

今の職場でも、

なぜか孤独感にさいなまれることが多い。
「何が?」を明確にすることもできないまま、

ただ不安に陥っているだけなのだ
が。

「本当はもっと、

みんなに溶け込まなくては

いけないんじゃないか?」
とか
「本当はもっと、

リーダーシップを発揮すべきじゃないか?」とか。
「本当はもっと、

強力な指導をすべきではないか?

何も言わないが、
上司や会社は自分に

それを期待しているんじゃないか?」とか。

ただ何か違うような気もどこかにあって、

妙に宙ぶらりんな気分でいた。

そのときに目にとまったのが、

この「問いのある生き方=需要型の生き方」であ
った。


答えを用意する、

提案する、とかいったことにこだわっていたりした。
また、自分から見て「本当はこうなのに」と思いつつ、
どうも明らかに相手にそれが伝わりそうもないことがわかったり
して、かなりフラストレーションをためていた。
その中で、合理化してみたり、逃避したくなったり、
いろいろ心の中の仕組みが動いていたのだけれど、
やっぱり「あんまり健全じゃないな」と思っていた。

こんなときはどうするのか?昇華してより自分の魂を高めるのか?
でもどうやって高めるのか?そもそも魂を高めるって何?
みたいなことで悩みだしていた・・・・。

まだよくわからないけど、そんな中で不思議研究所の会誌の中にあった
「がんじがらめの宇宙の中の自由」という言葉にピンときた。

そう、全てこの世はがんじがらめであって、
いろんなことが予め決められているということ
なのだ、といわれると、
なんとなくそうなのかも?と思ってしまう。

この週末、期日がスリップしたPJのことで少し憂鬱になった。
そのことで、職場の同僚から、すこし揶揄されてしまった。
少し傷ついた。酒を飲んだ。

でも週明け、スリップさせた当人を前に、

未来にエネルギーを向けるように言っ
た。
その直前まで「少しは謝れよ」と思っていたが、

本人を前にその逆、未来に向け
た言葉を話した。
その理由は自分でもよくわからないが、

そんな自分がスゴイと思った(笑)。

その相手は、その日一日、

目の色を変えて仕事に取り組んでくれた。

未来にエネルギーを向ける生き方ってどんなの?

どうすれば実践できるの?と思
っていたが、
どうも「問いを持つ生き方」とどこか関連がありそうな気がする。

そう思いはじめてから、少し心が静かになった。


またがっかり

悪いクセがでた。

ヒトの話を正確に聞き取れないというクセが出た。

以前、あるPJで同じ指摘をクライアントから受け、
大変なトラブルになったことがある。
「キミはヒトの話を聞いていないんじゃないか」と。

転職のときにも、そのときの上司から同じことを指摘されたことがある。
実はそのときは、確信犯的なものだったが。

なので、転職してからは、そういうことがないように、
細心の注意を払ったつもりでいた。

一生懸命に人様の話を聞いていたつもりだった。

なのに・・・。

不得意な分野、経験の薄い分野の話だからだろうか?
自分が聞いたと思って報告した話と実際の話が食い違っていた。
他人が聞いたら、自分がいい加減に話しを聞いていたと思うだろう。
それには納得するけど、納得できないのは自分自身なのだ。

確かに自分は耳の穴をかっぽじって相手の話を聞いていたはずなのだ。
にもかかわらず、違う内容を記憶していたのだ。
落ち込んだ。聞こえないではなく、聞いていないのではなく、
一生懸命に聞いていて、誤った記憶をしてしまうのだ。

とても落ち込んだ。
もし同じことを繰り返したら、いろんなヒトに迷惑をかけ、
また以前と同じ失敗やトラブルを起こしかねない。
そこがものすごく不安だ。

確かに聞いて、納得して、記憶したと意識しているので、
いちいちメモさえ取らなかった。

他のことはきちんとメモを取っていたのだけど。

とても残念だし、これからのことがものすごく不安だ。

その道一筋のヒト

友人夫婦と会食した。

ダンナさんは心理学者で大学の助教授をされている。
博士で臨床心理士としてもご活躍されている。

ところがやっぱり学者さんで、外見はすごく「よわっちく」見えるのだ。
服装とかもビジネスのドレスコードよりかなりユルメ。

しかも遅刻してこられたので、かなりお気遣いされて、
妙に彼が小さくみえた。

でも時間が経つにつれ、本来の姿を取り戻されたようだ。

実はかなり苦労されて、大学卒業後に8年間アメリカに留学して、
アメリカで博士号を取得されて日本に帰られた方で、
心理学の道でずーっと活動されている方なのです。

トータルで20年か。

そういう方の言葉、オーラはやっぱりスゴイ。

努力と経験、そして何よりも取り組む意識の高さを強く感じる。
人間の力強さはどこから来るのか?について改めて教えていただいた
ような気がする。

そういう方と親しくさせてもらい、神様に感謝している。

自分は結果として、いわゆる流れ者人生を歩んできた。
そうなったのは自分自身に原因があることは自覚している。

と言っても、当の本人は、そのときはそんなこと、思いもしないのだ。
「なんでこうなるのだろう」とか「なんでアイツだけ」とか、
やっぱり解せないことって多くて、それにとらわれて、
自分を大事にしてくれるヒトさえ見えなくなってしまう。
そうしてどんどん自分の運命は流れていく・・・・。

いつのまにか、この10年は流れ流れた10年となってしまった・・。
いまさら後悔もできない。
そんな自分だけど、雇ってくれる会社があって、一緒に人生を共にしてくれる
パートナーがいて、愛してくれる親が健在で、そう思うと、やっぱり自分は神様
に守っていただけているんだと思う。ありがたいと思う。

ひとつの道を究めるすばらしいヒトに会いつつ、そんな生き方ができなかった自
分を振り返りながら、これからの自分を思うとき、自分ではなく自分の周りの人
たちの顔が思い浮かぶ。

いろんな生き方があるよな。

ヒトに対するおそれ

いろいろ考えたり悩んだりしたが、結局はヒトに対するおそれが一番よくないの
かも?と思い出した。

素直に「おはよう」と言ったり、先入感なく接するとか、そういったことが大事
かも?


