きのふは加藤先生と内野先生との晝食勉強會を市ヶ谷の私學會舘で行つた。
 基本的に『復活和歌創作講座』の【第一講座】で豫定してゐる「天皇祭祀」については、三回程に分けて行ふ事にした。
 今日から、本格的に『和歌創作講座』資料の完成に向けて取り組むつもりである。
 けふは「七夕の節供」になります。
 一應、昨年も擧げましたが七夕の節供の和歌について御紹介させて戴きます。
 
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《七夕の和歌の紹介》

『萬葉集』(七夕の和歌)
 
《山上憶良》 『萬葉集』巻八  1525
袖振らば見もかはしべく近けども
 渡るすべ無し秋にしあらねば

 【原文】袖振者 見毛可波之都倍久 雖近 度爲便無 秋西安良禰波
「見もかはしべく」…「見つめ合ふ事ができる」。
「すべ無し」…「方法がない」。
「秋にしあらねば」…「秋になつていないから」。
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 七夕の和歌では、『萬葉集』が一番多く残されてゐます。
 巻八の山上憶良の和歌を皮切りに百四十首ほどの七夕を詠つた和歌があります。
 特に、巻十には「詠み人知らず」の七夕の和歌が略ゝ百首もあり、萬葉人にとつてこの七月七日は特別な日であつたやうに思はれます。
 私が着目するのは、唐からの織女と彦星の傳説が傳はつて僅かな時間で日本人の心を捉へた事です。憶良が唐から歸國したのが、大寶四年(704)ですが、『萬葉集』の編纂が略ゝ終了したのが西暦760年以降としても僅か數十年で庶民に廣くこの七夕が浸透して居たことが分かります。
 ここに日本人の佳き文化を自ら採り入れるとてつもない早さを感じます。
 『萬葉集』の巻十にある和歌の總べては「詠み人知らず」として載せられてゐます。
 卽ち、名も無き庶民にまで浸透して七夕傳説を愉しんで居たといふ事が想像に難くありません。その傳播力こそ日本民族の誇りではないかと思ふのです。
 
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《間人宿禰(はしひとのすくね)  巻八1686
彦星のかざしの玉は妻戀ひに
  亂れにけらしこの川の瀬に

 【原文】孫星 頭刺玉之 嬬戀 亂祁良志 此川瀬爾
「かざしの玉は」…「髪飾りにしてゐる玉」。
「亂れにけらし」…「亂れてゐるのだらうか」
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《詠み人知らず》  巻十2000
 (柿本人麻呂之歌集に出づ)
天の川安の渡りに舟浮けて
 秋立つ待つと妹に告げこそ

 【原文】天漢 安渡丹 船浮而 秋立待等 妹告與具
「安の渡り」…「天の川の渡舟乗場」。
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《詠み人知らず》  巻十2065: 
足玉も手玉もゆらに織る服を
  君が御衣
(みけし)に縫ひもあへむかも
 【原文】足玉母 手珠毛由良爾 織旗乎 公之御衣爾 縫將堪可聞
「足玉も手玉も」…「足と手に巻く玉飾り」。
「ゆらに」…「ゆらゆらと」。
「御衣」…「貴方様の衣に」。
「縫ひもあへむかも」…「縫ひ上げてお着せできるだらうか」。
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《詠み人知らず》  巻十2064
いにしへゆ織りてし服(はた)をこの夕(ゆふべ)
  衣に縫ひて君待つ我れを
 【原文】古 織義之八多乎 此暮 衣縫而 君待吾乎