読書だけでは精神体は形成されない。
考えることのみがそれを形成する。
読書は思考の材料を提供するだけで、その点にだけ価値があるのである。
人間の精神的成長は読書の際に費やす思考の量に比例する。
規則正しい、永続的、ただし度を過さぬ練習によって思考力は増大する。それはちょうど筋肉の力が練習によって増大するようなものである。
そういう式の思考が行なわれないと、精神体は漠然とした、整わないものになってしまう。
(『神智学大要』第三巻メンタル体 第十三章 肉体(覚醒)意識 精神生活 p.122より)
これが本当なら、筋トレが肉体を強くする訓練だとすると、精神を強くするにもトレーニングが必要であることになります。
では、いったいどうしてそんなに思考力を鍛えることが大事なのでしょうか。
それは私たちのメンタル体というものが、外部からやってくる思考を無意識に受け入れてしまいやすいからです。
とくに低位メンタル体は、アストラル体の低次元の欲望や感情によって支配されやすく、そうなると、自らの主人になることができません。外部から侵入してきた想念が、しばしば恐怖や不安の感情、あるいは、欲望といったものを揺り動かし、そのためにあれこれと連鎖的に湧いてくる思考によって振り回されてしまうことになります。
こういうことがなぜ起きるのかについては、つぎのメカニズムによって理解できると思います。それは、アストラル体の欲望や感情のエネルギーは、常にメンタル体の思考と結びつくことで、その目的を果たそうとするということです。
感情や欲望という盲目的なエネルギーを何らかの方向づけられた行動に移す際の執行委員が思考の作用と考えてもよいと思います。
もちろん、これは思考が常に低次元の欲望や感情の目的をかなえる道具であり、奴隷であるということを意味しません。それらとは完全に切り離され、自律的に働ける高レベルの思考もあるからです。アストラル体の支配から自由なメンタル体を整えてゆくことで、それが可能になります。
ただ、それにはもう少し意識的になる必要があります。
大多数の人々はいかにして考えるべきを全く知らない。常人より少しは進歩している人でさえ、全面的注意を必要とする何らかの仕事、それもその一部に従事しているわずかの時間を除けば、明確にかつ強く考えることは稀である。従って大多数の人々の心は常に無為に過し、どんな想念の種子がその中に蒔かれてもすぐにこれを受け入れてしまう。(前掲書 p.120)
つまり、読書することさえもが、他人の思考を無批判に移植することになりがちです。あるいは、漠然とそのときどきの外部からの印象に心を占めさせ、しばし忘我状態になりがちです。じつは、これも無意識とはいえ、ある種の快楽に溺れさせることで、自己意識を麻痺させることを選んでいるともいえます。
とくに現代は情報化社会であり、情報が氾濫していますから、その分、しっかりとした思考力や判断力を養わないと、舫(もやい)の解かれた小舟が岸辺をはなれて、波間をどこへと知れずたゆたい漂流するような事態を不本意にも招いてしまいます。
それでは、どうすれば、こうした羅針盤を失って大海を頼りなくさまよう小舟のような生き方から自由になり、もっと自律性を保った生き方ができるのでしょうか。
これは、また次回に稿を譲ることにしましょう。