季節は慌ただしく過ぎていく。


夫は相変わらず、自分が起きたいときに起き食べたいときに好きなものだけ食べ、家族の活動には参加せず楽しそうに暮らしている。

私が「頼み事をする」や「意見を言う」「相談する」などの何かアクションを起こさなければ「マイペースで一風変わった人」である。


私が何か頼まなければ無視されたり仕返しされたり、罵倒されたりはしない。

私が話しかけないので、子どもたちも相談や願い事は全て私にしてくる。

子どもたちは自分たちには害のない父である夫のことは、嫌いでななさそうだった。

 

そして、子どもたちの前で父親の悪口を私はほとんど言ったことがなかった。
うっかりこぼしてしまったことはあるが、それが悪影響にはなるものの良い影響にはならないような気がしていたからだ。

 

子どもたちを、幸せで真っ当な社会人にする。
それが私の目標となり、支えとなっていた。

 

ただ、夫がその様な態度である。
「お母さんは、具合が悪かろうと忙しかろうと年中くまなく働いて疲れている」
「お父さんは、それに関わらず呑気にしている」
がデフォルトであるから、子どもたちにおいても私への気遣いは少なかった。

 

私一人が馬車馬のように働いて、他の家族がテレビを見て笑っているということは普通の光景だった。
「手伝って。」と言っても、

「お父さんやってないじゃん。」

「いいよな〜、お母さんの仕事だもんな!」

やりたくなくても辛くても、放棄することは母親として我儘であるまじきことである。

 

そして、私が子どもたちに父親の悪口を言わない分、「疲れて不機嫌になって父と仲良くできない母」という構図が出来上がっていた。
夫とは、顔を合わせるのも匂いも辛かったが、
「お母さん、もっとお父さんと仲良くしてよ!」と言われることもあった。

 

子どもにさえ理解されない。
カサンドラは常に一人でいるより、厳しい消耗感と孤独の淵に立たされる。

限界を超えていたのだろう。
私はこの頃から次第に希死念慮を抱くようになり、とうとう精神科の戸をたたいた。
「適応障害」
医者にはとにかく休めと言われたが、休む暇などはどこにもない。

 

ただ一つの希望の光は、この時始めた事業だった。
需要のある分野だったのか、開室から10名ほどの生徒が集まり、1年で20人ほどの生徒を持つ「先生」となった。

 

こんな私に、もちろん彼は関心はない。
疲れて机で突っ伏していようが、自分のご飯さえあればそれを食べてさっさと2階へ上がるのである。

この頃は電気はつけっぱなし、洋服のままで起きて朝が始まることもしばしばだった。
しかしそれでも、ただ虐げられ自分や子どもに使えるお金が1円もない時代より、数百倍気持ちは明るかった。

 

講師アルバイトも掛け持ちした。
お金を貯めなければ。

 

幸い私は出会いに恵まれたようで、3年ほどで軌道に乗り、4年目には2店舗目を持つに至った。
子どもたちへの衣食住が充実し、月に1度程度の外食や文化的な体験などもさせられるようになった。
ここには、私を「能力が低い」などと貶す人間はいない。

子供たちが学校に行ったある日、私はいつもの薬局で生活に必要なものを買い揃えていたが、ふと化粧品の売り場で立ち止まった。

前回、口紅を買ったのはいつだろう?
目に映る口紅は、流行りの女優がつけている色だ。


手にとって見てみる。
鏡に映るのは日焼け止めしか塗っていない私の顔だが、試し塗りをした鮮やかな口紅は、私の顔の顔色をふわっと明るいものにした。

少し緊張しながら、自分用の財布からお金を出し口紅を買った。


結婚以来、ほぼほぼ初めて自分のものを買った。
帰り道、私は溢れる涙を止めることができなかった。

欲しいものは、自分で稼いで買えるのだ。
この事実は、私に大きな自信を与えてくれた。


私は頭も悪くないし、女として価値がないなんてもってのほかだ。
一歩外の世界に出れば、こんなにも私を認めてくれる人がいる

 

「ワタシハ・バカジャ・ナイ」

 

売り上げで言えば、この時すでに私は夫の月収を上回っていた。

私が忙しく生き生きとし出すと、彼は「ふん。主婦の小遣い稼ぎが。」と面白くなさそうにしていた。


洗濯物を私の目の前で落としたり、ゴミを見つけて拾っては私の前でため息をついたり、食器の洗い物を食事中の私の前に積み上げるなど、
小さな嫌がらせをしてきていたが、私は揺らいだりはしなかった。

 

自分なりにキレイにして出かけると、まだ30代そこそこの童顔な私はナンパされることもあった。
一番大切な人に大切にされていなかった私は、そういったことがあるたびに悲しくなったのだが、自己肯定感を上げるには十分だった。

 

「再生する」


私は心に誓うのである。