私たちの人生を支配しているものとして、各々の人のもつ思考以上に感情がより重要な地位を占めていると言ったら、この意見をすんなりと受け入れられる人間は、そう多くないことでしょう。もうひとつ、私たちは自分がどんな集団に属していようが、その集団を覆い尽くしている感情と同調しており、それにともなって理性で物を考え、知性によって判断し、行動することなく、一生涯をその集団を支配する感情を超え出ることなく過ごしてしまうことになる、といったら、やはり自由であることを否定された気がして反発を覚えることでしょう。私は十分に独自の思考にもとづく考えをもち、集団からいつも距離を保ち、感情に曇らされることなく、知性的に判断し、行動できているはずである、というかもしれません。事実は違います。本当に自律的に物を考え、いかなる利害からも自由な立場で、決して感情に影響されず、理性にもとづいて判断し、知性的な行動選択を取れる人間など稀にしか存在しません。だからと言って、それが人間の本質であり、この状態を変えることは、永久に不可能だと言いたいわけではありません。むしろ、人間の進歩は、感情体と呼ばれるアストラル体を統御し、メンタル体(思考をつかさどる)をより高級な質料で充たし、アストラル体の低い欲望や感情と結びついた低位のメンタル体の思考(メンタル・エレメンタル)の影響を脱して、高位メンタル界(コ―ザル界)から降りてくる、純粋で清らかな真理や叡智にもとづく思考や直観を受け取れるよう、肉体、アストラル体、メンタル体を浄めてゆくときに起こるのであり、それは可能だという点をこそ強調したいのです。

 

 

 では、集団的な感情がいかにその集団に帰属する個人の精神活動を縛っているのかを見てみましょう。つぎの一節は、『神智学大要』第二巻アストラル体の中の第二五章「感情の支配」から、編者がすぐれた書として紹介する『平和と戦時における民衆』(マーティン・コンウェイ卿)の抜粋を、筆者がさらに引用するものです。「圧倒的に大多数の人々は、ある心理状態の群集すなわち同じ考え方、特に同じ感情の動き方をする人々の集団の中で育ち、生涯を通じてその集団に属する。(後略)」「そういう群集は思想によるのではなく、主として感情によって形造られ、また感情によって育っている。一個の群集にはあらゆる感情があるが、知性は何もない。それは感じはしうるが、考えることは何もできない。(中略)いったんこの群集の擒となったが最後、彼は一個の人間としての物を考える力、感ずる力を急激に失い、その群集と一つになり、その存続期間、見解、態度、偏見、その他これに類するものを共にする」「自分が今まで属していた集団と縁を切る勇気、あるいは力のあるものは滅多になく、圧倒的多数が一生涯その支配に甘んじているのが実情である」


 

 ところで、一口に感情と言っても様々な種類があります。編者はそこで、感情の分類が一覧できる表を掲げています。その資料の大元は『感情の科学』(バカヴァン・ダス著)と呼ばれる一書であり、編者は同書に示された諸原理を十分に研究することを読者に勧めています。それが重要である理由は、もろもろの欲望、感情、執着は結局、精神と意志を働かせることによってのみ完全にコントロールできるものだから、というものです。


 

 これによると、感情は大別して、敬服、愛情、仁慈と、恐れ、怒り、高慢または専制となります。前半は「もっと」という欲求をともなう快感から来ます。そして、ひきつけられる感じである「愛」にグループ化されます。後半は「より少なく」という欲求をともなう不快と苦痛から来る、拒絶と「嫌悪」にグループ化されます。

 


ホワイトスピリットの光


 

 さらに、感情発生の要因となった対象に対する関係によって、二つのグループに属する各々三つの感情が決まります。それは相手を自分より上であると認識しているのか、同等であると認識しているのか、下であると認識しているのかの違いによります。「愛」で言えば、高等(尊敬すべき者、大いなるものへの)―敬服、同等―愛情、下等(しばしば弱き者、小さき者への)―仁慈、「嫌悪」で言えば、高等(強大なものへの)―恐れ、同等―怒り、下等(劣っている、弱小であるとみなす者への)―高慢または専制がある。そして、さらにそれらの下には、それぞれ4種類から5種類の感情が属し、合計で27もの感情があります。

