前回、想念形態には二種類あって、私利私欲などのない純粋な思考の場合にはメンタル界層のエレメンタル精髄(エッセンス)を材料(体)として想念形態をなし、欲望や激情などに支配された、欲望‐精神(カーママナス)の場合にはアストラル界層のエレメンタル精髄(エッセンス)を集めて想念形態をなすという話をしました。
 それらの想念形態は人エレメンタルと称して、メンタル体やアストラル体の発するインパルス(衝撃波)に容易に感応し、そのエネルギー振動を人工エレメンタル精髄の中に吸収します。すると、このエレメンタルは「生き物」のように振舞い始めます。つまり、執念や一つの考えによって生かされている存在となり、強烈な働きをする存在となるのです。
 これも最初は人がある書物とか場所とかについて考えるたびに、その人のメンタル体の質料が使われ、微小な像が造られて、当人の顔の前に浮かんでいる程度です。それらの像はメンタル視力のある人ならば、誰でも見えるといわれています。ところが、もっと執着の念が強くなってきて、ある一つの考えにとらわれたり、ある人のことをずっと思い続けたりするうちに、人工エレメンタルとして強大なエネルギーを増大させ始め、やがて独り歩きするかのように勝手に振舞い始めることになります。
 「生き霊」という言葉を聞いたことがあると思いますが、それを造り出した人の意志とは別に、独立した意志をもって行動し、また本能的に生き延びようとして、人間の思考や感情、欲望などのエネルギー源を求めて動き回る存在のことです。
 未熟な霊媒、霊眼者によって本物の生き物や人と間違えられるということが、しばしば起こります。
 気をつけなくてはいけないのは、こうした「生き物」と化した想念形態、つまり人工エレメンタルには、愛の力で守ってくれるものもありますが、むしろ多いのはマイナスのエネルギーである欲望‐精神から発したタイプで、この場合、私達のアストラル体の興奮にともなう振動とインパルスにより生ずるエネルギーを食べて、自らの寿命をながらえようとします。その結果、無意識であったり、不注意であれば、望ましからぬ感情や欲望を増幅させられてしまいます。これは、自分で自分の感情を激しくし、欲望を増大させたと思いがちですが、本当は影響を受けることを知らずに赦しているだけです。
 人工エレメンタルという名前のとおり、もともと人間が造った想念エネルギーでありながら、それが「生き物」としての独立性をおび、手に負えなくなることがあるのですから、目に見えない想いだからといって、決してあなどれません。
 想念のほうにしてみれば、生みの親である人間のエゴが、そのあまりの執着から一念を凝らし、執拗に注ぎ続けたエネルギーによって誕生した命です。しかも、親は子を生んだことに無自覚ともいえますから、無責任といえば、無責任です。 自らの命を守り育て、さらに保ち続けるため、無我夢中で栄養を与えてくれそうな欲望想念を求めて、誰彼かまわず喰らいついてゆかなくてはなりません。そして、こうした人工エレメンタルが、メンタル体やアストラル体に当たると、そこに蓄えているそれぞれのエネルギーを奪って、自分の体の中に移し入れてしまいます。
 そうした「生き物」や「生き霊」がそこらじゅうにさまよい、栄養源を探し求めているのです。といっても、彼らが感応できる質料が、メンタル体とアストラル体のそれぞれになければ、何ら影響されることは起きないことを知って、いつも自分の出している想念がどんな質なのか、その精粗に留意して、餌食にならないようにしたいものです。