Chapter 05



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◆ 32.雪の日の惨劇

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ケンイチは母親を殺害して家を出たあとしばらくあたりをうろついた。何処にも行くあてはなかったし戻る家もなかった。

雪は一向にやむ気配がなく、寝巻き代わりのトレーナーシャツ一枚のケンイチは今にも凍えそうだった。

数時間が経って気がつくと結局自分の通う小学校の正門の前に立っていた。

冬休みの校庭には雪が降り積もってグラウンドは一面の銀世界であった。

眩しいほど真っ白な風景の中での数人の子供たちが、雪合戦に興じていた。ケンイチのクラスメート達だった。

歓声を上げて楽しそうに雪玉を投げ合うクラスメート達をケンイチはバックネット裏から眺めた。

一人の少年がケンイチを見つけた。そして薄着のケンイチを見て指差し声をあげて笑った。

「こいよ、一緒に雪合戦やろう」

ケンイチは誘われるがままにグラウンドに入った。皆は一斉に雪玉をケンイチに投げつけた。

すぐにケンイチは雪まみれになった。五、六人の少年たちから笑い声が上がる。

逃げ回るケンイチ、面白がって追いかける少年達。

逃げながら校舎の方へ走っていくと雪下の花壇の柵に足を取られてケンイチは転倒した。

その時リーダー格の一際体格のよい少年が投げた雪球がケンイチの顔面に勢いよく当たった。

強い衝撃を受けてケンイチの額がぱっくりと割れた。ぼたぼたと血が流れた。

その雪球には子供の拳大の石が詰めってあったのだ。寒さのせいか痛みはほとんど感じなかった。

ケンイチは雪の上に点々と落ちた自分の血を見た。血の色が金魚になった。

ケンイチが握りつぶして殺した、母親が大事にしていたあの赤い金魚だ。

金魚は雪の上から抜け出すとケンイチを馬鹿にするようにひらりと舞い、ぱちんとはじけて空中に消えた。

その瞬間今までに感じたことのない激しい怒りがケンイチを支配した。

ケンイチは雪玉を投げつけた少年を睨みつけた。その視線は強い憎悪に満ちていた。

少年が叫びながら走ってきてケンイチにつかみかかった。

「なんだその目つきは、お前なんか死ねばいいんだ」

そういいながら少年はケンイチを殴りつけた。何度も何度も殴った。

殴られて花壇の中に倒れこんだケンイチの指先に雪の中の何か硬い物が触れた。

用務員が片付け忘れた園芸用のスコップが雪の中に埋もれていたのだ。

少年が倒れているケンイチに再度襲いかかる。

───死ね! お前なんて生きていてもしょうがないんだ! この人殺し野郎!

その手には雪玉に詰めてあった石が握られていた。少年は石を掴んだ腕をケンイチの顔めがけて振り下ろした。

ケンイチはそれを間一髪で避けると握り締めたスコップを少年の顔めがけて思い切り突き出した。

スコップの先端部分が少年の右目に深く突き刺さりその眼球をえぐった。

真白の世界に鮮血が飛び散り、返り血がケンイチの視界を真っ赤に染めた。



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◆ 33.お前、お袋殺したんだってな?

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母親を殺害しクラスメートの少年に重傷を負わせた罪でケンイチは逮捕された。

