続き

 

 

 

 「願立剣術物語」の成立を考える

 

「願立剣術物語」が一体いつ書かれ、どのような経緯で八戸市立図書館に所蔵されているのか私は知らないが、「八戸南部家文書」の中にあるらしいので、遠野南部家からの寄贈であろうと思われる。

 

ここではとりあえずそれ以上の情報がないので、そのまま考察を進める。

 

本書には師匠の阿部道是が「壮年より六旬にいたるまで粉骨し、ようやく先師の伝を会得した。」とある。

 

壮年とは当時の習いでは30歳くらい、六旬とは60歳の事である。

 

つまり、阿部道是は30歳頃から夢想願立流の修行を始めたととれる。

 

流祖、松林左馬之助が武州赤山から仙台藩へ招かれて剣術指南役になったのは、寛永20年(1643年)。

 

その頃に阿部道是が30歳で入門したとして、30年後の60歳は延宝元年(1673年)で、寛文7年(1667年)生まれの服部孫四郎は6歳になる。

 

こうなると阿部道是が60歳前後の時に服部によって本書が書かれた可能性はほぼ無くなる。

 

仮に服部が10代前半だったとしても本書を書くには若すぎるし、「九牛一毛にも達せず」などと早々に自分の実力を達観できる年では無い。

 

 

 

 三徳流剣術印可について

 

 

一方で私の見た三徳流印可の巻物が発行されたのは宝永五年(1708年)で、この時服部孫四郎は41歳である。

 

そしてこの巻物は宇夫方政周という人が発行したもので、宇夫方政周は服部孫四郎と同じ時代と場所にいた南部藩士であった。

 

この巻物の系譜には

 

「願立祖 松林無雲━━嘉兵衛━━権大僧都法印乗光院━━伊藤善内━━三徳流祖 鈴木五右衛門━━宇夫方七右衛門政周」

 

とある。

 

この系譜の1世から5世の鈴木一翁斎までは、服部没後約80年後に提出された願立剣術の系譜と同じである。

 

この巻物を発行した宇夫方政周は南部藩では著名な人物で、遠野盛岡屋敷勤番に勤めた父、広隆と共に「八戸家伝記」「遠野古事記」「阿曽沼興廃記」など様々な文書を編纂し、文武共に優れた人物だった。

 

その宇夫方政周が、「献 戡公」として時の南部領主であった南部利戡に発行したのが、この三徳流剣術印可である。

 

この巻物は南部利戡が24歳の頃に渡されたもので、利戡はその前年まで江戸に出府しており、翌年の帰国後の正月に渡されたものであるようだ。

 

利戡はその5年後に若くして亡くなっている。

 

 

 

この巻物の序文には「東奥處士 鈴木五左衛門重定 自序」とあり、おそらくは宇夫方がそのまま序文を写して渡したのだと思われる。

 

東奥とは東の奥の地方、奥州の事で、處士とは十分な学識、教養があるのに仕官せず、在野で学問を続ける人の事である。

 

実際この序文には確かな教養と格式が感じられ、鈴木一翁斎が品格優れた文人の側面も持ち合わせていた事が伺える。

 

その弟子であった宇夫方政周も教養のある文人でもあり、夢想願立の情報と三徳流はかなり教養の高い人物たちの間で伝承されていた事が伺える。

 

そうなると鈴木一翁斎までの「佐藤嘉兵衛━━権大僧都法印乗光院━━伊藤善内」もそのようなコミュティに身を置く人物達だった可能性が高い。

 

しかも5世鈴木一翁斎まで相当早く伝承が進んだ事になる。

 

これは夢想願立の情報が不完全な形で伝えられた事を暗に示している。

 

そしてその巻物は遠野南部家の領主に渡された。

 

 

後の三徳流は捕り方達の武芸となっており、民間伝承では三徳流の密偵が打たれた話や、他藩から三徳流の流れ者の使い手がやってきて武芸を伝えたが、素行が悪く結局弟子たちに打ちとられた話などがある。

 

これらのエピソードは宝永の時代の三徳流とはギャップのある「輩感」の漂うものばかりで、不思議な事である。

 

 

 

 

 願立流と三徳流の複雑な関わり

 

 

ココから推測すると、

 

まず服部孫四郎は幼少期に阿部道是から夢想願立を学んだ。

 

阿部道是が60歳前後の時に服部はおそらく10歳前後であり、その後何年間学んだかは分からないが、おそらく阿部道是が存命の間に全てを学びきる事は出来なかった。

 

「願立剣術物語」の序文にある「秘かに学んだ。」という表現もその引け目からくるものではないかと推察される。

 

 

 

そして服部は南部藩士となり、恐らく三徳流の伝系と接したと思われる。

 

少なくとも宇夫方政周と服部は同時代に同じ藩にいた人物であり、三徳流はそのころ遠野領主が学ぶほどの格式のものであったのだから、服部が三徳流の序文を見て改めて自分の経験を書き留めるきっかけになったのではないか。

 

つまりあくまで自分の一つの推測だが、願立剣術物語の序文の「予~」から始まる文章の元ネタは鈴木一翁斎の自序のある三徳流印可巻からではないかと思う。

 

願立剣術物語が遠野南部家で所蔵されていたと言う事は、服部孫四郎は本書を遠野南部家に渡したことになる。

 

何時渡ったかは定かではないが、服部孫四郎が遠野南部で夢想願流を教えた記録は見られない。

 

なので後世に服部の弟子や子孫が渡した可能性は低く、服部自身が南部家に提出した可能性が高い。

 

そこから考えると、

 

願立剣術物語には服部孫四郎が何らかの意図に基づいて藩主に向けてこの流儀の真実を書きあげた要素がある事になる。

 

そして南部利戡が三徳流の印可を受け取っていた事からかんがみるに、同じく夢想願流のルーツを知る服部孫四郎がこれに対して一家言持っていた可能性は高い。

 

既に書いたように三徳流祖の鈴木一翁斎は直接夢想願流を学んでいない可能性が非常に高いので、三徳流の技が服部孫四郎の知る夢想願流の技と乖離があった可能性は高い。

 

そうなると服部孫四郎が本書を書く動機もその辺にあろうかと推察できる。

 

 

 

 

 

そしておよそ服部の没後、およそ80年後の文政元年(1818年)に仙台藩に提出された願立の系譜には三徳流の系譜が採用されている。

 

 

 

まだまだ不明な点があるが、おおよその流れはこのようであったのではないか。