このテーマはシリーズとして書いて行きたい。

私は夢想願立剣術と言う武術を研究しているが、このシリーズでは主に資料的検証からこの流儀の系譜に関して疑問に思った事を書いて行きたい。

詳しくはプロフィールや武術関連の記事を見て欲しいが、私自身はトレースと称して非常に怪しい事をやっている人間である。

しかしこの連載ではそのトレースの要素をすべて排除して、資料をみて思った事を、ただ書いて行きたい。

 

いつもはなるべく独りよがりにならないように、この分野に興味のない人でも見れるように説明を加えながら配慮して書いているつもりだった。

今回もその配慮に乗っ取れば、まず流祖である松林左馬之助、あるいは通称無雲の生まれや事跡について述べ、流儀の特徴について述べてから本題に入るべきだが、それをやると余りにも長くなるので、いきなり本題から入りたい。

 

夢想願立剣術や松林左馬之助について知りたい方は検索して頂ければ大体の事はわかるので、その上でご覧になってください。

 

 

 

 三つの伝書

 

 

 

夢想願立には「願立剣術物語」という冊子本があり、現在は八戸市立図書館に所蔵されている。

 

著者は服部孫四郎という人物で、寛文7年(1667年)生まれの南部藩士であるらしい。

 

寛文7年はちょうど流祖、松林左馬之助が亡くなった年で、服部は入れ違いに生まれたらしい。

 

内容は自分の師匠であった阿部道是から日頃指南されていた注意を書き留めた物である。

 

阿部道是は流祖松林左馬之助の弟子で、慶安4年(1651年)に江戸城内において時の将軍であった徳川家光の前で松林無雲と共に夢想願立の剣術の演武を披露した人だった。

 

この慶安の上覧演武は夢想願立剣術にとって非常に名誉な事跡であり、流儀に於いて特に後世に語り継がれるトピックであり、またその名声が世間に周知されるきっかけでもあった。

 

 

今回はその「願立剣術物語」の序文と、二つの巻物の序文に注目したい。

 

二つの巻物とは「三徳流剣術印可」、「忠信立流剣術印可」であり、どちらも「願立剣術物語」の序文と文体や内容に共通点があり、それ故に様々な謎が深まる、というのが本題である。

 

一つは冊子本、後の二つは流儀の巻物であり、印可とは師匠から弟子へ直々に修了証として授けられるものである。

一方で「願立剣術物語」は服部が私的に書き留めたもので、後世の人間に不備を正す事を願っている事から、ある程度の公共性はあるかもしれないが、詳しい立ち位置は不明の書である。

 

 

 

 夢想願立の系譜

 

 

あとの二つの三徳流剣術と忠信立流剣術については、まず夢想願立剣術の系譜について説明するのが早いだろう。

 

仙台人名大辞書によると、

流祖、松林左馬之助が没してからおよそ150年後の文政元年(1818年)に、夢想願立の第九世であった佐藤親章、通称は左門、あるいは槙之助が仙台藩に夢想願立剣術の伝系を提出したという。

それが以下である。

 

【一世松林左馬之助━━二世佐藤嘉兵衛尉━━三世大僧都法印乗光院━━四世伊藤善内

━━五世鈴木一翁斎━━六世三浦岡雲斎━━七世遠藤清之丞定尚━━八世三橋幸之助広教

━━九世佐藤親章】

 

この第五世の鈴木一翁斎が三徳流剣術の創始者である。

 

忠信立流剣術はこの三徳流から分派した剣術流派である。

 

とにかくこの伝系には謎が多い。

 

その内の一つを上げておくと、この伝系は夢想願立の正統後継者が藩に書き上げた正式なものであるはずだが、先に書いてあるように三徳流という夢想願立から分派した流儀の祖が組み込まれているという不思議がある。

 

しかも後述するが、この鈴木一翁斎は、夢想願立を正式に学んでいない可能性が非常に高い。

 

 

 

 誰も継げなかった存神の妙

 

ではこの一冊と二巻の序文の共通点を書きたい。

 

●まず願立剣術物語では流祖、松林左馬之助の剣技を神妙不思議とし、その凄さを述べ、続いてこう書く。

 

