倭の五王の謎を解くためには、日本書紀等の天皇と比較するのではなく、百済の王族を研究することが必要だと私は考えている。

 

ではその百済の王族について知るにはどうアプローチしていけばいいのか?

百済のことについてだから「三国史記」の百済本紀を読めばいいのか、いや違う。

「三国史記」は1145年に完成したものでその元となった資料は錯綜している。

詳しくは、高寛敏著の「『三国史記』の原典的研究」に譲るが、「旧三国史」「資治通鑑」「冊府元亀」さらに新羅、高句麗の独自史料の存在が伺われる。

 

ならば「宋書」を利用すればいいのか?

これは半分正解で半分が間違いである。

「宋書」は、沈約が488年に最終的にまとめたものだから時代も近くかなり信憑性は高いのだがさらにその内容を厳選できる。

もっとも信頼度が高いのは「宋書」の中の冊封国からの上表文である。

中国の史書は公平な立場で詔や上表文は原文をそのまま載せている。

各国自らが皇帝に上表した内容を最重要と考えるのである。

 

ここで私が謎を解くために毎日眺めていた文を提示しよう。

 

毗死,子慶代立。
世祖大明元年(457年),遣使求除授,詔許。
二年(458年),慶遣使上表曰:「臣國累葉,偏受殊恩,文武良輔,世蒙朝爵。行冠軍將軍右賢王餘紀等十一人,忠勤宜在顯進,伏願垂愍,並聽賜除。」仍
以行冠軍將軍右賢王餘紀為冠軍將軍。
以行征虜將軍左賢王餘昆、行征虜將軍餘暈並為征虜將軍。
以行輔國將軍餘都、餘乂並為輔國將軍。
以行龍驤將軍沐衿、餘爵並為龍驤將軍。
以行寧朔將軍餘流、麋貴並為寧朔將軍。
以行建武將軍于西、餘婁並為建武將軍。
太宗泰始七年(471年),又遣使貢獻。
472年 北魏へ上表

 

毗とはおそらく「三国史記」にある毗有王、慶とは蓋鹵王のことであろう。

ポイントは両文献を同価値で扱うのではなくあくまでも上表文が主で「三国史記」はその補助本とすることである。

 

慶は百済の王となり、自分の下の者に官位を与えている。

しかもそれは”佐平”という百済独自のものではなく、中国のルールに則った将軍職であるので、慶が仮に任じた将軍職を正式に皇帝の許可をいただきたい、という状況である。

 

右賢王餘紀等十一人、とあるので一番最初に名前のある”餘紀”が慶にとって最も重要な人物であることがわかる。

ではその人物とは誰か?

当然、次期百済王となる慶の子で太子である人物であろう。

 

餘紀が慶の長子で太子であろうことは推察される。

しかしここで序列に疑問が生じるのだ。

餘紀は冠軍將軍に任ぜられているのだがそれより位の高い人物がリストでは餘紀の後塵を拝しているのだ。

(宋の将軍職の序列一覧表は下に添付)

 

征虜將軍の餘昆と餘暈である。

餘昆にいたっては右賢王より位が上と考えられる左賢王の私称号までもらっている。

(ただし中国の皇帝は右賢王左賢王どちらも認めずスルーしている)

 

慶にとって最重要な餘紀より位が高い人物とは何者なのか?

これは年功序列の昇進ということを考えると餘紀より年長のグループということだろう。

餘紀は同じ年代の中では最も出世が早いが、餘昆と餘暈はそれより一世代前、つまり慶の兄弟たちということになる。

 

ちなみに餘昆は日本書紀に出てくる昆支とする人が多いがそれは正しいだろう。

ただ慶の弟に餘暈という人物がいたであろうことを推察することは日本書紀や三国史記に記載がないからといって否定されるものではない。

 

実は私はこの餘暈が475年に百済の首都が高句麗軍に囲まれたときに新羅に援軍を呼びに行った人物ではないかと考えている。

 

次に餘紀の冠軍將軍より一段落ちる輔國將軍に任ぜられている餘都と餘乂である。

これら二人は序列の行き違いも無く素直に考えられる。

ここでヒントとなるのが南斉書に百済の王に牟都という人物が登場することである。厳密には牟大の祖父牟都とあるのだが、これは牟大の二代前の百済王が牟都だという情報を中国側が知っていたということなので祖父という系譜を信じるのは慎重に判断するべきであろう。

 

都という文字の共通項から見て餘都は百済の王を慶の次に継ぐことのできる人物、つまり慶の子で餘紀の弟ということになる。

必然、餘都と餘乂は同じ位なので餘乂も慶の子であることが推察されよう。

記録に残っている蓋鹵王の子は二人くらいが想定されるのだが百済の正式な王の子がたった二人ということは現実的には少なすぎる。昆支ですら五人の子がいるということなので、それに近い人数がいてもおかしくはない。餘紀、餘都、餘乂としてもまだ三人である。実際はこの上表文の後462年に斯麻も生まれている。

 

そして次に急に餘氏以外の沐衿という人物がでてくる。

情報が少なすぎてあれだが、この次の餘爵より優先されているということは王族ではあるが、分かれて沐氏を名乗っている外戚級の人物であろう。

ちなみに私はこの”沐衿”が木羅斤資だと想定している。後に日本列島に渡り蘇我氏になった氏族の祖である。

 

ここまでで主に語りたいことは終わっているがおまけとして、建武將軍の于西と餘婁について述べておこう。

 

蓋鹵王は高句麗軍に攻められたとき元百済の人、対盧斉于と再曽傑婁に捕まり殺されたそうだ。

この対盧斉于と再曽傑婁が于西と餘婁だとしたら、蓋鹵王は人事についてかなり不公平な扱いをしていたのかもしれない。

 

ありがとうございました。