ケンイチは、当局による数週間の取調べを経て家庭裁判所の審判を受けた後、保護処分として地元から遠く離れた児童更生施設『国立のぞみの園学院』に送致された。

ここでは、政府発行の『重犯罪児童再教育プログラム』を遂行し管理されていて、重犯罪を犯した小中学生の少年少女が収容されている。

『国立のぞみの園学院』の方針は、院生の更正、矯正および社会復帰のため、家庭的な雰囲気で成長を促進させ、訓練し教育する事を目的とするとされていた。

しかしそれは全くの表向きであり、実際の院生の生活は悲惨極まりないものであった。

職員による子供たちに対する体罰は日常的であり、食事も汚染された食材で作られた料理が平然と出されていた。

当時院生はハルトを含め四人でその内、少年が三名、少女が一名であった。皆、殺人の罪を背負ってここに送致されてきた子供たちである。

凶行に至った理由はそれぞれであったが、院生五人に共通するのは、親の愛情を全く受けずに育ったという事であった。



院長はカリヤといった。宗教家でもあるカリヤは院生に自分のことを事を牧師様と呼ばせていた。

カリヤは五十代後半であったが、顔の色艶は良く見るからに健康そうであった。背は低く腹が出て太っていた。

牧師といっても服装はいつも普通の会社員が着るようなスーツ姿あった。



ケンイチは、ここに到着してまず最初の手続きを済ますとアライという三十代の施設職員にバリカンで坊主にされた。

アライは体格の良い大男で半袖のシャツから出る日に焼けたその腕は太く毛深かった。



「お前、お袋殺したんだってな?」

刈られた毛を掃除させられてるケンイチに向かってアライがいった。

「……」

「どんな気分なんだ? 自分のお袋を絞め殺すときは?」

「……」

「何とかいえよ、お前、しゃべれねえのか?」

アライは、ケンイチの耳を掴むと力まかせに引っ張りあげた。

「痛いか? 何とかいえよ、オレを舐めるなよ!」

「……」

「強情なやつだな」

そういうとアライは、いきなりケンイチのみぞおちを殴りつけた。

ケンイチあまりの痛みで息が出来なかった。たまらずうずくまり体を折って床に反吐を吐いた。

それからケンイチは保健室と呼ばれている独房に手錠とヘッドギア、拘束衣をかけられて二週間入れられた。

それは、新入りの収容者に課せられるここでの儀式でありこの施設の習慣であった。

これは新参の収容者の毒気を抜く事が目的の隔離であった。

院長のカリヤはここで静かに瞑想し自分の犯した罪の反省をする事をケンイチに命じた。

一人部屋の中、拘束されながら、ケンイチは母親の事を思った。傷つけた少年の事を。

幼い頃の事を思った。楽しい思い出などひとつもなかった。悲しかった事は数え切れない程あった。

ずっと一人だった。孤独だった。暴力以外で人と繋がった事はなかった。母親でさえもそうだった。

生まれてきた事を悔やんだ。でもどうしようもなかった。

何故なのか? 何のため生まれてきたのか? 未来は?

雪の中に現れた金魚、それを見たときの抑えきれない憤怒、暴力衝動……。

考えても何ひとつわからなかった。

ただ空っぽになりたかった。透明になりたかった。

そしてこの世界から消えてなくなればいいと思った。



保健室から出されて数週間が過ぎた、ケンイチは相変わらず誰とも喋らない日々が続いていた。

あれからアライはケンイチに絡んでくることはなかった。ケンイチにとって穏やかな日々だった。

その日、昼食後の自由時間、窓の外の景色を一人ぼんやりと眺めているケンイチ。その背後から少女が話しかけてきた。

「何みてんの?」

ケンイチは窓の外を見つめたまま振り向きもしない。背中では平静を装っていたが内心は動揺していた。

通っていた小学校では、ケンイチに話しかけてくる子供なんて誰もいなかったからだ。

「あんたまじ、口利けんの?」

少女は、怒ったようにいうと、おどけてボクシングを真似た格好でケンイチの背中を軽く殴った。

ケンイチは、振り返り少女を見た。

「ヤメロ……」不意の問いかけにためらいは隠し切れず、ケンイチはやっとで答えた。

「なんだ、ちゃんとしゃべれるやん!」

少女はけらけらと笑いながら、

「ケンイチっていい名前やね」といった。

「……」

「今日はあったかくて、気持ちいい───」

少女は、ケンイチの肩越しに眩しそうな目をして窓から見える晴れ渡った空を見ている。

振り返りケンイチも窓の外を見る。何もない田舎の風景、南の方角のこないだまで雪化粧だった山に日が当たり緑が美しく輝いていた。

春が近づいていた。二人はしばらく並んだまま黙って外の景色を見ていた。少女の名は、アユミといった。



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◆ 34.アユミの過去

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アユミはケンイチより二つ年かさだった。アユミは父親を殺した罪で一年ほど前ここに送致されてきた。

