目がまわるような子育てが始まった。
ある日のこと。
18歳で家を出るまで社宅で育った彼は、「子育ては社宅でするもの」と私に相談なく社宅の申し込みをしてきた。
彼はいつもそうなのだ。
家族にとって重要なことは、勝手に決めてくる。
「どうして相談してくれなかったの?」などと言うと、彼は自分を守る姿勢に入る。
「話した。」「聞いてないだけ。」「耳悪いんじゃないの?」
攻撃姿勢に入ってしまい、話し合いはできない。
引っ越しには、実家の母が手伝いに来てくれた。
彼は、自分が暮らし慣れた環境に移ることで楽しそうだ。
もちろん、家族の引っ越し準備はしない。
段ボールに自分の荷物をささっと入れて、「できたよ。」と言うと、私たちの準備が終わるまで自室でゲームをするのである。
築40年、社宅は古く床がコンクリートの風呂場の3階だったと思う。
壁は、結露でカビだらけだった。
それでも、家族が暮らすことを前提として作られた建物は、人の暮らしに近かったと思う。
玄関を開けたらすぐに部屋があり、居間がオーディオ機器に支配された1DKよりもうんと広く部屋も多かった。
彼はそれまでの暮らしと同じように、6畳の居間の窓辺に自分のオーディオ機器を、採光を遮るように並べた。
「縦長のスペースは、横幅を使うのが正しい。」なのだそうである。
それも一理あるとは思うが、以前の1DKでも窓際に並べ、暗い穴蔵のような部屋で我慢したのである。
私は、彩光が欲しいから壁につけてもらえないかと話した。
しかし、こういう時私の願いを聞き入れたことはない。
子どものおむつを変えている間に、さっと配置をしてしまった。
日々、小さな無視と無理解が重なっていく。
私の努力と気遣いと、我慢の上に彼の幸せは成り立っている。
この頃、彼は意図的に帰宅時間を遅くしていた。
あまりに帰らないので、上司に「小さい子いるんだろう。早く帰れ」と言われても、
「大丈夫っす。嫁が全部やってるんで。」
と、話していたそうだ。
暗い部屋で、知らない土地で子供を2人育てていた。
たった1人で社会から遮断されて育てている私の気持ちに、彼が寄り添うことはない。
「母親にとって子供は全て。」という母親に育てられた彼は、それを信じて疑わないのである。
だが、それは間違っている。
人には人の、かけがえのない人生がある。
子供は頻繁に熱を出す。
夫は大抵、こういう日は「避難」しているのだが、ある夜上の子がひどい嘔吐と下痢で倒れた。
引きつけも起こしている。
下には完全母乳で4ヶ月の乳飲み子がいる。救急病院に行かなくてはいけない。
夫に電話する。出ない。
自宅の番号は、ナンバーディスプレイにでもして出ないようにしていたのかもしれない。
仕方なく同室の人に片っぱしから電話をかけた。出た!
緊急だから夫に繋いでくれというと、繋いでくれた。
めんどくさそうに対応する夫に、私は怒鳴った。
「今すぐ帰ってきて!」
私のいうことを聞くことを「負け」と考えている夫は、「はいはい。わかりました〜。」と軽口をたたき、ぐだりぐだりとタバコをふかしながら帰ってきた。
「ぐったりしていて意識も朦朧としている。緊急に連れて行って!」
すると、自分を指差し真顔で答える。
「え?それは母親の仕事だろー。下の子見てるから行って来ていいよ。」
「おっぱいまだ2時間おきだよ?」
「は?大丈夫だろ?」
彼は、自分が腑に堕ちないことは絶対にやらない。
自分以外の考えを、全く受け付けない。
こうなると、あとは何を言ってもシャットダウンである。
一刻を争う。
「すぐ帰って来るからね」と下の子にお乳を飲ませ、私は夫を睨みつけ社宅を飛び出した。
病院に着くと、点滴が始まる。
私の衣類は、子どもが吐いた物で汚れている。
新生児には、全身洗浄をしなければ触れられないであろう。
今頃、お腹を空かせて泣いているはずだ。
家に試供品のミルクはあったかもしれないが、夫には至難の業だろう。
結局、処置が終わったのは明け方だった。
帰宅すると、夫は居間で寝ていた。
「下の子は?」「ずっと寝てたよ。」
嘘をついている。
お腹を空かせて泣き疲れて寝てしまった顔は、げっそりしていてるのに涙で腫れ上がっていた。
おむつも換えていない。換えたことがないから分からないのだろう。
私の中で何かが切れた。
「は?嘘ついてるよね!脱水起こしてるでしょう!まだ母乳2時間3時間おきなんだよ?おっぱいあげられるの私だけでしょう?こんな乳幼児を置いて病院に行って来いなんて、どうかしてるんじゃないの?」
夫は、キョトンとしている。
「私は今ウイルス性の吐瀉物がかかっているから家族にさわれない。下の子に白湯あげておいて」と言って風呂に入ったが、そもそも彼は白湯がわからない。
白湯ってどうするんだ?と風呂のドアを何度も開けて聞きに来て、出来上がったら今度は寝て横になっている赤ん坊の口に突っ込んだらしく、泣き声と咳き込む音が聞こえてくる。
これでは、足手まといだ。
いつも通り全身の泡を流す間もなく、濡れたままで下の子の背中をさする。
戦争のような夜が終わり、落ち着いたのが朝の7時。
子どもたちに添い寝している、一睡もしていない私のそばで、彼が私に話しかけてきた。
「あのさぁ。いくら混乱してても、僕に『おかしいんじゃないの』って、あの言葉。すごく傷ついたんだけど。」
「あと僕のご飯は、どうしたらいい?」
私は、聞こえないふりをして目を閉じていた。