三国史記と日本書紀を比べて見ていると、その年表はお互いを補完し合っているのではなく、なんの根拠も正確性もない日本書紀の紀年を参考に三国史記は年表を創作している可能性が高いことが推察されてくる。
では三国史記が参照した日本書紀の紀年の信頼性を神功皇后紀を例に見てみよう。
神功皇后紀は仲哀天皇が崩御してから摂政前紀があり、その後六十九年間摂政をしていることになっている。
摂政というものは、王が年少等で政治判断が難しいから代行する役割である。六十九年も続けていたらその年少者も老人になってしまうわけでその時点でおかしいことはわかるだろう。
なぜそんなことになっているのだろうか?
日本書紀の作者は古事記にある、”皇后は御年一百歳で崩御した”との記述を疑いながらも採用するしかなかったのだろう。
神功皇后(息長帯日売命)は古事記では仲哀天皇の巻に出てくるが、新羅に遠征し、返ってくる途中に応神を生み、忍海王らを倒した、等の簡潔な記述である。そしてエピソードだけで紀年は全くわからない。
それでは史書としての体裁が整わないので日本書紀の作者は他の巻同様、紀年をゼロから作りだすしかなかった。
そしてその材料は、仲哀天皇は五十二歳で亡くなり、神功皇后は百歳で亡くなった、この二つだけである。
とりあえず忍海王らを倒した年を摂政元年とし、二年に仲哀天皇を陵に葬ったことにし、三年春に応神を皇太子にしたことにした。
このとき応神はまだ丸三歳にもなっていない。
その後五年は新羅のエピソードの挿入、
十三年は気比の参拝で古事記のエピソードの挿入、とかなり紀年創作に苦労しているようす。
ここで『魏志』を見ている作者は倭の女王の記述も拝借して引き伸ばしをしている。
三十九年
四十年
四十三年 全て『魏志』の引用だけである。
次は六十六年だが、その間には何も無いので次は百済とのエピソードを持ってきている。
四十六年
四十七年
四十九年
五十年
五十一年
五十二年
五十五年
五十六年
この長い間、倭国ではなにもなかったのだろうか。
平穏ならそれこそ立派に育った応神に位を譲るいいチャンスのはずである。
六十二年はまた新羅のエピソード。
六十四年
六十五年、は百済のエピソード。
ようやく六十六年になり、倭の女王が晋に朝貢した記述を引用できた。
そして六十九年にやっと崩御である。
このとき応神は七十前後の老人であるが、誰もおかしいと思わないのであろうか?
しかし神功皇后紀は百二十年実際の年次から繰り上げられて記録されている、と主張している人々はこの百済関係の紀年が三国史記と一致するからを根拠にしている。
中国の史書とは上手く合わず、矛盾が生じているのに。
このあたりの研究は一度白紙に戻してやり直したほうがいいと私は考えている。