アユミの父親はどうしようもないギャンブル狂で地元のヤクザの開帳する裏カジノの常連であった。

職業はタクシーの運転手であったが、家に生活費を入れる事はなく給料のほとんどは博打に消えた。

それどころか借金を繰り返し、アユミ達一家は絶えず闇金の取り立てに追い回されるような日々を送っていた。

アユミの母親はそんな夫に愛想をつかし、アユミを残して他の男と町を出て行ってしまった。

アユミが小学五年生の時の出来事であった。大好きだった母親が去って、アユミは毎日泣いて過ごした。

『はやくお母さんが帰ってきますように……』アユミは毎晩必ず寝る前にそう神様に祈った。



母親が出て行った頃から父親はアユミに暴力をふるうようになった。

父親は博打に負けて帰ってくるとそのうっ憤を晴らすがごとくアユミに殴る蹴るの暴行を加えた。

───お前なんか生まれてこなければよかった。

殴りながら母親が出て行ったのは全てアユミが悪いからだとなじった。アユミのまだ幼く華奢なその身体には生傷が絶えることはなかった。

アユミは何度も家出を繰り返したが、父親は執拗に見つけ出すと否応なしに連れ戻した。

『逃げ出そうなんて考えても無駄だ』父親にそういわれると、アユミは慄然とし、生まれてきたことを後悔した。

アユミが中学にあがると父親の性的な虐待が始まった。この頃から父親は大酒を飲むようになり、酔っては無理やりアユミを犯した。

最初は激しく抵抗していたアユミも徐々に逆らう気力を失い、父の行為を虚ろに受け入れるようになっていった。

やがて父親は、仕事にも行かなくなり毎日昼間から酒を飲んで過ごすようになった。そして夜になると博打に出かけた。

少しでも気に入らないことがあれば、激昂してアユミを殴った。殴り疲れるとアユミを抱いて寝た。

父親は金がなくなるとアユミに『体を売って金を作って来い』といい、博打仲間にアユミを売った。



地獄のような日々であった。いくら待っても母親が戻る兆しもなかった。神に祈るのはとっくに止めてしまった。

アユミは眠りに落ちるとき毎晩、このまま目が覚めないようにと念じるようになった。

だが朝はやって来た、絶望とともに。アユミはあまりにも無慈悲な神を呪った。

やり場のない呪詛はいつの間にか父親に対する殺意に変わっていった。

アユミは父親を殺して自分も死のうと決心した。



その日は、朝から寒波が押し寄せて底冷えする夜だった。

父親は、深夜に帰ってきた。珍しく博打で大勝したらしく酒を飲んで上機嫌だった。

家にあがると父親は、寒い寒い、といいながら外套も取らず居間の石油ストーブの前にかじりついた。

しばらくすると暖まったのか、ストーブの前で父親はいびきをかき出した。

それを見て、アユミは、庭においてあった灯油のポリタンクを運び込むと居間に灯油をまいた。

すっかり寝込んだ父親のコートの背中にもたっぷり灯油をしみ込ませるとライターで新聞紙に火をつけ灯油で濡れた床にそれを投げた。

炎はまるで大蛇が地面這うように床の上をゆらゆらと広がっていった。

灯油の跡ををくねくねとたどると大蛇は父親のコートに達した、しっかり灯油を含んだ繊維は勢いよく燃え上がった。

あまりの熱さに驚いて父親は目を覚ました。父親は飛び上がるように立ち上がって振り返えると、アユミのほうを向いた。

そして自分の置かれている状況に気がつく間もなく、その激しい業火の責め苦に断末魔の叫び声をあげた。

勢いよく燃え上がる父親に向かってアユミは『ザマアァーミロ!』と叫んだ。

口が動いて父親は何か言いかけたように見えたが瞬く間に一本の火柱と化した。

アユミはここで父親と一緒に死のうと思っていたが、だんだんと燃え広がる炎の勢いに怖くなって逃げ出した。



アユミと父親が暮らす古い木造の家は全焼だった。翌朝焼け跡の中、父親は焼死体で発見された。

そして消防隊の実況見分の下、家の床下からは刺殺された二体の遺体がでてきた。

二年前に家を出たはずのアユミの母親とその情夫の白骨死体であった。

アユミは焼け落ちた家の前、大勢の野次馬のなかで呆然と立ち尽くしているところを逮捕された。



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◆ 35.サイコパス

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『サイコパス』



歴代のシリアルキラー(連続殺人者)は、脳障害をもつ者が多いと云われる。彼らは、先天的もしくは後天的な脳の障害によりサイコパス(人格障害者)となり犯罪を繰り返す。

サイコパスは良心や善意、愛情という本来人間のもつ本質的な感情が欠落している。通常の人間は欲望というアクセルに対してそれを抑制する良心というブレーキが正常に機能している状態と云える。その場合、事故を起こす確立はゼロではないが、滅多に起こす事はない。

サ イコパスではない『普通の悪人』になると、アクセル(欲望)に対してブレーキ(良心)が弱すぎるか、ブレーキが故障した状態、あるいはアクセルをうまくコ ントロールする事が出来ない危険な性質を持っていると云える。この場合は適切な修理や整備を行えば状態が改善される場合も多い。

しかしサイコパスにはアクセルだけついていてブレーキは存在しない、一度火がついた欲望は止むことがない。誰かに止められるまでその狂った暴走を続けるのである。



少年は意識不明のまま病院に搬送された。右目に突き刺さったスコップの先端は脳にまで達していて極めて重篤な脳挫傷を負っていたのだ。

少年は集中治療室で一週間程生死の境を彷徨ったがなんとか一命は取り留めた。八日目の朝、こん睡状態から意識が戻った。

しかしこの傷による後遺症はその後の少年の人生に暗い影を落とすことになる。



少年はこの時受けた脳障害が原因となり時折欲望の抑制が効かなくなった。

損傷した脳はブレーキを失いつつあった。抑えきれない性欲と壊れた良心との葛藤、その苦悩は通常の人間の想像を絶するものであった。

しかしコントロールできない少年の歪んだ欲望は徐々に反社会的な行動と繋がっていった。苦しみ、憎悪した、自分自身の狂気を呪った……。

少年は自分をモンスターに変えたケンイチを憎んだ。

そしてその日を待ちわびて生きていくようになった、ケンイチに復讐するその日を……。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