「雖多汲此流人而難得百其一」

【此(こ)の流(ながれ)を汲(く)む人多(ひとおお)しと雖(いえど)も、百(ひゃく)の其(そ)の一(いち)を得(え)ることも難(かた)し】

 

つまり多くの人が習ったが百分の一もその技を再現できるものはいなかったという事である。

 

 

●続いて三徳流剣術印可には、やはり松林左馬之助の事跡と、将軍家光公の前で受けを務めた阿部道是の名があり、やはりその名声からこの流儀を習うものが大勢いたとある。

美譽弥高芳声益震故受業者幾何」

【美譽(びよ)弥(いよいよ)高まり、芳声(ほうせい)益(ますます)震(ふる)える故(ゆえ)に受業(じゅぎょう)する者(もの)幾何(いくばく)ぞ】

「唯恨無継其存神之妙也」

【唯(た)だ其(そ)の存神之妙(ぞんしんのみょう)の継(つな)ぎ無(な)きを恨(うら)む也(なり)】

 

存神之妙とは孟子の中にある「聖化存神之妙」という言葉から来ており、聖人はそこにいるだけで周りに影響を与える不思議な力があると言う事である。

 

この場合はつまり、松林左馬之助と同じ動きをするものが現れなかったと言う事である。

 

 

 

●続いて三徳流の分派の忠信立流剣術の伝書では、やはり三徳流の文章の踏襲が多く、伝言ゲームのように若干の変化がみられるのみである。

 

「美譽弥高芳声益震故受業者不可勝計雖然唯惜當時無嗣彼妙術者」

【美譽(びよ)弥(いよいよ)高まり、芳声(ほうせい)益(ますます)震(ふる)える故(ゆえ)に受業(じゅぎょう)する者(もの)勝計(しょうけい)す可(べ)から不(ず)と雖(いえど)も唯惜(ただお)しむらくは当時彼(とうじか)の妙術(みょうじゅつ)を嗣(つ)ぐ者無(ものなし)】 

 

夢想願流の名声はいよいよ高まり、ますます有名になり修行者は数えきれない程になったが、惜しい事にその妙術を継ぐ者はついに現れなかったと書いてある。

 

 

 

つまり流祖、松林左馬之助の後継者はいなかったととれるのである。

 

これは不思議な事でいくつもの謎が深まる記述である。

 

 

 

例えば謎の一つを挙げると、「なぜこれ程まで流祖の技量を受け継ぐ後継者がいなかった事が徹底して強調、周知されているのか。」という事である。

 

現代の武術界に例えると、一人のカリスマが生まれ、その死後に誰も正統後継者を名乗らなかった事になる。

 

普通は「我こそは正当だ。」とか「私がついにその神業を受け継いだ。」という弟子が現れ、多くの場合弟子同士で争いになる。

 

そういう事が無くても普通は皆独立してから師匠の動きや気配のマネをして道統を繋げて語り、道場経営をして社会的成功をはかっていくものである。

 

つまり夢想願流の道統が分派して続いていくものだ。

 

しかし夢想願立流剣術では、一様に「誰もその技を継げなかった。」という共通認識が明確に示されて、それがまかり通っている。

 

 

 

 

なのに夢想願流剣術は一応は明治まで伝承された。

 

その伝系は上記の系図に基づく。

 

しかしその明治まで伝わった夢想願流は、流祖の技ではなかった可能性が極めて高い事がわかった。

 

それは前述したように、この連載の本題である三つの伝書の共通点の解析から推察できるのである。

 

 

 弟子の中で一番の使い手だった阿部道是と、正統継承者の2世佐藤嘉兵衛

 

願立剣術物語には阿部道是が60歳を超えてようやく神髄を掴み、その技は疾風の如く、或いは堤を破って水が飛び出す如くに凄いものだと書いている。

 

しかしその前に「誰も百分の一も体得できなかった。」とも書いている。

 

つまり、おそらく弟子の中でも相当の使い手であったはずの阿部ですら、流祖の存命時にはその神髄を継げなかった多数のうちの一人とされているのである。

 

