どうして人間は死んでからすぐに高い世界に行かず、アストラル界という駅に途中下車するのでしょうか。それは、前にも述べたとおり、そこでしばらくの期間、生きている間に魂にくっつけてしまった欲望や積み重ねてきた激情などの悪しき習慣の感情想念などをきれいにするためです。
 それらの重荷をおろして軽くなってから、いわゆる低我は高我のほうに「撤収」されてゆきます。そして、魂の本住の地は、高位メンタル界であり、そこに低我の母体である高我がいます。
 高我が地上界に送り出した魂は、あたかもそれが投資であるかのように、「経験という利子」をつけて帰ってくることに期待しています。ここで利子といったのは、未開発の部分が開発され、それだけ魂が進化するという意味です。

 何が魂の高級か低級かを決定づけるのかというと、形ある物質的なものに関心の中心軸を置くか、それとも思想や精神の生活に関心の中心軸を置くかで、魂の高下が決まるのです。
 そして、アストラル界を構成するアストラル質料にも、低級なそれ、すなわち物体の周囲をくまどっている質料と、それにたいして、肉体の人間には通常は目に見えない、欲望や想念などを構成する、より希薄なアストラル質料によって構成されるアストラル質料の二つのタイプがあるのですが、ここはたいへんに重要な点ですから、よく覚えていてください。


 ところで、アストラル界層にとどまっている間、つまり死後の生活においては、アストラル界の住人は、低級なアストラル質料からしだいに高級なアストラル質料へと関心の軸を移してゆくことが、その目的からして望ましいといえます。
 なぜならば、先に述べておいたように、高我は自らをより進化させるため、魂を送り出して、物質界まで精妙な波動の界層より粗雑な波動の界層へと下降の旅をさせた後、こんどは物質界で低我が肉体生活を通して経験したことの中から得た知識や学びなどの、いわば経験的データをたずさえた魂が、再び粗雑な界層から精妙な界層へと、つまりエーテル、アストラル、メンタルと、上昇のプロセスを昇って戻ってくることになるからです。
 いったん、「撤収」が始まったなら、いつまでも肉体生活の記憶にしがみつき、粗い物質波動に近い、濃密なアストラル質料に固執していては、すみやかに高我の住むメンタル界層に帰れなくなってしまいます。


 実際に、著しく進化を遅らせる例を見てみましょう。死後の生活のことを、サンスクリット語では、カーマロカといいますが、カーマは、欲望、そしてロカは場所を意味します。すなわち、欲望の世界のことをいいます。ここには死んだ人間だけでなく、さまざまなタイプの生物や知的存在が住んでいます。そして、このカーマロカと、今わたしたちのいるこの世、つまり物質界とは、互いに浸透しあっているものの、両界層の質料が異なるために、別の言い方をすれば、その質料に対応する意識が異なるために、それぞれの世界の住人は、互いの存在を意識せずに共存していることになるわけです。それが証拠に、何かの異常な事態が起きたときや、あるいは普通人とは異なる霊的な能力者には、肉体界にありながら欲望世界の存在を感知できることがあります。

 また、他のアストラル界の部分と、このカーマロカの部分も明確に仕切られてはいなくて、同一の圏内でありながら、異なる意識状態によって、通常はそれぞれの住人同士が互いに出会うことはありません。


 では、カーマロカの住人の意識がどんなものかというと、それは肉体やエーテル体は脱ぎ捨ててはいるものの、依然として欲望や激情のしがらみを断ち切れていない人間の意識ということになります。 この状態を、サンスクリット語では、プレタロカと呼びます。プレタは、肉体は無くなっても、なお動物的性質という衣をまとい続けている人を意味します。このカーマロカは、アストラル界層の各亜層ごとに見出されます。

 これらのことは、つぎのことと深く関係しています。すなわち、多くの死者たちがアストラル界に移行した当初は、かなり不安な状態におかれ、なかには極度の恐怖を味わう者もいるという事情です。
 そうした不安や恐怖の原因は何でしょうか。それは、彼らが体験するものが、悪魔や憤怒と残酷の神との遭遇であったり、永久の懲罰の想念に出くわしたりすることから起きてくるものなのです。そのために気の毒なほどに恐怖に陥り、まったくの妄想から解放されるまでには相当な期間、精神的苦痛を味わわなくてはならないといわれています。
 これは、私たちでも想像するのがそんなに難しくないことでしょうけれど、自らが生前、あるいは何世紀にもわたって人類が造り上げてきた、想念形態のエネルギーを受け取らなくてはならない状況に遭遇するということであり、因縁因果の法則の内の話として、説明ができます。

 問題は、そうした体験に遭遇した際に、どういう態度でこれに立ち向かえばよいのかという点であり、ここは非常に大切な点でもあります。


 これに関して、神智学大要には、興味深いことに、プロテスタント社会に右記のような状況が見られるのにたいし、同じキリスト教でも、ローマ・カトリックの教えでは、こうしたことは起きないという報告があります。

 ローマ・カトリックの信徒の場合、死後自分がおかれた状態というのはほんの一時的なものであり、それも霊的な修行によってできるだけ早期にそこからぬけて、もっと上の界層へと昇ってゆくことが務めなのだと理解しているようです。したがって、アストラル界で受ける苦しみも、より高い、光明にみちた波動圏へと躍進してゆくためのステージであり、現在の自分自身の欠点を修正し、未熟な部分を伸ばすための必然的プロセスであると、はっきりとしたゴールを見定めたうえで積極的な捉え方をしています。

 ここから、本来の宗教は、人間の死後に待ち受けている、アストラル界での生き方を教えるべきであるのに、それをきちんと教えている宗教は稀であるとの指摘がなされます。


 話を戻すと、アストラル質料の低級なほうから高級なほうへと関心の中心を移してゆくことが、アストラル界においては魂の進化の方向にかなっているということでした。それと同様に、肉体を持って物質界で生活している間は、後半生に入ったら、単なる肉体的、具体的な事柄に関心の中心をおく度合いは、しだいに少なくなってゆくべきであるということを、『神智学大要』ではいっています。

 生前にアストラル界の実情に関して熟知している人間にとっての死後の生活は、飲食の煩わしさからも解放されて、安らぎに充たされたものとなります。そこでは人間は好きなことをして、どのように時間を過ごそうとも、まったくその人の自由であります。もちろん、ある程度、感情や欲望が浄化されることによって、はじめてそうした状態が可能になるのですが。
 結局は、死後の環境もやはり、生前の自分の想いと言葉と行為の結果が現実化しているにすぎないということを、本人はしだいに理解するようになります。