その男は十五歳になると最初の殺人を犯した。抑えきれぬ衝動で十三歳の少女を強姦し絞め殺したのだった。

死体から片方の眼球を抜き取りガラス瓶につめてコレクションとして残したあと、

一部(乳房、尻、大腿部)は、ナイフで切り取りフライパンで調理して食べた。

あとの部位は電動ノコギリで四十八のパーツに切断したのち山の中に捨てた。

男はサイコパスへと変貌を遂げたのだ。



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◆ 36.罪と罰

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初めて口をきいた日から少しずつではあったが、ケンイチはアユミに心を開くようになった。

同じような境遇で同じ罪を背負った二人の悲しみは共鳴し、交じり合った。



「……楽しかった?」───「何が?」 「子供の頃よ」───「まさか……」

「ぜんぜん?」───「ああ、ぜんぜん」「ひとつくらいあるでしょ?」───「……ないなあ」

「あはは、可愛そう」

「アユミはあるのか」───「うーん、あるよ」

「お母さんがいた頃は楽しかった」───「そっか」

「あ、ごめんね」───「……いいよ」



アユミは自身の犯した父親殺害、その罪の重さに苛まれていた。

夢の中に現れる父親はその焼け爛れた顔でアユミに呪いの言葉を浴びせた。

目が覚めてからも逃れようがない罪悪感に押しつぶされそうになった。

───お父さん…。ごめんなさい、でもそうするしかなかった……。

アユミは父親の夢を見る度、贖罪の祈りを繰り返した。

ケンイチもまた母親を殺害した事による良心の呵責に苦しめられていた。

───僕もあの日雪の校庭で殴り殺されればよかったのに。

ケンイチはそう思うようになっていった。

ケンイチはアユミと話してる時だけは穏やかになれた。そのささくれ立った心が癒されていくのがわかった。

ずっと孤独だったケンイチにとってアユミは初めて出来た友達といえた。



「だれか待ってる人いる?」───「いない」

「ここでたらどうする」───「わからない」

「じゃあ、一緒に暮らさない」───「……」

「あはは、似たもの同士一緒にいるのも悪くない」



ある朝院長のカリヤは二人を二階にある礼拝堂に呼び、ひざまずき神に祈るように命じた。

「この祈りは、『私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました』

という事だ。それでお前たちが罪を犯した者を赦したように、主はお前たちの罪も赦してくださる」

「でも、私は赦すことはできません」とアユミはカリヤに向かっていった。

「お前はどうだ?」カリヤはケンイチに向かっていう。

「わかりません……」ケンイチは呟くようにいった。

「そうか…… まあいい」

そういうとカリヤは憮然として奥の部屋に姿を消した。



一階に下りて自分の部屋に戻ろうとしていたケンイチを施設職員のアライが呼び止めた。

「ちょっとこい!」

アライの手には竹刀が握られていた。

保健室にケンイチを押し込むとアライはいきなり竹刀でケンイチの太股の裏を叩いた。

たまらずケンイチは床に膝を付いた。

今度は竹刀の先でケンイチの腹を手加減なしに突いた。激痛が腹部を貫き四肢が痺れた。

腹を押さえてうずくまるケンイチの頭めがけてアライの蹴りが飛んできた。

ケンイチの眼の裏に閃光が走った。

苦しむケンイチを見てアライは楽しむようにサディスティックな薄笑いを浮かべている。

「これはお前の犯した罪に対する罰だ!」

そういうとアライは倒れて呻き声をあげているケンイチの髪を掴んで顔を持ち上げ、

両手につけていた軍手を外ずし、それを丸めて無理やりケンイチの口に押し込んだ。

そして更に殴る蹴るの暴行を続けた。



ケンイチは気がつくと自分の部屋のベッドで寝かされていた。

何時間たったのだろうか……。

遠くで犬の遠吠えが聞こえた。窓の外はもう真っ暗だった。

時計を見ると真夜中だった。

ぼんやりと霞がかかった頭でアライがいった事について考えた。

───これはお前の犯した罪に対する罰だ。

ベッドから身を起こす、体中が痛んだ。

───お前の犯した罪……。

母親を殺した……。僕が殺した。今でもあの感覚は忘れる事は出来ない。

だが夢の中の出来事のような気もしている。死んでしまえば罪は消えるのか……。わからなかった。



ケンイチは部屋を出ると食堂に向かった。台所の包丁が入っている抽斗をあけると一番大きな牛刀を取り出した。

疲れた───。もうこれ以上生きていても意味がない。ケンイチはここで死のうと思った。



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◆ 37.真夜中の銃弾

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牛刀の刃先を自分の喉もとに突きつけたその時、どこからか微かに声が聞こえた。

