きのふは、假稱『やまとことばを學ぶ會』の準備會議を半蔵門のホテルで行つた。
 また、一昨日内野先生から萬葉防人の和歌集を完成させるやうに言はれたので、それにも取組んだ。
 ただ、一昨日から少し風邪氣味でこの時期だけしかしつかり休養を取れる時間がつくれないので、きのふは打合せ終了後夕方に歸宅して身體を休めるために就寝して、今朝はゆつくり起きた。
 けふもできるだけ休養に努めたいとも思つてゐる。
 ただ、毎年の事であるが、けふは三月三日「上巳の節供」であるので、それについての記事を擧げさせて戴く。
 
 ◇ ◇ ◇
 
 
日本の年中行事
 「上巳の節供」 1


【人日の節供(桃の節句】

【美智子上皇后陛下御歌】
 御題「春燈」  皇后陛下御誕辰御兼題  昭和六十年
春の燈(ひ)のゆるるお居間にこの宵を
 ひひなの如く君もいまさむ

 

「春燈」…「ぼんぼりのこと」。
「ゆるるお居間」…「ゆつくりと時間の過ぎる居間」。
「ひひなの如く」…「雛人形のやうに」。
「いまさむ」…「いらっしゃいます」。
 
 三月三日は、「雛祭」でありますが、「桃の節句」とも呼ばれます。そして、これは五節句行事の一「人日の節供」の異稱であります。
 現代に於ては「雛祭り」と呼ばれてゐます。
 この『雛祭り』は、現在の女の子の節句と云ふ形で定着したのは江戸時代になつてからになります。それまでは女性の節句といふことではなく、季節の變り目に行はれる「人日の節供」の御祓の儀式といふことで行はれて來ました。
 この節供は宮中祭祀であつたと言ふ記錄は、現在私の調べた限りでは見つかつてゐません。そして、宮中祭祀に於ては、この三月三日には、祭祀はありませんでした。
 宮中行事として行はれてゐた三月三日の節供行事としては、「曲水の宴」と云ふものが行はれてゐました。これについては後述します。
 さて三月三日の節供行事は三月三日のみならず、節供行事として年間で五節供行事が行はれてゐました。この「五節供」と云ふ支那の陰陽五行説に則つた行事は、江戸時代に德川幕府によつて定められたもので宮中行事ではなく武家行事といふことになります。
 德川幕府が定めた節句は次の通りです。
 
◇一月七日 … 人日(じんじつ)の節供  七草の節句
◇三月三日 … 上巳(じやうし)の節供  桃の節句
◇五月五日 … 端午(たんご)の節供  菖蒲の節句
◇七月七日 … 七夕(しちせき)の節供  七夕(たなばた)
◇九月九日 … 重陽(ちやうよう)の節供  菊の節句
 
 この内の三月三日の上巳の節句が、「雛祭り」の行事になります。
 更に附言すれば、巷間言はれてゐるやうに、支那文化がそのまゝ定着したといふ日本の雛祭り行事といふのは間違ひです。
 勿論、「節句行事」といふのは、支那からの傳來文化であることは確かです。前述の江戸時代から德川幕府によつて定められた五節句行事「上巳の節句」「端午の節句(五月五日)」「七夕の節句(七月七日)」「重陽の節句(九月九日)」等は支那から渡ってきた習慣が基礎となつてゐます。古代支那では3月の最初の「巳」の日に水で体を清め、宴会を催し厄を祓うという祭りがありました。
 しかし、同時期の日本に於ては本來季節の變り目に自らの穢れや邪氣を祓ふ節目の日といふ日本古來の重要な神祀り行事が行はれていて身體を淸め厄を祓う習慣がありました。
 この日本古來からあった人形に厄を移す風習などと混ざり合つての習慣と支那の節句の文化が入つた事によつて合體して始まつたものが「雛祭り行事」といへます。
 ◇ ◇ ◇
 
 
【節供について】
 節句は「節供」とも書かれます。それについて少しお話ししてみます。
 節供の「節」は季節の變り目を指してゐます。そして、「供」とは「御供へして食べること」を言ひます。卽ち、これは「旬の食文化」を表はしてゐると考へられます。
 季節の食物を神樣に御供へして、人々もご相伴させていただき、その収穫に感謝をしつつ、季節の變り目に流行する病ひを祓ふといふ習慣が「ひな祭り」といふお祀りともいへます。この「節供」といふ言葉を通して柳田国男は次のやうに述べてゐます。

「節句は節供が正しい」
        柳田国男著「年中行事覚書」(昭和30年)より
 節句というようなおかしな当て字が、普通になって来たのはそう古いことではない。
 江戸幕府の初期に、五節供というものをきめて、この日は必ず上長の家に、祝賀に行くべきものと定めたという話だが、その頃を境として、以前はたいてい皆 節供(せつく)と書いており、 節句と書く者はそれから段々多くなって来た。節供の供という字は供するもの、すなわち食物ということでもあった。今では 神供(じんく)とか 仏供(ぶつく)とか、上に奉るもののみに限るようになったが、もとの心持はこの漢字の構造が示すように、人が共々に同じ飲食を、同じ場においてたまわることまでを含んでいた。
 

