アストラル体とメンタル体
アストラル体とメンタル体の関係 人が死ぬとどうなるのか。 まず、人のからだを構成しているところの肉体とそれよりも精妙な波動のアストラル体とそれよりさらに精妙な波動のメンタル体をつぎつぎと脱ぎ捨ててゆく。 アストラル体をなしているのはアストラル質料という材料である。それをとりまく環境がアストラル界である。 また、メンタル体をなしているのはメンタル質料という材料である。それをとりまく環境がメンタル界である。 人が肉体をまとって物質界で生活しているあいだは、肉体のほかにアストラル体とメンタル体をもっているが、そのときどきの精神状態に応じて、使用している体が異なる。 欲望のとりこになっていれば、アストラル質料でできているアストラル体を使っている。アストラル体は欲望や感情に反応しやすい。 一方、思考を働かすのは、メンタル質料によってできているメンタル体の機能である。 とはいえ、純粋に思考だけが働くということはまずない。必ず何らかの目的を成し遂げたい、あるものを手に入れたい、何かの恐れに衝き動かされるなど、欲望や感情と結びついて思考が働く。つまり、メンタル体はアストラル体に影響している。もちろん、その逆もあるわけであるけれど、メンタル体がアストラル体を支配できるためには、精神が発達していないといけない。 アストラル体とメンタル体が相互に関わり、ひとつのユニットをなしている部分、これをカーマ-マナス(欲望‐精神)と呼ぶ。このあたりについて、『神智学大要3メンタル体』にはつぎのような説明がある。 「マナスという言葉は梵語(サンスクリット)のマンmanから来ており、マンは「考える」という動詞の語源である。それはわれわれの内なる思考者であり、西欧では漠然と心と呼ぶ。。マナスは不滅の個我、真の「吾」である。しかし、この思考者であるマナス自体は高次元のメンタル界層、もっと正確に言えば、コーザル界層に上位する霊的存在なので、低次元の世界と直接に接触することはできない。そのため彼は自分自身から下位のマナスを突き出す。この下位マナスを「映し」とか、「影」とか「光線(レイ)」とかいろいろな呼び方をする。脳に働きかけ、脳の中で働くのはこの光線(レイ)である。(中略)地上生活を送っている間、カーマとマナスとは結びついており、よくカーマ-マナスとくっつけていわれる。すでに見てきたように、カーマは動物的、激情的な要素を提供し、下位精神はそれらを合理化してそれに知的機能(複数)をつけ加える。。カーマ-マナスのこの両者は生きている間中強く絡みあっているので別々に行動するということは滅多にない。なぜなら人間の想念で欲望の影響を受けていないものはほとんどないからである。カーマ-マナスは別に独立の体ではなく、マナスの下位の部分がカーマと絡(から)みあっただけである。マナスが外部の事物に関心を寄せている相(すがた)がカーマ-マナスである、といった方が適切であろう」(第六章「欲望-精神」より) また、人が発した欲望の想いや感情というのは、空中をさまよっていて、そのままエネルギーを保持している。この生き物のような存在が、欲望エレメンタルと呼ばれる存在である。 たとえば、人があるとき怒りの感情にとらわれ、それがさほど大きくは育たないうちにこれをコントロールできないでいると、またたくまにこのネガティブな感情が増大して敵意に変わり、激情となってその人の行為を支配し、もはや本人の意志からすれば望ましからぬ行為におよんで、敵意の対象を傷つけてしてしまうということが起きてくる。 この場合、本来は自分自身のものではない欲望エレメンタルが、本人の怒りの感情の波動をキャッチして雪崩れこむようにして外部から流入したために、こうした現象が起きたという説明ができる。欲望エレメンタル自体が自らを表現する場を見つけることで、その目的を果たしたわけだが、その目的とは人の欲望や感情のエネルギーを餌にしながら、それ自体の存続をはかることにある。 アストラル体の内部にもいくつかの層がある。それは低級な欲望を表現するアストラル質料の層から高級な感情を表現するアストラル質料の層まであり、何層かの亜層と呼ばれる層に分かれたものである。 ところで、欲望や感情と結びつかない思考はふつうはありえないと述べたが、思考を働かせる機能をもつメンタル体も、いくつもの亜層に分かれている。そして、下のほうの層はアストラル体の下の層に対応し、上のほうの高級なメンタル質料できた亜層は、高級なアストラル質料でできたアストラル体の上のほうの亜層と対応している。 したがって、人はカーマ-マナス(欲望‐精神)をより高級なレベルへと発達させることで、欲望エレメンタルによる望ましからぬ被影響性から自由になることができる。 ここはもう少し説明を要するところだろう。「人間の内部における下位マナスの働きは精神能力、知力、明敏、緻密となって現れ、比較、、理性、判断、想像その他の精神能力を含み、時にはいわゆる天才の域にまで達する。(真の天才とは高位マナスの閃きが下位意識の中に浸透した相である。ビンドニシャッドの中でもいわれているように、「まことマナスは純粋と不純との二重相なり。不純相は欲望の故にして、純粋相は欲望なきが故なり」である。天才は議論せず、直接に知る。その故に天才は高位マナスすなわち高我(エゴ)に属する」「自由意志は実は精神自体の中にあるものである。精神からこそ自由の感じや、人間は自分で自分自身を制御できるのだという智識、低級な性情がどんなに反抗し斗うと高級な性情はいずれは下級な性情を制御しうるのだという智識がやってくるのである。意識が、欲望(カーマ)ではなく精神(マナス)こそが自分であることに目覚めるや否や下級の性情は上級の性情の乗る馬となり、それはもはや「私」ではなくなる」「生から生へと続くたびごとに物質体すなわち肉体は次第に精神よりの衝撃の波動に微妙に同調するようになり、下位精神は粗雑なアストラル質料をますます必要としなくなる」(前掲書 同章) 話をもとにもどそう。人の死後、生前のその人の精神活動に応じた世界に行く。 人は死ぬと、まず肉体を脱ぎ捨て、次いでアストラル体、メンタル体と脱いでゆくといったが、それはアストラル界、メンタル界と移行してゆくことでもある。 ということは、生前、アストラル階層のしかも低い亜層での精神活動が生涯の精神活動の大部分を占めていた人なら、死後もメンタル界に行くことはできず、アストラル界にとどまり、そこで長く生活しなくてはならない。 それは完全に浄化されるまで続く。 一方、生前、比較的自我欲望の想いを超えた清らかな感情を抱き、崇高な思考を展開することの多かった人は、死後はアストラル界にとどまる時期は短くなるか、あるいはそのままメンタル界に直行することになる。 いわゆる天国とは、神智学では高位メンタル界をさす。それはデヴァチャンと呼ばれ、その住人はデヴァチャントと呼ばれる。 では、デヴァチャンとはどんなところなのか。そのことを見てゆくことにする。