猫の泣き声のようだった。ケンイチは声のするほうに歩いていくと、院長室の前に着いた。

ドアの前に立つとそれははっきりと聞こえた。それは猫の泣き声じゃなくアユミの喘ぐ声だった。

ケンイチはドアを空けた、鍵は掛かっていなかった。アユミの白い肌がケンイチの目に飛び込んできた。

院長のカリヤが机の上のアユミに覆いかぶさっていた。

「なんだ!」カリヤはケンイチに向かって叫んだ。

ケンイチはアユミを見た。アユミが目をそらす。「なんのつもりだ!」というと、カリヤはアユミの身体を突き飛ばした。

ケンイチの手にしている牛刀をみるとカリヤは眼を大きく見開いて狼狽した様子で

今度は「……待て、はやまるな」とうわずった声を上げた。

ケンイチは牛刀をだらりと下げ呆然と立ちすくんでいた。

床に倒れたアユミがケンイチを見上げて「……ケンイチたすけて」アユミの口がそう動いた。

アユミの口からひらりと赤い金魚が現れた。

「ヤラレタラヤリカエセ」金魚がそういった。

ケンイチは「俺はお前を赦さない、ぶっ殺してやるよ!」カリヤに向かってそう叫ぶと部屋の中に足を踏み入れた。

「待ってくれ、私が悪かった… 殺さないでくれ……」

ケンイチは牛刀を構えると命乞いをするカリヤにじり寄った。

その時、宿直室で騒ぎを聞きつけたアライが院長室に飛び込んできた。

ジャージ姿のアライの手には木刀が握られていた。

「お前まだやられたいのか!」木刀をケンイチに向かって振り下ろした。

ケンイチは牛刀でそれを受けた。ケンイチは無我夢中で牛刀を振り回した。

牛刀の刃先がはアライの木刀を握る手に触れると、アライの指が二本弾け飛んだ。

アライは呻きながら咄嗟に木刀を捨てると指が切断された左手を右手で押さえて後ずさった。

足がもつれてアライはしりもちをついた。

ケンイチは構えなおすとアライの顔面に牛刀の切っ先を突きつけた。

「殺さないでくれ……」泣きながら懇願するアライ。

「これはお前の犯した罪に対する罰だ!」ケンイチはそう叫んだ。

その時三発の乾いた銃声が響いた。カリヤが机の抽斗から取り出した護身用の小型拳銃で発砲したのだった。

そのうち一発の弾丸がケンイチの右のこめかみに小さな穴を開けた。

スローモーションのように崩れ落ちるケンイチ。

「ケンイチィィー!」アユミの絶叫が真夜中を切り裂いて響きわたった。



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◆ 38.死体処理屋

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咥えタバコの男は鼻歌を歌いながら手馴れた動きでケンイチの身体を黒い遺体袋に詰めている。

「歌うのはやめてくれないか」

カリヤは苛立たしそうに顔をしかめながらいう。

「ああ、すまない、牧師さん。耳障りだったかな、下手くそな歌で悪かった」

「いや、歌が下手とかじゃないんだが……」

「不謹慎って事かな?」

「いや、もういい。兎に角、判らないようにやってくれたらいいんだ」

黒いニット棒を被り全身黒ずくめの男はしゃがんだ姿勢から立ち上がると不自然にあごを上げたポーズでカリヤを見た。

そしてその上下斜視でやぶ睨みの顔をくしゃくしゃにしてでニヤリと笑った。

「あ あ、心配しなくても大丈夫だよ、今回もちゃんと判らないように消すから、硫酸の樽でジューって溶かしちゃうんだ、最初はすっげえ臭えけど一週間できれいに 消えちゃうよ、硫酸っていったけど本当は塩酸も混ぜるんだ、そうしないと樽まで溶けちゃうからね、そこらへんのコツっていうか、さじ加減が難しいけど よぉ。まあ俺は熟れてっから、ばっちりよ。言うなら門外不出の特殊技術だな。まかせといてくれよ、牧師さん!」

男は胸を張って自慢げにいった。

「……。ああ、わかった、よろしく頼む」

カリヤはたじろぎながら返答した。

「死亡診断書は郵送するからその後で代金は振り込んでくれればいいよ、お得意様だから

今回は一割引きでいいってボスが言ってた、よかったな、牧師さん!」

「悪いな……」

「いや、悪くないよ、こっちも商売だ。このガキが生きてたって世の中の害になるだけだし、牧師さんはいい事したって事よ」

そういうと男は遺体袋を肩に担ぎ部屋を出て行った。

こうしてケンイチの死体は闇組織の死体処理屋によって施設より運び出された。

カリヤは自分の犯した性的虐待が発覚する事を恐れケンイチの死体を極秘裏に処理したのだった。



車は施設を出てしばらく走ると廃屋と化しているドライブインの駐車場に止まった。

男は車から降りると小走りで駐車場の隅へと急ぐと立ち小便をはじめた。

(ふう、もう少しで漏らすとこだった。この時間はやっぱりまだ冷え込むな)



時刻は明け方四時半、吐く息は白い。

用を足しながら見上げるとかろうじて『旭屋』と読める朽ち果てた看板がかかっている。

辺りは人影はおろか猫の子一匹いそうにない寂しいばかりの風景である。

(あのガキも可愛そうに。牧師さんもお祈りくらいしてやればいいのに…… )

車に戻って乗り込もうとしたとき、トランクから微かに物音が聞こえたような気がした。

男は恐々とトランクに耳をつけた。やはり遺体袋の中で身をよじる様な音と呻き声が漏れている。

(大変だ、ガキが生きてやがる!)