ましてや著書の服織孫四郎は年齢上流祖の動きを見ていないので、流祖の逸話や流儀の認識は師匠の阿部道是から聞き及んだものが大半のはずである。

 

つまり阿部自身が「だれも流祖の技を継げなかった。」と言っていた可能性も高い。

 

 

また南部藩士の服部孫四郎没後80年後に九世佐藤親章が仙台藩に提出した願立剣術の系譜には阿部道是の名前は無いのである。

 

かわりに2世に佐藤嘉兵衛という人がおり、これは阿部道是と同じく流祖松林佐馬之助の直々の弟子の可能性が高い。

 

流派の正統後継者の筈の佐藤嘉兵衛は伝書の序文には一切登場せず、阿部道是の名前は慶安の上覧演武の段で必ず名前が出てきており、今回紹介する全ての伝書に記載がある。

 

しかも阿部道是の弟子の中には(後述する予定だが)、後に名を成す著名な武術家もでている。

 

しかし正当伝承者の筈の佐藤嘉兵衛は、伝系図以外に名前が出ている資料がない。

 

 

序文には登場しないのに伝系図にはいる佐藤嘉兵衛と、伝系にはいないのに序文には必ず出て、レベルの高い弟子も輩出している阿部道是。

 

現在確認できる資料からは阿部道是が弟子の中では突出しているように思えるが、阿部道是とその弟子達は夢想願流の正統継承者の地位を得ていない。

 

一方で正統継承者のはずの佐藤嘉兵衛については、伝系図以外に記載が確認できる資料がないのが不思議である。

 

一説には松林家が宗家を継がなかったのは技が形骸化するのを恐れた為で、故に弟子の中で一番技の遣える佐藤嘉兵衛が継いだという話もあるらしいが、私は原典を確認できていない。

 

 

 五世、三徳流祖、鈴木一翁斎は2~3世と同世代で、しかも直接夢想願流を習ってはいない

 

 

また、後述するが五世の三徳流祖、鈴木一翁斎は第五世であるが世代的には恐らく阿部や服部と同時代の人で、しかも南部藩にその技を伝承しているのである。

 

つまり服部孫四郎が存命の間、同じ南部藩に願立流と三徳流の伝承者が同時にいたのである。

 

三徳流と願立流が同時に同じ遠野南部藩に存在したのに、服部没後80年後に仙台藩に提出された願立流の系譜には三徳流の鈴木一翁斎の名前が入っている。

 

そして後述するが鈴木一翁斎は夢想願流を習っていない可能性が高い。

 

こうなると9世の時代の願立流、および明治まで伝承が続いた夢想願立流剣術は、一体三徳流の技なのか願立流の技なのかだいぶ怪しくなってくる。

 

 

 

 

流祖の弟子だった阿部道是に学んだ服部孫四郎と、直接は夢想願流を習っていない鈴木一翁斎には立場に大分違いがある。

 

後述するが、それなのに服部と鈴木の序文の文章には一致する部分があり、どちらかが影響を受けたか、或いは共通の元ネタがあった可能性が高い。

 

 

このように分からない不思議な事がどんどん増えるのである。

 

 

 

 流祖の動きは凄かった

 

しかしここまでで、一つだけわかるのは、誰も松林左馬之助の技を継げなかったと言う事である。

 

つまり流祖である松林左馬之助の動きは眼に見えて凄かったと言う事である。

 

つまり、弟子の受けの忖度や技のモノマネで、継承した技術に説得力を持たせる事が出来なかったという事だ。

 

単独の動きが異質で、それを真似できなければ目に見える形で「誰も技を継げなかった」事が周知されるからである。

 

伊達家世臣伝記には、松林左馬之助の技をこう書いている。

 

「飛跳(ひちょう)の神速(しんそく)、排撃(はいげき)の変化(へんか)、蓋(けだし)し人力(じんりき)のよくする所(ところ)にあらず」と。

 

このような動きに比肩する実力を誰も弟子が示せなかったから、流祖の実力を継ぐ者がいなかったと伝書に明言されているのだと思われる。

 

 

 

 

それはその次の文章の共通点からもうかがえるのである。

 

 

 

 

続く