彼との交際は1年近くになっていた。
その間私は何度も彼の心無い言動に失望し、別れを切りだし、その度になだめすかされ、行き場を失っていた。

 

ある日の事である。
彼の職場のみんなと出かけようということになり、当時大学ゼミの司会を任されていた私は、時間に追われていた。
それでも、私を連れて行きたいという彼の申し出を尊重しようと、夜な夜な準備を済ませ急いで帰宅した。
全力だった。

 

しかし急いで帰宅すると、彼は自分が遅くなることを考え「遅い。お前置いていくから。」と留守電に残し出かけてしまっていた。

 

夜に彼から電話がかかってきて、楽しそうにその日の様子を話すのだが、私はとても聞く気にはなれない。
「俺がせっかく楽しいこと話しているのに、どうしてお前は不機嫌そうなんだ?」とキレ出すのである。
一生懸命何日もかけて調整したのにひどいよ、と言うと
はぁ‥と大きなため息をついて、
「それは自分の仕事の処理能力の低さや見込みの甘さだろう?自分の責任でそうなっているのに、どうしてそこで諦めがつかないんだ。『どこをどう考えてもお前が悪い』ぞ。」

 

そう、この『どう考えてもお前が悪い』。
こう言った、確信を持って人を貶める人いると、どんどん感覚がおかしくなるのである。
家庭でも恋人でもそうなのであろうが、第三者もいない空間においては発言力が大きいものが法律になってしまう。

現在のように離れた今は、それらが全てコントロールされていることにも気がつくが、おかしいおかしいと思いつつも「私がおかしいのかも知れない」という渦に巻き込まれていた。

 

彼は私を相当気に入っていた、と思う。
この時のように、たびたび彼のつながりのある場所に連れて行かれ、私を人に見せては彼は彼らと話し込み、私をポツンと放置していた。
移動する中で歩いているときにバランスを崩し転んでも、彼の友だち気遣ってくれたが、彼は話に夢中で遠くからちらっと見るだけだった。
「彼女に気遣いをするのは、みっともない。」だという。

 

「自分を愛せなければ人も愛せない。」
彼は当時よく、私に話していた。
だがこれは、自分はできるだけ自分以外のことはしたくない。
自分の労力、お金、一つも払いたくないということを言い換えたものである。
それが、恋人でも。家族でも子どもでも。
自己愛を貫くことを、体裁を整えて言い換えるのがとても得意な人だった。

 

しかし、見栄は張る。
友だちや、大好きな自身のお姉さんに対する祝儀や贈り物にも糸目をつけず、生活費が残り1万円の時もあった。
お金が足りない。

でもそれは、「やりくりできない私が悪い」。

疑いのない「お前が悪い」に支配されて判断力を徐々に失っていっていた私は、彼の故郷に連れて行かれることになる。