男はあわててポケットから携帯電話を取り出した。



「ボス、ガキがまだ生きてますよ」

「へえ、確かに頭に弾ぶち込まれてましたけど……」

「トランクの中で死体バックがごそごそ動いてやがる、気持ち悪くて」

「牧師さんに返してきましょうか?」

「はあ、無理ですか……」

「えっ!バラせって…… 俺が!? とんでもない! 嫌ですよ、コロシなんてできませんよ」

「困ったなあ……」

「え、どこの研究所?」

「そこに運べばいいんですね」

男は車を出すと逃げるようにその場を後にした。



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◆ 39.機械の中の幽霊

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手術台の前白衣の男が一人でケンイチの開頭手術を行っている。その部屋は普通の病院の手術室とは違い、異様な数のコンピュータとおびただしい数の電子機器に囲まれていた。

『エピソード記憶』



人 間の記憶は短期記憶と長期記憶に区別される。短期記憶とは文章を書き写したり、電話番号をプッシュしたりするための極めて短い記憶をいう。数分以上の長い 記憶は長期記憶という。同じ長期記憶でも、二十分後には忘れてしまうものから何年間も覚えているものまである。また、一時的に忘れていても、何かのきっか けで思い出すこともある。長期記憶は大きく分けて『意味記憶』と『エピソード記憶』に分類できる。意味記憶とは言葉を覚えたり、試験勉強をしたり、本や講 演などで知識を吸収したりする記憶のことをいう。

一般に記憶力の良し悪しを論ずる場合は、この意味記憶を指している。意味記憶を一般的に云う『知 識』だとするとエピソード記憶とは直接体験することによって記憶される『思い出』のことを云う。幼少期から現在までのさまざまな出来事、育った家の周りの 景色、学校などの道順と風景、直接かかわった人のイメージなどがエピソード記憶である。

被弾した右側頭部、脳内部から銃弾の摘出。ケンイチの右の海馬は銃弾によって損傷していた。人工海馬の移植、男の手によってケンイチの脳にマイクロチップが埋め込まれた。

『海馬』



人 間の脳には、左右に『海馬』と呼ばれる器官がある。タツノオトシゴにそっくりの形状をしたその器官は人間の記憶を司る機能を持っている。海馬は脳の中では 小さな器官で、脳全体の一万分の一に過ぎない。しかし海馬は小さな器官ながら、大脳に入った情報の取捨選択をして、記憶全体をコントロールするきわめて重 要な役割を果たしている。

海馬は、パソコンでいえば一時的に情報を記憶するメモリの役割を果たしていると云える。そして必要があれば、パソコンを 終了する前にデータを保存するのと同じように、海馬も記憶を大脳皮質に送って長期記憶として保存する。大脳皮質というハードディスクに長期記憶されたファ イルを呼び出すことも『海馬』の役割であり、それは『思い出す』という作業である。海馬は人間の記憶の司令塔だと云えるのであった。



ケンイチの脳に移植されたマイクロチップが発する脳波を手術台の横に配置された大型のバイオフィードバック受信機が受信している。

手 術台に固定された脳波モニターがケンイチの脳波をリアルタイムにサンプリングしている。男は受信機から出ている六十箇所に及ぶ電極が繋がっている特殊なヘ ルメットを被り電極パッドを自分の頭皮にセットした。そしてアームレストの付いたゆったりとした革張りの椅子に腰を深くおろすと静かに眼を閉じた。─── 瞑想。男は精神を集中させた。ケンイチの過去の記憶をマイクロチップで吸出し自分の脳にイメージとして直接呼び出そうというのだ。

