敏達天皇は古事記では 名前 と 宮 と 子供たち と 御陵 について書かれていました。
では日本書紀でどのくらい増えたかというと、
・高麗、新羅、百済との外交
・蘇我馬子の崇仏
・物部守屋の破仏 等、かなりの分量です。
日本書紀では、
名前が 渟中倉太珠敷天皇 で第二子だそうです。 第一子はどうしてしまったのでしょうか?
二十九年(前天皇の治世) に皇太子になったそうです。
普通に考えて父の天皇が即位したときに後継者として皇太子を立てると思うので二十九年間は前天皇の弟や息子が皇太子を引き継いでいたのでしょう。
そして父が長生きしたために皇太子が先に亡くなる状況が続いたと思われます。
三十二年四月に前天皇が亡くなりました。よって皇位につきます。
そして宮を 百済大井に作ったそうです。
比定地については諸説あるそうですが、基本大阪、奈良近辺に過去の研究者は比定しています。
しかし、素直に文字を読んだら朝鮮半島の百済に宮(屯倉)を作ったと思えます。
かなり異説になってしまいますがどうなんでしょう?
宮をつくった天皇は物部弓削守屋をそのまま大連と為し、蘇我馬子宿祢を大臣に任じました。
その後天皇は皇子と大臣にいろいろ指図しますが、大連に指示を出したことはほとんどありません。
大連という役職は天皇の近くにいる人ではないのでしょうか?
ちなみにここにある皇子は解説では息子のことではないかとされていますが、書紀を良く読むと息子は四年後以降に生まれるので天皇の弟のことだと思います。
また宮にいる天皇はそこで高麗や百済、新羅から来た使者といろいろ関わりますが、宮とは別に京師という場所が出てきます。
今まで宮とは天皇がいる都のことだとばかり思っていましたが、京師はさらに偉い人がいるところもしくは天皇の本拠地のようです。後の描写で馬子が京師に還るとありました。
一度「宮」「京師」「屯倉」「朝廷」の言葉の使い分けを整理したほうがよさそうです。
細かい疑問は多々ありますが、やはり朝鮮半島との外交の記述がほとんどな点を考えるとこの頃の天皇の本拠地は奈良ではなく、九州北部にあったと考えるのが理にかなっていると思われます。
日本書紀を読む場合、訳はあまりあてにならないような気がしてきました。
ありがとうございました。