前回の記事をふまえた上で壬申の乱を見返してみると、ただの兄弟同士の皇位継承争いではないことがわかります。
九州倭国の重要人物であった中大兄皇子は祖国が唐によって壊滅させられ琵琶湖畔まで逃げてきました。
そこで兄の後を継ぎ倭国の天皇に即位します。
しかし往年の勢いは無くなっていました。
唐との戦いに無理やり駆り出された形になった奈良の勢力や尾張などの豪族は近江朝に反旗をひるがえしても勝ち目が出てくる状況になったのです。
そして大海人皇子はリーダーになり壬申の乱を起こして今までの恨みをはらしつつ、自分たちで権力を握ろうとしたのです。
結果はご承知のとおり、大海人皇子側、奈良の勢力の勝ちでした。
そして自分たちの行為を正当化するために歴史書を作り始めたのです。
それが「古事記」と「日本書紀」です。
ここで全三十巻にもおよぶ「日本書紀」の作られた背景を整理してみましょう。
九州王朝倭国にいい思いをしていない奈良の勢力は歴史書から九州王朝の記述を消すことを考えました。
そして「古事記」をとりあえず作ったのですが中国や朝鮮半島と交流の少ない奈良ではあまり書くネタがなく歴史書としてはさびしい内容になってしまいました。
そこで九州王朝の事績を自分たちのものにつけかえボリュームを増やしました。
そうやってできたのが「日本書紀」です。
いわゆる学者さん達は「日本書紀」は大和朝廷が作った正規の歴史書だから内容を忠実に研究し、つながりがおかしいようなところも真面目に解読し今日まで来ました。
しかし奈良を中心とした目線から半島にかかわるエピソードを見るとその遠さから間延びした感じになるエピソードも、九州博多で起こったことだと読むととても生き生きしてくるのがわかります。
舒明天皇の任那を取り返してくれ、との遺言。任那を取られた切実さはひしひしと伝わってきます。
また継体天皇の巻も不自然に半島の記述が多すぎます。
これは継体天皇の出身地はもしかしたら福井の三国ではない可能性もあります。
白村江の戦いもすぐ対岸の百済が唐に滅ぼされた九州倭国は戦うしかない情勢にあったのも仕方のないことでしょう。
このように考えると「日本書紀」を読むのもまた一段深いところで読め、謎解きが楽しくなってきます。
そのあたり、解明できたらまた記したいと思います。
ありがとうございました。