武寧王は蓋鹵王の子、日本書紀だけを見ている人には当たり前のことだが、他の史書、「三国史記」等を読んでいる人にはそうとは言えないと思うだろう。

 

事実「三国史記」には武寧王は牟大王の次男となっている。

このあたりは情報が錯綜していてどれが真実だかわからなかった。

ただ「三国史記」を読み返しているうちに気になった記述があった。

蓋鹵王の次の王、文周王の内容だ。

冒頭では蓋鹵王の子とある、これはストレートだ。

しかしその後蓋鹵王が王位を継いだとき、文周がこれを輔佐して位が上佐平になったとある。

これがおかしいのだ。

ある人物が王位を継いだとき、その子がその父を輔佐する役目になることはない。なるのは実の弟や外戚、后の父や兄弟だろう。

ならばどこを間違いとみれば全ての筋が通るようになるか?

冒頭の”文周王は蓋鹵王の子”だ。

これを弟や叔父に変えれば内容の矛盾はなくなるだろう。

蓋鹵王から文周王への代替わりのとき、伝承では続柄が無かったのだろう。

よって史書作成者は憶測で素直に父子関係だとしたと推測される。

 

では文周王が蓋鹵王の子ではないとどういうメリットが出るか?

それは倭王武が宋に送った上表文の内容が武寧王と蓋鹵王のその子にぴったり符合するようになるのだ。

475年に高句麗が百済漢城を攻めたときに蓋鹵王のその太子は高句麗軍に殺されている。

そして478年に父と兄を殺された武の上表文が作られる流れになる。

このことから倭王武は記紀にある雄略天皇ではなく、百済の王武寧であることが確実視される。

 

やはり宋書の記述を単純に記紀の天皇にあてはめていた今までの考察は視野が狭かったことがわかる。

 

倭の五王についての再確認でした。

 

ありがとうございました。