現在、日本書紀と古事記を比較して日本古代史の謎が解けないか挑戦中です。
次は一代遡って崇峻天皇です。
本文に入る前に崇峻天皇とは天皇の中で唯一家臣に暗殺された人というイメージです。
原文ではどうなっているでしょうか?
古事記では、
名前が 長谷部若雀天皇 で
宮は 倉椅柴垣 にあり
四歳 治め
御陵は 倉椅崗の上にある
たったのこれだけです。
暗殺されたとは少しも書いてありません。
分量としては欠史八代レベルですね。
とりあえず気になった点は、
宮の 椅 の字が「はし」と読まれていたこと。
正直この漢字だけで宮の場所を特定するのは不可能に近いですが、先人たちは奈良盆地のどこかのはずだとの先入観で探したと思います。
倭国が九州だったとすると探せる範囲は広がりますがなかなか大変そうです。
次に推古天皇と同じように、御陵は崗の上に作られるようですね。
この時代の風習だったのでしょうか。
次は疑問ですが、推古天皇の尊称は命、ちなみに神武天皇の尊称も命。
しかし、崇峻天皇はしっかり天皇となっています。この点は一通り全員の天皇がどうなっているのかを調べてみると古代史の謎を解くヒントになるかもしれません。
それでは日本書紀の方へ移ります。
こちらはうってかわってすごい分量なのですが、まず
名前が 泊瀬部天皇 で
宮はどこにあるかわかりませんでした。
御陵は 倉梯岡だそうです。
言及されていることがらは
・穴穂部皇子の死
・物部守屋の滅亡
・法興寺創建
・蘇我馬子が東漢直駒に命じて崇峻天皇を殺させる
です。
これらの事は歴史の本などをみると大々的に扱っているのでなぜ古事記には書かれていなかったのかの理由を考えてみると楽しそうですが現段階では疑問のほうが先に出てきてしまいます。
・法興寺は法隆寺ではないので九州倭国の記録から加筆されたのなら博多あたりにあったのか
・物部氏、蘇我氏の勢力範囲は?
・天皇暗殺の首謀者が蘇我氏とすることによって読む人は蘇我氏に悪いイメージを持ちますが、そうすることで誰が得をしたのか?
蘇我氏に恨みを持っていたのはどんな人だったのだろうか?
今後読み進めていくうちに何かいいひらめきが得れらて謎が解けることを期待します。
ありがとうございました。