夏が過ぎようとしていた。

 

なだめすかされながら、子供っぽすぎる彼との関係は続いていた。
私との関係をかなり早い段階から公にした彼は、この頃には私の友だちや周囲に私を「嫁」と呼び、(私自身ははっきりとした言葉や態度は示さない)、外堀を埋め始めていた。

 

初めて会う人会う人に、
「ああ、〇〇さんの「嫁」。よその彼女を見ては小声で「勝った。」と言ってますよ。」と言われ、その幼稚な言動がとても恥ずかしかった。

 

ここで、私がどうしてこんなに屈辱的な思いをしながら、彼と決別しなかったか(できなかったのか)の理由の一つを、お話ししなくてはいけない。

 

現代とは違い、結婚する年齢において「クリスマスケーキ」などと差別的な言われ方が存在する時代である。
23歳がピーク、24歳はセーフ、25歳になると売れ残り、と言うもの。
前時代的な家庭で生まれ育った私は、そんな風潮も当たり前のように感じていた。

 

そして不運なことに、私は19歳の時に子宮の疾患のため、体の中にある赤ちゃんを産む機能を半分失っていた。
医者からは、妊娠できる可能性は通常の50%以下と言われていた。
現代でこそ子どもを持たない選択はあるが、人口維持のために2人以上、という言葉が当然のように語られる社会だった。

 

父親は、病気をした私に対し「まともに嫁に行ける体でなくなった」と悲しみ、母親は宗教的な場所に出入りするほど精神を参らせていた。
その姿を見て、私は自分をとても責めていたし、私に夢中になっている目の前にいる彼に違和感を感じていても、心がない人などあり得ない、きっと擦り寄っていけるだろうと思っていたのである。

 

明確には覚えていないが、早い段階で彼には「子供ができにくい体であること」を話していたと思う。
彼の答えは予想外であった。

「子どもはどっちでもいいし、できない方が都合がいい。」
「それでも、構わないよ。」と。

 

心に大きな負い目のある私は、この人と別れたらもう私をいいと言ってくれる人は現れないのかもしれない、という認知の歪みを起こしていた。

彼は、私が嬉し涙を流したと思っただろう。


そして同時に私はこの時、相手が有利に立てる賽(さい)を自ら渡してしまったのである。

この頃から彼は「つけない方が気持ちがいい」「〇〇し放題」と避妊もしなくなった。
(都合がいいって、そういう‥?)

 

後に彼は、逃げ回って逃げ回ってギリギリになって引っ張って連れて行った結婚の挨拶の時、私の両親の目の前で言うのである。

「傷モノでも全然構いませんよ。」
「優秀な遺伝子がもったいないので、浮気するかもしれませんけどね。」
「据え膳食わぬは、男の恥でしょう?」