数十分が経過した。何も起こらない。ケンイチの記憶の扉、それはガードが固くなかなか男の呼び出しに答えようとしないようだ。

───封印を解くパスワードが必要なようだな。

男 はヘルメットを外し椅子から立ち上がった。壁際に備え付けられた棚からビンテージブランデーのボトルを取るとその琥珀色の液体を手元のビーカーにきっちり 百ミリリットル注いだ。しばらく手のひらで温めるようにビーカーを包み込んでいたが、やがてその芳醇なアルマニャックの香りを確かめる事もなくストレート で一気に飲み干した。焼いたワイン、その液体は男の乾ききった喉を爛れさせみぞおちを焦がす。男は机の抽斗を開けると白い小さな結晶の入った小さなビニー ル袋に手を伸ばした。パケを破り耳かき大のアルミの軽量スプーンでその白く透き通った砕けた氷砂糖にも似たメタンフェタミンの結晶をこぼさぬよう注意深く 試験管に移した。試験管に蒸留水を注ぐと結晶が弾けて踊りだす。それを試験管ミキサーのゴムの振動板に押し付けた。シェイカーのスイッチが入り試験管を細 かくシェイクするとあっという間に無色透明の覚せい剤の注射液が出来た。男はディスポーザブル25G針付き注射器の梱包を歯で破ってポンプを取り出すと試 験管の中のシャブ液を泡立たぬよう静かに吸い上げる。白衣のポケットからワンタッチで着脱できる駆血帯を取り出し先ほどの椅子に腰掛け左腕の袖をまくり腕 を一旦下げた後、上腕部を締め付けた。男の腕に紫色の静脈が浮かび上がった。男は注射器の針を肘の内側の静脈の一番怒張した部位に刺して針が血管の壁を破 るプチッという感触を確かめると今度はやや角度を浅くして更に針を進めた。プランジャを指先で少し戻すとシリンジ内のシャブ液に血液が逆流してきた。それ で血管にしっかり針が進入している事を確認すると、緩やかにプランジャを押し込んだ。冷たい感覚が左腕から全身に広がっていく。血中に進入した劇薬はアル コールの酔いも手伝って男の循環器を駆け巡り瞬く間に中枢神経を直撃した。目の眩むような強烈な快楽が脳天から背骨の脊髄に伝達され男の全身を走り抜け た。自律神経は変調を起こし瞳孔は開いたままになり、呼吸は荒がり心臓は早鐘を打ち続ける。しかし反対に意識は冴え渡り集中力が増大していくのを男は感じ ていた。

男は再度ヘルメットをかぶり目を閉じた。椅子に預けていた身体はまるで重力から開放され浮遊しているように感じさせる。薬効がクラ イマックスに達しようとしていたその時、まず聴覚に異変が起こった。音が聴こえてきた。最初は遠くから。二拍子で弾くエレキベースの重低音にあわせてバス ドラムをキックしているような規則的な鼓動が何処からともなく聴こえてきた。音は次第に強まり男の身体を揺さぶるまでになる。男は宇宙空間に浮かびただ鼓 動に身を任せていた。心地よかった。安心感に包まれていた。母親の胎内にいるように……。正にこれはケンイチの胎内記憶だった。いつまでもこの幸福感を感 じ続けていたかった。だが急に男は地表に押し付けられた。音が途切れ重力が戻った感じがして次の瞬間どうしようもない不安感が男に忍び寄る。なんだか判ら ない押しつぶされそうな圧力と息苦しい程の閉塞感が襲ってくる。寂しさ、孤独、疎外感。寂寥感。助けを呼んでいた、泣き叫んだ。しかし誰も手を差し伸べて はくれなかった。痛み、激しい痛みが襲ってきた。手や足や頭、顔、腹部……。体中で痛みを感じた。暴力の記憶だった。その悲痛な記憶は徐々にエスカレート していき男の五感を揺さぶり続けた。母親から受けた仕打ち、その情夫達から受けた暴力、せっかん、怒号。叩かれ、殴られ、蹴り上げられ、叩きつけられる。 うるさいと叱咤され泣く事も許されなかった幼年期の記憶、波のように押し寄せて浴びせかけられる罵声と悪意。空腹、火傷の痛み。嗅覚は何か焦げるような悪 臭を感じている。タバコの火で焼ける皮膚と肉の臭い。指先には生爪が剥がれる感触。自身のあばら骨の折れる鈍い音、内出血の疼き。気管に水が入って息が出 来ない苦しみ。怯え、怖気、恐れ、おののき、恐怖の連続。(……凄まじい記憶だ……信じられない)五感の全てで感じたありとあらゆる痛みをケンイチの脳は 驚く事に全て克明に記憶していたのだ。戦慄が走り母親とその情夫達に対する怒りの感情が噴出してくる。呪いの祈り、呪詛、呪言、母の愛を求めれば求めるだ け増幅してゆく憎しみ。絶望。愛から憎悪へ。倒錯してゆく親子の情愛。(あまりにも悲しすぎる……)脳裏に赤い金魚が突然現れた……。狂ったように泳ぎ回 るそれは金魚本来の愛くるしさを全く感じさせない……ランブルフィッシュ。それはまるで死ぬまで戦い続けるといわれる闘魚のような猛々しさを持っていた。 めくれあがった口から見えるその顎にはまるでピラニアのように鋭く尖った歯が並んでいる。金魚が口をあけた、そして喋った。「ヤラレタラヤリカエセ」確か にそう聴こえた……。その金魚が現れたとたん男は激しいショック状態に陥った。心臓を鷲づかみされたような苦しさ、呼吸も困難になり頭が割れそうに痛み出 した。ケンイチのどす黒く渦巻く殺意、闘争本能。その象徴である赤い怪魚。母親殺害。ケンイチの忌まわしい呪事の記憶が今まさに男を飲み込もうとしてい た。ケンイチの激しい思念が男の精神を支配してゆく。ケンイチの強靭な生存本能が男の自我を突き崩しかけていた、今男の精神は崩壊寸前に達していた。

