突然古代史ですが、最近謎が解けたので整理するためにここに書きます。
中国の史書には倭の五王についての記述があり、それらが日本の記紀にある天皇の誰にあたるかが論争になっています。
しかしそれらは全て徒労であったことがわかったのです。
具体的にはタイトルにあるように倭王武とは百済の武寧王のことでした。
唐突過ぎてわからない人も多いかと思いますが、このことは事実らしく他の候補では矛盾が出ていたことが解消され全てのパズルのピースがはまります。
まずは当時の百済と日本列島の中に在った倭国との関係を整理しないといけません。
百済の王家は朝鮮半島の中部に都を持ち、そこで代々継承されていましたが、やはり後継者争いは怖いものです。
日本でいうと室町幕府の足利家は後継者争いを未然に防ぐために、将軍にならなかった男子を出家させて寺に入れ、争いが起こらないような状態にしておき、宗家になにかあったときには還俗させ後継を絶やさないようなシステムを構築していました。
百済にもそのシステムがありました。
それが本国と倭国です。
倭国には傍流の王子が送られそこで百済の衛星国として生活し、本国でなにかあったときには呼び戻されていました。
事実はこうだったのですが、百済が滅亡後にできた日本書紀には倭国が主で百済が従というように書き換えられてしまいました。
本来の百済が主、倭国が従、この視点で倭の五王を探すとなると日本書紀は関係なくなってきます。
百済の王の系譜を見て、王が本国で即位する前に倭国で王だった可能性のある人を探せばいいのです。
ヒントとなるのは倭王武の478年の宋への遣使です。
ここでは父や兄がにわかに亡くなり高句麗へいつか攻め返してやるという内容の上表文がありました。
なぜなら475年に百済の首都漢城は落とされ当時の王、蓋鹵王とその后そして王子は高句麗軍に殺されていたからです。
また477年には百済の王族昆支や文周王が立て続けに内紛で殺されています。
このような状況なので日本にいた若い頃の武寧王は高句麗への復讐に燃え、高句麗への攻撃の意志を宋に事前報告したのです。
この視点で他の倭王も探していくと
興は昆支、済は蓋鹵王、というあてはめができるようになります。
蓋鹵王と昆支は兄弟説、親子説があるのですが、倭王済→興→武はきちんと代替わりしているとすると、
蓋鹵王、昆支、武寧王は祖父、父、子という系図が確定できます。
基本倭へ派遣される百済の王族は側室の子や正室の次男以降となるようなので讃や珍に当てはまる人物の情報はなかなか残っていないようです。
その発想でいくと、蓋鹵王は毗有王の長子であると系譜ではなっていますが、側室の子としての年長者でしょう。
正室の子、太子がかならずいたはずです。
これらの視点を活用すると稲荷山の鉄剣や隈田八幡の鏡の銘文の解釈もすんなり筋が通るようになります。
それらについてはまた別の機会があればまとめてみたいと思います。
ありがとうございました。