数珠が切れちゃった!
先日、拝む用に愛用している振り分け数珠が切れました。
コトホギのウツギです
ちなみに数珠師です。
これは直さないとなー、と思いながらふと、数珠が切れたってことはなんか不吉? と思い浮かんで気になって調べてみました。
割と日常で疑問が沸くとすぐ調べちゃう方です
数珠に限らず、身に着けているネックスレスだったり、ブレスレットだったり、愛用しているものを失くしてしまったり、切れてしまったりした時ってなんとなく不吉な気がすることが多かったりする気がしています。
やはり、「切れる」、ということにマイナスイメージを抱くんですかねー。
たまたま先日国会図書館で借りてきた書籍に面白い論文が載っていました。
私と同じように疑問になった方が詳しく数珠が切れた時の捉え方についてさかのぼって歴史を調べられたようです。
挙げられていた資料は、
「看聞日記」 永享八年のものです。
伏見宮貞成親王の日記からの抜粋のようで、神社に参拝した際、念珠の緒が切れて、それを「吉端」、もしくは「諸願成就是端」という記載があったとのこと。
これはつまり、数珠が切れたことが吉兆であり、願い事が叶う兆しだ、ととらえた事例ですね。
現在でいうと、ミサンガなどを思い出しました。
願掛けしていた場合、そういうイメージだったんでしょうか。
筆者はこの資料が親王によるものだったので、当時の中世社会では数珠が切れる=吉兆とされていたのではないか、と推測したみたいです。
この辺で私は、そもそも数珠って当時どれくらいの人が手にしていたのかしら?
と思ったのですが、その辺もまとめられていました。
日本の歴史で数珠が登場するのはどうやら奈良時代のあたりです。(正倉院に奈良時代の数珠があるそう)
銅像などを見てみると、鎌倉期以降に数珠を持つ像が多くなるとか。
このころに民衆にも数珠がいきわたり始めたみたいですね
ただ、当時の方たちはなかなか文献で数珠が切れた! 不吉! とか、吉兆! とかを書き残してらっしゃらないのか、それについては他に資料が見つからなかったです。
蛇足ですが、中世では、キリスト教もキリシタン数珠というものを布教を込めて民衆に配っていたらしく、この辺から、当時の人々にも数珠が普及していたのはうかがえます。
ただ、筆者はまとめとして高貴な方の日記にある記載は、当時の時流を推測できるので、民衆も同じような印象を持っていた可能性が高い、と言っていて、切れた、ということにどんな意味合いを持って吉兆としていたか、を推測されてました。
ちなみに、今現在インターネットなどで数珠が切れた! 不吉? みたいに調べると、結構な方がそのことについて言及しており、拝謁してますと、「不吉という見解もありますが、そんなことないですよー」という意見がほとんどでしたね。
どちらかというと、
・身代わりになってくれた
・悪縁を切ってくれた
・ただ単に時期だった
という感じです。
資料の方でも、この、悪縁を切ってくれた、ということは指摘されていました。
昔から縁切り寺などがあるように、切れた、新しい縁への始まりへの兆しというようなポジティブな考え方があったようです
ウツギとしましては、こちらの考えの方が好感が持てますねー
結局、切れた、という事象に対してどんな印象を抱くかは持ち主の方の自由というところがありますし、正直ケースバイケースでしょ、と思うところがあります。
何か危ないことが予見されて、それを知らせるために切れた、とかいう虫の知らせ的なこともありうるかもしれませんし、注目すべきは切れた時のシチュエーションかな、と思います。
しかし、よほどでない限り、切れた! どうしよう、不吉……っていう気持ちで沈んじゃうよりは、切れた! 悪いなんかを持って行ってくれたのかも、でいいかと思います。
イメージの力というのはすごい力を持っています。
どうせ引き寄せるのならば、良いことを引き寄せたいものですよね。
なので、貞成親王の、「念珠緒切了、是吉端」(数珠が切れちゃった! これは良いことが起こる兆し!!)という考え方を推します
ちなみに今回私の数珠が突然切れたのは、数珠についての歴史だったり、マメコラムをブログに書こうと思って国会図書館から資料を借りてきたのになかなか書かないので、ちょうどいいネタをお稲荷様がくれたんだなー、それで切れたんやわー、と捉えた私です。
というわけで書きました
そういえば、まんが日本昔話に「ものはおもいよう」という番組がありまして、今回書いたに似たことが語られますので、ご興味ある方は是非ご覧ください