 


 ここで、私たちは現在、日本が直面している事態に関して、具体例を用いて、人間がいかに集団の中で感情による支配を受けやすいものであるのかを見ることができます。


 

 今年の三月十一日に東北地方を中心にM9.0の巨大地震とそれに続く津波による福島第一原発のメルトダウン、放射性物質の拡散という出来事を経験する以前は、原発について真剣に考えようとする人は多くありませんでした。しかし、この出来事を境に、そこはだいぶ変わってきているように見えます。問題は、この国の国民の一人ひとりが、どこまでこの経験が突きつける課題を真正面から受けとめ、集団的感情から完全に自由となって思考し得ているかということです。これまで、日本国内で原発に疑問をもち、あるいは反対すれば、「反核」運動のレッテルを貼られ、特別な人たちと見なされる傾向がありました。今となっては、少なくとも三月十一日以前よりは「共感」をもって迎えられることが多くなっていると思います。とはいえ、必ずしもその「共感」が、思想の共有となってはいない、と言えるのではないでしょうか。


 

 それまで、人々がこの問題をまともに取り上げなかったのも、自分の所属する仲間や職場などの集団から異質な考えの持ち主と見なされ、浮いた存在になることを恐れる心理が働いていたのではないでしょうか。原発は安全といわれて、半信半疑でも、あえてその真偽を追求しようとはしなかった背景には、電力供給がストップすると経済が停滞するという恐れがあったと思います。そして、原発事故が起こって、放射能汚染の実態が明らかとなるとともに、環境が生命の安全と健康を脅かす状況が出てくると、そこにまた恐れが生じました。これらの恐れは、いずれも理由を異にしながらも、集団に共通のものであり、恐怖というネガティブな感情が集団を支配している事実は何ら変わりないと言えます。

 

 一方、日本の人々には集団的感情としての政府や東電への怒りがあります。冗談じゃない、責任は国と東電にあるに決まっているじゃないかという意見があります。もし人がこうした意見による反応パターンに固まったままハートを閉ざしてしまうなら、高次の霊的な世界とのつながりが断たれます。その結果、直観により得られる叡智ではなく、情動や衝動が主導的となって、怒りを外の対象にぶつけ、非難を浴びせることでエネルギーを放出することになります。するともはや起きている事態を注意ぶかく観察し、それぞれの個人が考えぬいてゆこうとする態度から遠ざかります。この種の怒りが集団内の無意識領域にひろがってゆくときは、相手をまだ同等と見ていることでしょうが、やがて権力というものが自分たちよりも立場や力のうえで上であると、自分たちの弱さを認めた瞬間からそれは恐れや不安の感情に変わります。怒りは恐怖にも変わるということです。それはどちらも、反発と嫌悪というネガティブな感情であり、相手を同等と見るか、上と見るかで、コインの表裏のように簡単に変化するのです。いずれにしても、こうした集団的感情に捕えられた人は己自身の内面を顧みて理性的に思考することができなくなってしまいます。こうして自律的思考ができなくなった人間というのは、もはや情報操作や暴力による脅かしの前には、無力さと脆さとを晒さざるをえなくなってしまうわけです。

 

 作家の村上春樹氏が震災から三ヵ月後にスペインのカタルーニャでおこなったスピーチ(註1…リンク先を記事の終わりに紹介)で、世界唯一の被爆国の日本の国民は、核にたいしてノーと叫ぶべきだったし、原子力に頼るのをやめ、核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の中心課題とすべきだったと語っています。実際には効率優先の考えにより、日本は倫理や規範を軽んじて原発推進の道を選んでしまった。そのことの責任を改めてとるとともに、壊れた道路建物の再建だけでなく、損なわれた倫理や規範の再生をおこなってゆく必要がある。そして、言葉を専門とする職業的作家の進んで関われる領域もそこにあるのではないかと述べます。

