【明治天皇御製】 
  御題「卒業生」  (明治三十七年)
ものまなぶ窓をはなれていまよりは
  國のつとめにたたむとすらむ

「ものまなぶ窓」…「學校のこと」。
「たたむとすらむ」…「立とうとしてゐる」。
 ◇ ◇ ◇
 本日より卯月四月になります。四月は、日本では「門出」の月になります。
 私達にとつても重要な月と云へます。會社や學校が新年度となる「門出の月」になります。
 この年度替りが四月一日からとなつたのは、日本では明治十九年からになります。
 年度替りは國の會計年度が基となつてゐます。四月から會計新年度といふのは、世界で日本のみのことです。歐洲、支那は一月、米國は十月が會計年度初めとなつてゐます。
 この會計年度に合せて學校年度が始まり、亦企業なども學校年度に併せて入社式も行はれます。つまり、日本人にとつて「門出」の月がこの四月といふことになります。
 冒頭の歌は、明治天皇が卒業し社會に出でる學生を思はれてお作りになられたものです。
 ◇ ◇ ◇
 敎育者吉田松陰先生の眞骨頂を表はす甥の玉木彦輔が巢立つ時に贈つた和歌は門出の和歌として有名です。吉田松陰先生は、次のやうに詠じられます。
 
《吉田松陰》 
 「叔父玉木文之進の子へ贈答歌」
今日よりぞ幼心(をさなごころ)を打ち捨てて
  人と成りにし道を踏めかし

「幼心」…「幼稚な心」。
「人と成りにし」…「人間となるやうに」。
「踏めかし」…「踏んで行くのだ」。
 ◇ ◇ ◇

【日本最初の門出の和歌】
 そして、日本最初の「門出」の和歌は、須佐之男命が詠じられた出雲國に宮居を建てられて、その門出を詠はれた神話の時代に於ける日本最初の和歌でもある歌になります。
 
《須佐之男命》  (『古事記』)
八雲立つ出雲八重垣妻籠みに
  八重垣作るその八重垣を

【原文】
 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
「八雲起つ」…「雲が幾重にも幾重にも湧き起つて來る」。
「八重垣」…「幾重にも巡らせた垣」。
「妻籠みに」…「妻と共に住む爲の」。
【大御心を推し量る】
 このお歌は、八岐大蛇を退治した須佐之男命が出雲國に櫛名田姫と共に住まはれる殿居を作られた時のお歌になります。
 
【人生の門出の和歌】
 四月の門出に於ては、學生が社會人として人生の門出に踏み出す時に當ります。
 明治天皇御製に、當に門出を迎へる新社會人へのお歌がありましたので紹介します。
 
【明治天皇御製】
  御題「道」(明治四十年)
おのが身を修むる道は學ばなむ
 しづがなりはひ暇
(いとま)なくとも
「おのが身を」…「自分を」。
「學ばなむ」…「必ず學ぶ」。
「しづがなりはひ」…「己の生業。自分の仕事」。
 
《橘曙覧》 
 「そぞろに詠み出でたりける」(『君來艸』)
(はしご)たてていつかのぼらむ短山(みぢかやま)
  高山神(たかやまがみ)の坐(いま)すいほりに
「短山高山」…「高天原。天上界」。
「坐すいほり」…「いらつしゃる庵」。
 
《『道歌拾遺集』より》
 「題しらず」
千里(せんり)ゆく道もはじめは一歩(ひとあゆ)
 低きよりして高く登りつ

 
 道歌の中にこのやうな歌がありました。長き人生の一歩を踏み出す卒業生が社會人となるに當る心構えは橘曙覽の次の歌の心かも知れません。

【比叡山開山門出の和歌】
 少し變つたところでは、比叡山延暦寺は、その御創建は延暦七年(788)、最澄(傳敎大師)によつて比叡山に皇居の在る京都の鬼門封じを目的に建立されました。
 その建立の門出に作られた和歌になります。
《最澄》

 「比叡山中堂建立の時」 (『新古今集』1920)
阿耨多羅(あのくたら)三藐(さんみやく)三菩提(さんぼだい)の佛たち
 我が立つ杣
(そま)に冥加(みやうが)あらせたまへ
「阿耨多羅三藐三菩提」…「最上の智慧をもたれてをられる」。
「杣の」…「杣山(比叡山)」。
「冥加」…「神佛の恩惠」。
《歌意》
 最上の智慧を持たれる御佛達よ。我が入り立つこの杣山に冥加をお與へ下さい。