《獻歌》「昭和廿二年九月清水澄博士を偲んで詠ふ」
【原文】久迩雅羅乎韋野遲乎加計弖眞毛羅牟止
     五駕津三津加者裳廼廼富之靈

國柄を生命をかけて護らむと
  五月三日はものゝふの日

 ◇ ◇ ◇
 きのふは「占領基本法制定の日」といふ事で、私は日本國にとつて「屈辱の日」と考へてゐる日であります。

 本當は、この記事は昨日(5月3日)上げるつもりでしたが、京都から歸つて來てから體調を崩してしまつて一日遅れで記事を擧げさせて戴きます。
  この日は、本來の日本人の精神が失はれてしまつた「屈辱の日」と私が考へてゐる日であり、一日も早く憲法改正を實現しなければならぬと思ひを新たにする日ですので敢て載せさせて戴きます。
 けふは、世にいふ憲法記念日なる日であります。(私は記念日などとは思つてをりません!)
 戰後の洗脳教育によつて、殘念ながら憲法改正の道程は、なかなか進展せずにある現状ではないかと感じます。
 左翼勢力が錦の御旗のやうに掲げてゐた現憲法なる占領基本法に關して私は日本の骨格となるものであるとは到底認められないと思つてをります。
  
 私自身は、一貫として昔から言ひ續けてゐることは、
「占領基本法破棄!」
「大日本帝國憲法復活の後の憲法改正!」

といふことです。
 理由については、幾人かの有識者(渡部昇一先生など)が學問的な見地から述べてをられますので若し機會があつたならば一囘それらの情報も御讀みになつて下さい。
 敢て言ひますが、私は今の世に於ける、一切の戰爭を否定する現代の風潮には全く同意できません。(こんな事を言へば私は危險思想と思はれるでせうが) 
 特に、平和憲法などと譯の分からぬことを、聲高に叫んでゐる人達には、人間の品格すら疑ひを持たざるを得ないとまで思つてゐます。
 あれは、平和憲法などではなく占領基本法でしかありませんし、論理的にも倫理的にも破綻してゐるにも拘らず、戰後の間違つた學校敎育の中で洗脳されてしまつた大きな弊害の一つであると思つてゐます。 
 
 この五月三日の祝日には必ず思ひ出す人物が私にはあります。 
 それは清水澄博士といふ方です。


 淸水博士は、昭和二十二年九月二十五日、熱海の錦ヶ浦で投身自決されました。
 博士は、大正天皇、昭和天皇に御進講され、行政裁判所長官、枢密院顧問官を經て、敗戰後、最後の樞密院議長をお努めになられた享年80歳の憲法學者であります。
日本屈辱の日には、出來る事ならば多くの方々にこのお話を知つて戴きたくて又御紹介させて戴きます。
 なぜ、自決されたのか。
(私は、ここでは自殺といふ言葉を使ひません。清水先生は、現代でいふところの自殺ではなく、武士の切腹に當る自らを決せられた方であるからです。いはば武士を貫かれた「ものゝふ」と思つてゐるからです。)
 
 私は、この清水先生の擧を、三島由紀夫先生の市ヶ谷での自決と重ねてをります。
 三島先生は、「憲法に體當りをして死ぬ奴は居ないのか!!」と叫ばれて自決されました。
 清水先生は、三島先生の遡ること二十三年前。
 帝國憲法にたゞ一人殉死された憲法學者です。
 その經緯は次の通りです。
 
 當時、GHQの壓力に多くの變節學者や保身學者が多い中で忠君愛國の至情を貫かれた、淸水博士は國家の行く末を憂慮し護國の英靈となつて、この日本の國を未来永劫に護らんとされた赤心には一點の曇りもないと私には思へるのです。
 その遺書を皆さんにご紹介させていただきます。
 

*清水澄博士自決の辭
 
 
【自決ノ辭】
 
新日本憲法ノ發布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル團體及個人アリタリ其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ或ハ戰爭責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ。我國ノ將來ヲ考ヘ憂慮ノ至リニ堪ヘズ。併シ小生微力ニシテ之ガ對策ナシ。依テ自決シ幽界ヨリ我國體ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス。之小生ノ自決スル所以ナリ。而シテ自決ノ方法トシテ水死ヲ択ビタルハ楚ノ名臣屈原(くつげん)ニ倣ヒタルナリ。
 元枢密院議長 八十翁  清水澄 法學博士
 
昭和二十二年五月新憲法實施ノ日認ム
 
《追言》
 小生昭和九年以後進講(宮内省御用係トシテ十数年一週ニ二回又ハ一回)シタルコト従テ龍顔ヲ拜シタルコト夥敷ヲ以テ陛下ノ平和愛好ノ御性質ヲ熟知セリ。従テ戦争ヲ御賛成ナカリシコト明ナリ。
 
 
 斯くして、清水先生は帝國憲法に殉死されたのです。
 遺書にあるやうに支那の戰國時代、汨羅の淵に投身自決をした屈原(くつげん)の故事に倣ひ投身自決された赤誠は、武人の殉死に勝るとも劣らぬ壮絶さを感じます。
 これ以上は、胸が迫り書けません
 
 最後に一つだけ、現占領基本法(世に云ふ「日本国憲法」なるもの)を何としても私は破棄して、日本の國體を復活したいと心から願つて一日を過ごしたいと思つてゐます。