食事の時間が近づいてきた。
私は彼のお母さんのお手伝いをしながら、彼が子供の頃の話を聞いていた。


3歳までほとんど言葉を喋らなかったこと、突然3語分を話したこと、その時この子は天才かと思ったことなど。

私は、微笑ましい親子の様子を想像しながら幸せな気持ちになっていた。
自慢話も多かったと思うが、それはそれで愛が溢れていれば素晴らしいと思うのである。

 

彼は茶の間にただ寝転んでいた。
周りがどんなに騒々しくても、全く目を覚まさない。

 

食事の時間になった。
「呼んでもきたことがないのよねぇ。」とお母さんがいう彼だったが、その日は私の歓迎会ということでうとうとと起きてきた。

そして、席に着くなり幼児のように「これ、キライ。」というのである。


そして、「嫌いなもの」をぽんぽんと、他の人のお皿にどんどんと載せていくのである。
隣にいた私のお皿は、にんじんのかけらでいっぱいになってしまった。

びっくりして周りを見るが「人参は食べなくても死なないわよねぇ。」とお母さんはおっしゃるし、彼の行動について意見する人は1人もおらず、私はこの日以来彼が残したものを最後まで食べることになってしまった。

 

食事の時間は進んでゆく。
お母さんの手料理で「これ美味しいです。私も作ってみたいです。」という話になると、
「ふっ。ちゃんと学べよ。これは完全にコピーしないとだめなやつだからな。」と彼は言う。

この時に知るのだが、私に作って欲しいと言って細かい指示をして作らせる料理は、ほとんどがお母さんの得意料理だった。
そして、小さな違いがあると厳しい口調で、注意を受けた。
材料がなくて別のものが入ると「うわっ。気持ち悪い!」と手をつけなかったこともあった。

 

戦争中に少女時代を送ったお義母さんは、食べ物を残すのが一番嫌いと常々話していた。
しかし、お残しも息子は許すものの、私には許さなかった。
私は滞在中、彼の嫌いなものや残りご飯を食べる係として、最後まで食卓から離れることができなくなっていた。
好きなものだけ食べてさっさと食卓を離れてしまう彼の傍で、胃腸を壊して帰ることになるのである。

 

その日の夜のことである。

今度は、彼の弁論大会が始まった。
多くは、社会に対する不満と持論、である。
それらの話をじっと聞き続けるお母さんは、結局夜中の2時まで彼の話を聞いていたのではなかったかと思う。
「お母さんは頭が悪いから分からないけど、あなたは賢いわね。」と言いながら、微笑んでいた。
彼は構わず、ただ1人雄弁に語り続けていた。

 

これは厳しい。無理。
こんな育てられ方をした人とは、結婚できない。

それでなくても、私に対する気遣いはおろか優しい言葉の一つもない。
涼しい顔をして無視したり、やってもらったことに関しても感謝どころか水をかけるような発言を繰り返し、相手の間違いは執拗に指摘してくる。

 

小さなことだが、ものを取ってもらった時にお礼を言わないのも嫌いなところだった。
私の目をじっと見ながら、何も言わずにサッと手首を返して掠め取るようにするのである。

この帰省の後、私は何度めかの別れを切り出している。
しかし、彼の必死な引き止めがあり、立ち止まってしまう。


「子どもができにくい体」という負い目は、私の判断能力を鈍らせていた。

一般的には、変わり者だが仕事ぶりは優秀という認識の彼と、結婚へとなだれ込んでいくのである。