何が難しくさせているかだけど、おそらく相手がそういう恐れを持って
接してくることがありえるということなんだと思う。
その相手が持つ「おそれ」に引っ張られるか?それとも明確にそうではないと
するか?

答えは明らかに「相手は相手。自分は自分」として自分の中のおそれを
なくすことが大事なんだろうと思う。

言葉は心、魂から発せられることを思い出した。

よかったこと

今週のよかったこと。

月曜日の朝礼でのスピーチで笑いが取れたこと。
とっても成功だった。
軽い話題だったし。

パートナーに相談し、見舞いに行ったときには義理の父も一生懸命
アドバイスしてくれた。がんの手術は終わったばかりなのに、自分の
ために「こうしたらどう?」とか「こんな話題はいいかも?」と
いろいろアドバイスしてもらえた。

なんていいヒトたちなんだろう。
自分が同じ立場だったら、確実に自分の世界に入り込むはずで、
「そんな朝礼の一言なんてどうたっていいじゃん。こっちは生死をかけているっ
ていうのに」と思うはずなのに、とっても親身になって相談に乗ってくれた。

おかげで何とか、軽くて明るい話題をさらっと提供できて、
職場のみんなになごんでもらえた。

やっぱり自分以外の自分のことをよく知っているヒトの意見って重要なんだと思
った。それこそ机の上の鏡のようなもので、他人からみて自分はどう見られてい
て、どう見せたらいいか?を的確に教えてくれるのだ。

そういうヒトに囲まれて生きていることが、自分にとっての最大の財産なのかも
しれない。

ホント、朝礼のスピーチがうまくいってよかった!

落ち込むなあ・・・

雑誌で「言葉力」という特集をやっていた。

自分はこの言葉力が弱い。

「何を言っているかわからない」
「もう少し簡潔にわかりやすく説明してくれないか?」
・・・etc。

それから始まって、最後には必ず「キミは気難しいね」
という結論になる・・・
。

これまで結構努力してきたけど、
それでもやっぱり問題が多いようだ。

職場の上司もあんまりいい顔をしない。
相変わらず「ありがとう」を先にいう
ことができなかったり、
的確に簡潔に報告できなかったり、
「自分の表現力」にとてもツライ
ものを感じる。

「言葉力」の記事を読んで、正直ショックが大きい。
「え、これもNGなの?」
「こういったら、そんな風に取るの?」とか、
とにかく自分にとって
ドキっとすることが多い。

反対に、職場の同僚で、
たぶん意識してないんだろうけど、
とてもハラが立つ話し方をする人もいる。
自分も相手に対して、
同じような思いをさせているのだろうか?
悪意はなくても、気付かないところで
相手を傷つけていたり、
不快にさせて
いたりするのだろうか?
何となく、そんな感じがする。

最近、職場の自分の机に鏡を置くようにした。
自分の姿を映すことで、
より客観的に自分を見つめることができるのかも?
という思いから。

佐々木かをりさんのマネなんだけど、
確かにこういうのって何か
自分自身にどきっとすることが多く、
結構いいかも?と思い始めている。

そういえば、パートナーからもよく
「アナタは表情に出やすい」と
指摘されている。怒ったり、
イラついたことが表に出やすいようだ。
これはかなり恐怖だ。

瞬間的にイライラしたりすることってあるけど、
それは悪意があってするわけで
はない。でも、それが表に出ちゃうのであれば、
相手に誤解を与えてしまうこと
になる・・・。

誤解が積み重なって、
「あの人ってこういうヒト」と決め付けられると、
もうこちらの愛を受け取って
もらえなくなるかもしれない。
実際、そういう経験をしたし、
その結果は悲惨だった。
同じことは繰り返したくないと思う。

普段の生活でも、本来アセらなくても
いいことでアセったり、セカセカしてみた
り、そういうときにそんな自分の姿を想像すると、
とても恥ずかしい思いがする
。

イルカは人間と違い、超音波を発して
自分の姿を「外の目で」見ることができる
そうだ。常に自分を客観的に見れるからこそ、
あんな風に美しく、いつも仲間と
仲良く暮らしていけるのだろうか?
少なくとも、あのイルカがいらつく
なんてことは考えられないのだ。

鏡を通して、少しでも客観的に自分を捉え、
冷静に対処して相手を傷つけないよ
うに生きていけるようになりたい。

自分より5つ以上下の若手がいる。
彼はそのあたりが本当にウマイ。
だからこそ、信望を集めているように思うし、
そういう芯の強い人間になりたい
と思う。 


やはり人間には自己と他者というバランス感覚が
重要なんだろうと思う。