私たちは夫の希望で、新婚旅行をヨーロッパに行っている。
好きなことにとことん積極的な彼は、旅の準備に夢中である。
自分が学生時代に回った場所に、また行きたいのだという。

 

飛行機は窓側を陣取り、すごいはしゃぎようだ。
空港に着いてからも得意になっていろいろ話してくれるのだが「すごい」と言うと上機嫌である。
私のリアクションが悪ければ途端に不機嫌になり「高尚すぎて庶民には分からないか。」と、見下して自分を落ち着けるのである。

大きなカメラを友達に借りて街並みを撮って歩くが、「これは人を撮るためではないから」と宣言された。
だから、私たちは自分たちが映った写真は一枚もない。

 

彼は、写真を撮るために私にお構いなしに細い路地に入っていく。
ヨーロッパの街は表通りは綺麗だけれど、細い路地に入ると途端に怪しい雰囲気となり、汚いものや臭いものも度々踏みそうになる。
先に好きな場所にスタスタと行ってしまう彼に必死に着いていく途中、分からない言葉で男の人に絡まれそうになることもあった。

 

「ちょっと歩くの早いよ。男の人に絡まれたけど。」
「は?それ僕の責任?ボーッと歩いてたからじゃないの?今、無事でここにいるじゃん。」
「ゆっくり歩いて欲しいし、どこかにいく時には行って欲しいよ。」
「どうして僕が君の歩調に合わせなくてはいけないんだ?君が努力すべきだろう?」

 

2人で歩いていて、可愛い女の子がいると追いかけるのは相変わらずである。

私は「やめなよ、みっともない。」と不機嫌になるが、

「焼くなよ、君が一番だ」などと失礼なことを言う。

「男はそう言う生き物なんだ。」

私のお願いを、彼が聞くことはない。

 

後に子供の仕事をするようになる私は、彼と全く同じ発言をする子供に度々出会う。
一見尊大な発言に聞こえるので、度々周囲と軋轢を起こす。
自分が思ったことを状況をわきまえず話すので、顰蹙を買う。
そして、どんな場面でも決して自分を曲げないのでどんどん孤立していく。
その子たちを見て、私はただただモラハラだと思っていた彼の「発達」に問題があることに気づいていくのである。

 

宿泊したホテルでは、ビュッフェスタイルの食事は席につくなり食べ始めたり、おかわりがあれば私にとりに行かせようとした。
「おかわり持ってきて。」と笑顔で私の前に皿を置くのである。
流石に驚いて「私今食べてるでしょ。」と言うと、自分で持ってくると言うことにはならず、
「分かった!じゃあ、待ってるから早く食べ終わってね!」となるのである。

 

女性の家族は、自分の周りのケアを完璧にやってくれるもの。
そう刷り込まれて育った彼は、そこから考えを発展させる事ができないのである。

 

結婚した相手だから、理解し気遣いしなければいけない。
「結婚は我慢だ」と父に教えられていた。
しかし、それは全部ではないが間違っていたと思う。
結婚は歩み寄るものだ。
そしてどんな人も、家庭という社会の最小単位においては大切にされなければならない。

 

しかし、彼はその歩み寄りがなかった。
甘やかされ褒め称えられて育った生育環境による自己愛の強さもあっただろうが、先天的に人の心理を理解する事ができないのだ。
彼にとって私は一つの人格を持った人間ではなく、自分の人生にあるといいなと思った気に入ったパーツであったのだ。

 

「人の思い」に考えが及ばない。
それは、いい悪いとは別に冷淡な無関心につながっていく。
訴えれば訴えるほどに、突き放され突き離されるのである。

当時の私は、いわゆる社会的成功を収めている彼を尊敬していた。
意気揚々と夢を語る、縁あって夫となったこの人の力になりたいとも思っていた。
だから、私は次第に「こんなに自信満々に言うのなら、私の感覚がおかしいのかな。」というある種の洗脳状態に陥っていく。

気遣って無視され、消耗していく。
そのスパイラルに、私は落ちていくのである。