※この記事は私のプロフィールと過去の武術系の記事をご参照のうえ「こういう奴もいるんだな。」という感じで軽い気持ちでご覧ください。また独自のワードが出てくるので、そこも事前に武術系の記事をご参照ください。
 

 

 

続き

 

宮本武蔵と言えば、二度の対決で唯一武蔵に土を付けたと言われる神道夢想流杖術の開祖である夢想権之助がいます。

夢想権之助は今私が稽古している夢想願立流を創始した松林左馬助の師匠であったとも言われています。
 

私のトレースでは刀の独特の持ち方に共通点があるので、少なくとも同系統の武芸の流れのなかに位置するのではないかと思っています。

この剣の持ち方は「古墳時代最強の剣術」という条件でトレースした時の剣の持ち方とも共通していて、

 

右手で剣を持ち掌を上にして左手は手首を右手首につけ指先を下にむけるというもので、

 

以前日高見国の場所をトレースした時の位置と同じような場所で行われていたものでした。


 

常陸国風土記には今の茨城県の土浦市付近についての記述で「此の地は、本、日高見国なり」とあります。

私のトレースでは古墳時代最強格の剣の使い手がいた国は今のほぼ埼玉よりの伊勢崎市周辺(前調べた時は行田市周辺)であり、日高見国であると出ていたので、

恐らく、茨城に移動する前は埼玉に国があったのではないかと思います。

現在の香取神宮と常陸国風土記に記載のある日高見国のあった信太郡はかなり近いので、香取の地にその武芸も一緒に移動したのではないかと思います。

私のトレースでは日高見国のルーツを辿ると最終的に出雲、鳥取あたりに行きつきます。
 

そこから金沢、長野あたりを経て埼玉へきています。

 

(余談ですが、私のトレースでは日本と言う国号の元になったものと、日高見国は関係ないようです。

日本と言う国号に関わった重要な人達は今のロシアのほうから来た人達で、扶桑国という日本の別称とされる言葉がありますが、それ自体が元々ロシアのある地域で、そこの人達が朝鮮半島の高句麗、新羅側を通って来日して今の関西の人達と結託して日本と言う名称を根付かせたようです。)

 

 

そのような香取の武術の流れを汲む夢想権之助の技術ですが、

 

私のトレースした範囲ではどうも五尺の棒を使っていたようです。

 

使い方も今の神道夢想流杖術とはだいぶ違い、棒を回し打ち付けるような使い方をしていたようです。

 

特徴としては重心の位置をあまり持たず、端のほうをもって回している点が印象的でした。

 

 

 

 

また私のトレースでは宮本武蔵とは二度は戦っていないようです。

 

一度目の対戦では前述した独特の持ち方で剣を持って戦い、夢想権之助のほうから動き、左右から切り上げています。

 

それを左右の二刀で武蔵が受け止め、距離が詰まった所で権之助が左手を刀身に添えて下から切り上げ、それを武蔵が二刀で受け止め、さらに権之助がその手の形のまま切り返して上から切りつけた所を武蔵が左の刀で払い受けながら、右で権之助の左の肩口を内側から横方向に打って終わったようです。

 

そこからすぐに双方武器をしまい、姿を改めて礼をしています。

 

察するに割と友好的な木刀での試合だったように思われます。

 

(ここまで書くと流石に私がイカレてるんじゃないかと思われそうで不安になりますが、もう手遅れだろうし、そういう動きが出たのでしょうがないから一応書いておきました。軽い気持ちでお受け止めください。)