 

 村上春樹氏は、二年前にエルサレムで行ったスピーチ(*註2…スピーチ全文が読めるページを記事の終わりに紹介)でも、システムという高い壁に向かって卵がぶつかるしかないとき、自分は常に卵の側に立つ人間なのだと述べています。

 最初にここの箇所を読んだ時、つまりこの記事を書いてアップした約八年前は、わたしは村上氏の発言に大いに感銘を受けたと書いているのですが、今ふたたび読んでみると(2019,8,12)、ある部分は共感するところもありながら、しかしあの「比喩に関しては、あきらかにより細やかな見方をしている自分がいるのに気づかされたのでした。つまり、「システムという高い壁と、そこに向かってぶつかるしかない卵」という構図の設定にひそむ感情が、わたしの魂に映ってきたのですが、その感情とは薄っすらとした敗北感と絶望感でした。上に掲げた感情の分類表に照らしてみると、まず対象にたいする感情の「質的1」については、愛か、嫌悪かという二分法にしたがっていますが、これは嫌悪ないし反発でしょう。相手はシステムという壁なのですから。

 しかも、「質的2」となると、この壁とは自分よりも強大な権力を象徴していますから、この相手を上(表では高等)と見るなら、恐れの感情があり、同等と見なすなら、怒りの感情があることになります。しかしいずれにせよ、ここでは愛あるコミュニケーションがそもそも成り立たない状況が前提にされている以上、わたしならば、卵は「魂」というよりも、壁にぶつかれば砕けてしまう殻もつぶれてしまう卵の黄身と卵白も、人間の「肉体(物質体)」の喩えにすぎず、敢えてここで自分が卵の側に立つと立場表明をしたろうかと考えさせられました。というのも、もしそういう選択をするとすれば、そこには少なくとも積極的な理由は考えられないし、そもそも「システムという高い壁に向かって卵がぶつかるしかない」と、ほかの可能性をあきらめ、これしかないといった唯一の場合を想定してしまう状況設定自体が、想像力の創造的な駆使にはならないと思うからです。いちばん言いたいことは、むしろ肉体や物質の次元を超えて霊の世界において永遠に輝く魂の超越性を信じつづけることで魂をうしなった無機的なシステムの支配するこの世界をも変えてゆけるという希望を見出すことであってみれば、やはりこの恐れと不安ないしは二元対立性を意識せざるをえない強調には違和感をおぼえてしまうというのが正直なところです。

 

 けれども、こういう発想も、じつは過去の人類の歴史や集団の信念からくるものかもしれません。だとすると、むしろここでは集団の感情から自由に思考し、表現する個の精神を育成してゆくことの難しさということを思い出させられます。わたしたちの想像力といっても、さまざまな階層がありますが、霊的に次元の高い世界と直結した、神智学でいえば、高位メンタル界とかコーザル界ということになりましょう。そうしたところから霊的直観をつうじて降りてきた理想に魂を浸透させることにより、その中心から輝いて周囲に放射される意識の光こそは、日本と地球社会を変革する際の希望であると思います。

 ですから、集団を支配し、その一員としての人間が理性的に思考することを停止させてしまう群集心理の犠牲となることから、私たちは自分自身を救出しなくてはなりません。

そのために、メンタル体が真理の領域とつながり、真理の祈りや清明で高い響きからなる言霊を同胞に、地球に、宇宙に捧げながら、アストラル体をきれいにし、統御してゆく必要があると言えます。  

今ほど、個として考えることの大切さが問われているときはないと思います。

 

(*註1)○村上春樹 Catalunya 2011

<font color="#0000ff" face="Arial">https://murakami-haruki-times.com/catalunyaprizeharukimurakamispeech/index.html</font>

 

(*註2)○村上春樹エルサレム賞スピーチ全文

 

<font color="#0000ff" face="Arial">https://www.kakiokosi.com/share/culture/89</font>