「父さん……」

男は薄れ行く意識の中でその声を聞いていた。



「父さん、もうやめて……」

男の意識の中、一人の少年が現れた。



「……エイジ……エイジなのか?」

「そうだよ、僕だよ。このままじゃあ、父さん死んじゃうよ」

「おお、エイジ…… よく還ってきてくれた」

男の頬に一筋の涙が流れ落ちる。



「これは、お前を蘇らすためなんだ……」

「わかってるよ、この子の身体を使って僕を再生させようって思ってるんだね?」

「そ うだ、父さんはどうしてもお前にもう一度会いたいんだ、お前のデータは全てそろっている、生まれてからの記憶、脳の全情報はコンピュータに保存してある、 そのデータをこの子の脳の記憶を消去して上書きすればいいんだ、人格の交換。出来ない事じゃない。その為の人工海馬シリコンチップの開発、二年間不眠不休 でこの研究に没頭してきたんだ、それがやっと完成したんだ」



「ありがとう、うれしいよ、すごくね。僕も父さんに会いたいよ、でも、このままじゃあ父さんが死んじゃうよ」

「……エイジ、父さんを許してくれ、あれは決して危険な実験じゃなかった」

「うん、わかってるよ。父さんを恨んでなんかないよ、あれは事故だったんだ」

「だから、この子の身体を借りてお前をもう一度……」

「もう、いいんだ、父さん、僕はもう死んだんだ……」

「エイジやめてくれ、父さんはお前が死んだなんて思った事は一度もないんだ、あれからもずっとお前と一緒に暮らしてきたつもりだ」

「……父さん」

「もう一度、お前をこの手で……」

コンピュータの中に記録されたデータにあるエイジの残留思念。その残存する意識が微弱な電気信号となりコンピュータの電子回路を介して増幅され男の潜在意識に直接語りかけているのだ。今、エイジは機械の中の幽霊として父親との再会を果たしているのであった。



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◆ 40.ハルト誕生

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男は理論的神経科学の分野の天才。政府の研究機関で国家プロジェクトにたずさわりその将来を嘱望されていた。

理論的神経科学とは神経の機能をコンピュータで再現したり、認知・学習などの理論的なモデルを作成することで研究を行うものである。



そのプロジェクトとは人間を遠隔操作する電磁兵器の開発。男は研究開発リーダーであった。

そして二年前ある実験の被験者に男は自分の息子であるエイジを選んだ。

しかしそれは男の言うように決して命の危険を伴うような実験ではなかった、筈であった。

だが実験の過程でエイジは命を落とした。不慮の事故。男は嘆き悲しんだ。

愚かだった、野心のために非人道的な兵器の開発に手を染めた自分を呪った。

男は逃れるように政府の研究所を去った。

手術台の上で眠るケンイチ。トラウマのフラッシュバックで苦悶の表情を浮かべている。



「見てみて! この子拳を握りしめてるよ。まるでファイティングポーズとってるみたいだ。父さん、この子の生存に対する執念はすごいよね」

「そうだな……」

「全身全霊で『生きいていたい』っていってる。あれだけの仕打ちを受けたのにまだ生きていたいって……」

「……」

「ねえ、とうさん、この子を生かしてあげようよ」

「……しかし」

「この子は確かに罪を犯したかもしれないけど、罰はもう十分受けてるよ」

「……」

「罪は罪だけど…… そうしないと自分が殺されちゃうから、そうやっただけでしょ」

「……そうだな」

「じゃあ、決まりだね! そうだ! 新しい名前を考えてあげないとね。うーん、ハルトはどうかな。この子の将来が晴れやかで春の日のように穏やかであるように……」

「ハルトか……、だがエイジはそれでいいのか?」

「うん、僕はこの子に比べたら何倍も幸せだった。よかったよ、父さんの子供に生まれて」

「エイジ……」

「父さん、そろそろ時間みたいだ……。もう残留エネルギーが切れそうだ……」

「エイジ、待ってくれ!」

「父さん……、ありがとう……」

「エイジ!!」

エイジの思念はそこで途切れてしまった。



───ケンイチの脳、たんぱく質のレベル操作による特定の記憶の消去。しかしこれだけ強烈にDNAレベルで書き込まれた記憶を完全に消し去る事は不可能だ……。

───人工海馬によるトラウマのブロック機能と合わせればなんとか忌まわしい記憶を封印できるだろう。



ケンイチは生まれ変わった、ハルトとして。全ての作業を終えると男は倒れこむように深い眠りについた。

しかしケンイチの黒い記憶はこの時、男の精神に深いダメージを与えていたのだった……。

Chapter 05 END