続き

 

 

 忠信立流剣術の伝承の謎

 

寛政11年(1799年)発行の忠信立流剣術印可の系図にも興味深い点がある。

 

忠信立流剣術印可に記載される系図は以下の通り。

 

「傳 願立祖 松林無雲━━傳 丸流祖 権大僧都法印乗光院━━傳 三徳流祖 鈴木一翁斎━━傳 忠信立流祖 平井藤右衛門━━以下略」

 

これを見ると三徳流の系図の二代目である佐藤嘉兵衛の代わりに、三代目の権大僧都法印乗光院が二代目になっている。

 

その権大僧都法印乗光院は丸流の祖とされている。

 

つまり権大僧都法印乗光院は夢想願立流の「がんりゅう」という読みだけを残して、新しく丸流としたらしい。

 

その後三徳流祖の鈴木一翁斎が続き、次代が忠信立流を創始した平井藤右衛門になる。

 


 

 

 二代、佐藤嘉兵衛の存在

 

 

忠信立流は三徳流から分派したと思われるが、それにしては三徳流印可巻には無い記載もある。

 

権大僧都法印乗光院を丸流の祖とする記載は三徳流には無い。

 

また、恐らく流祖の松林佐馬之助の直接の弟子であろうと思われる佐藤嘉兵衛の存在を伝系から消している点も気になる。

 

それで言うと三徳流印可巻にも佐藤嘉兵衛の苗字が書かれておらず、単に嘉平衛とだけ書かれているのも不思議である。

 

おそらく忠信立流には、三徳流と別に存在していた丸流の系統の伝承が入り、その影響なのかもしれない。

 

なので忠信立流は丸流と三徳流の二つの影響下で生まれ、その中で佐藤嘉兵衛の存在を排除したい意図があった可能性もある。

 

この事もまた、夢想願流の伝承が不完全に伝えられて行った事を間接的に表しているようにも思える。

 

 

 

 

 三徳流の流名の由来からわかる事

 

 

 

三徳流の伝書の序文で鈴木一翁斎は「自分もその徒では無いが、その情報を聞いて考察し秘かに学んだ。」といってる。

 

続いて何故三徳流と名前を改めたのか説明している。

 

漢文を並記するのが面倒なので、簡単に訳文だけ乗せると以下の理由による。

 

 

「~竊(ひそか)かに与(くみ)するを淑(よく)す。

是(これ)を以(も)って滿心蛛之網(まんしんくものあみ)を述(の)べ著(しる)し、要秘伝印家等之書(ようひでんいんかとうのしょ)を弟徒(ていと)に授(さず)け、其(そ)の習(なら)い講(こう)ずるを助(たす)けるも、然(しか)るに旧称願立(きゅうしょうがんりゅう)に因(よ)りて、則(すなわ)ち予(よ)不一(ふいつ)の畏難(いなん)有(あ)る也(なり)。

然(しからば)則(すなわ)ち如何(いかん)とする可(べ)しか。

所謂(いわいる)三徳(さんとく)者(は)当流兵法(とうりゅうへいほう)の要秘(ようひ)を備(そな)え、之心體(これしんたい)、之身備(これしんび)、之(これけん)、而(なおかつ)進退周旋(しんたいしゅうせん)(あた)ら不(ざ)ること無(な)しと之則(これすなわ)ち以為(おもうに)(いた)る也(なり)。若(も)し其(そ)れを推(すい)し極(きわ)むれば、則(すなわ)ち書(しょ)(の)正真(しょうちょく)、剛(ごう)、柔(じゅう)、中庸(ちゅうよう)(の)(ち)、仁(じん)、勇(ゆう)、を更(あたらし)(む)(に)(いた)り、戯(たわむ)れるに至(いた)る哉(かな)、三徳(さんとく)(や)。因(よ)りて流儀(りゅうぎ)を名(な)づくを以(も)って云(ここ)に再(ふたた)び標的(ひょうてき)と為(な)す。

 

東奥(とうおう)處士(しょし) 鈴木(すずき)五左衛門(ござえもん)重定(しげさだ) 自序(じじょ)

 

つまり鈴木一翁斎は秘かに学んだ願立の教えをもって満心蜘蛛の網という秘伝を編み出し、弟子に授けていた。

しかしその極意は願流からインスパイアされたものとはいえ、「不一の畏難」、つまり違うものである畏れがあったので、そのまま旧称の願立を名乗るのを遠慮し、いかんとするべきか考えた。

 

序文によると、満心蜘蛛の網の修行を続けることで

 

「心體」、「身備」、「剣」が、立ち居振る舞い全てにおいて常に適切に作用するようになるとし、

 

その結果として書経における三徳である「正直、剛克、柔克」、さらに中庸の三徳である「知、仁、勇」も備える事が出来、その至高の境地に遊ぶことが出来るとする。

 

なので満心蜘蛛の網の伝を修行することは三徳を備える事と同じなので、改めて三徳流と名付けて流名のしるしとしたと言っている。

 

後の時代には、新遠野物語には三徳の由来を剣術、柔術、棒術の三つを伝承した事から三徳としたという伝承になっている。

 

しかし流祖、鈴木一翁斎の説明によると違うように思える。

鈴木一翁斎の時代に柔術や棒術が併伝されていても不思議では無いが、自筆の序文を読むと流名の由来とするには不適切に思える。

 

故に何処かの時点で伝承が変化したと考えられる。

或いは後世の三徳流は、名前が同じでも全く違う流儀の可能性もある。

 

 

 

またやはり「不一の畏難あるなり」という記述には、鈴木一翁斎が願立剣術を直接学んでいない事が改めて表れている。

 

そして三代、或いは忠信立流では二代の権大僧都法印乗光院がそれ以前に流名を改めて丸流と名乗っている所を見るに、この時点ですでに願立の教えは不完全に伝わっていた可能性が高い。

 

その不完全な伝系を、無想願立の正統後継者であるとして仙台藩に伝系を書き上げた9世の佐藤槙之助が採用していると言う事は、かなり高い確率で夢想願流が事実上は失伝状態で伝わっていた事を表している。