「山磯遊び(三月三日)」
      柳田国男著「年中行事覚書」(昭和30年)より
 
 三月三日の節供の日に、終日外に出て楽しく飲み食いして遊ぶ風は、ほとんど全国の隅々にまで行き渡っている。東京の潮干狩などもその一つの変化というに過ぎない。前年私は対馬(つしま)の西北海岸づたいに、この盛んな磯遊びを見てあるいたが、女や子供が幾十組ともなく、手に手に重箱を下げてよい場所を見つけてあるく光景は、なごやかなものであった。それから尋ねて見ると九州一帯から瀬戸内海あたりも同様で、磯が遠ければ海の見える丘の上、または川の流れの辺りでも同じ遊びをする。奄美(あまみ)大島ではこれを浜下りといい、遠く離れて陸前の金華山近くでは磯祭、関東では単に子供の花見ともいうが、何れも日は三月の三日である。伊豆半島のある村では、女の児が雛壇ひなだんの前に集まって、ままごとをするのを磯遊びと呼んでいる。
 それから考えて行くと、雛の宵(よい)の可愛い飲食なども、本来はまた野外の楽しみを移したものらしく、しかも天龍川や相模川の川沿いで、この際に古雛を送り流し、また正月に墓所(はかしよ)に立てて置くタッシャ木という木ぎれを集めて、煮炊きの燃料としたというのを見れば、これは一つの定まった方式であって、単なる遊戯とは言われぬものであった。全体にこの日を気味の悪い、用心をしなければならぬ日のように、考える風はまだ残っている。家の中にじっとしておらぬ方がよいので、外へ出て日を暮すというのが元ではなかったかと思う。

 ◇ ◇ ◇

《雛祭り行事定着の歴史》

 さて、この「ひいな祭り」が日本に定着した歴史を辿つて參ります。
 支那からの儒敎傳來以前から日本では季節の變り目に御祓を行ひ、厄を祓ふといふ神道の考へ方が根付いてゐました。その一つのやり方として、人形に厄を移して自らの厄をとつて流してしまふといふ風習がありました。ここには、人形(ひいな)には女兒の穢れを祓ひ、健やかな成長を護つてくれる物とされてきました。
 この形は、平安時代になると、祈禱師(坊さん)を招(よ)んで祈りを捧げ、人形を撫でて厄を移し、供物を備へてお祓いをした人形(紙や草でつくった簡素なもの)を水に流すと云ふ行事となつて一般庶民にも浸透して、毎年行はれるやうになりました。
 これが現代にも傳はる「流し雛」になります。これ等の事は、平安時代の『枕草子』や日記文學に出てきます。
 更に、その頃には公卿などの上流階級の女の子の間で「ひいな遊び」といつて、紙で作つた人形と身の回りの品に似せて作つた玩具の調度品等の家財道具を使つた「ままごと遊び」が盛んに行はれてゐたといふ記錄もあります。
 平安時代の隨筆『枕草子』や『源氏物語』にもそのやうな場面が登場します。
 しかし、平安時代には、女子の節句と云ふはつきりとした概念はありませんでした。
 
 室町時代に於ても「上巳の節句」は、「女子のお祭」といふことではなく、厄祓いの行事として人形に厄を籠めて流すと云ふ行事として行はれてゐたやうです。
 それでも、室町時代には「上巳の節句」の厄祓い行事は3月3日にほぼ定まつてきて、禊ぎの行事として人形を流した「流し雛」が中心で續いてゐました。

「戰國時代に確立した女子の節供」
 「上巳の節句」と人形遊びと合はさつた現在のやうな雛祭の形になつたのが戰國時代になります。その一つの理由としては「武家の娘は雛人形に一生の災厄を背負つて貰ふ願ひ籠めて、嫁入り道具として持たせた」といふことがあります。ですから戰國時代に於て漸く「女子の節句」といふ形になつて來たと云へます。それでも當時の雛祭は、武士階層の行事としての意味合いの方が強いといへます。

 この戰亂の世が治まり、德川時代になると平安の世の中となり、武家を中心に行はれてゐた雛人形の意味と德川幕府によつて定められた五節句行事が合體して雛祭りが始まりました。この江戸時代初期の雛祭行事は公卿文化への武家の憧れもそこにはあつて武家がその要素を取り入られ定まつたのではないかと私は愚考してをります。
 そして、江戸文化として上巳の節句に於けるお祓ひの要素の強い「流し雛」ではなく、お人形を飾ると云ふ文化に變りました。その最初は、德川幕府の大奥に取り入れられたことに因ります。
 戰亂の世が落ち着き「ひいな祭り」が、幕府の大奥で始まるとともに、大名たちの上流階級への憧れからか、大名たちも擧つて「ひいな祭り」を行ふ事になります。
 これによつて女の子の初節句を雛人形を奉つてお祝するといふ形になつたのです。
 當初のお雛様人形は、内裏雛一對のみで、それにお供へ物をして祝ふといふ形でしたが、徐々に派手になり江戸時代中期には、現在のやうな段飾りの雛人形が出てきてゐます。
 これは、武家社會でお姫様が嫁ぐ時に、嫁入り調度品と全く同じミニチュアを雛人形と共に持つて行つたことから、お金持ちの商人達が同じ物を求めることから現在の段飾りが普及しました。
 當初は武家行事でしたが、次第に庶民に下りてゆき隆盛期を迎へます。一般庶民に愛されるやうになると、女子の初節句を祝ふといふ形に變遷したのでした。
 庶民の間でも3月3日が近くなるとあちこちにひな市が並び、流行を競い大變な賑はいを見せていたといふことです。
 京都文化の影響の強い西日本と江戸文化の影響が強い東日本では雛祭りの性格は大きく違ふやうです。
 西日本では、今でも「流し雛」と云ふ「上巳の節句」の祓ひといふ性格の強い行事が多く散見できます。それに比して東日本の方では流し雛をやつてゐる地方はあまりないやうに思ひます。また九州では獨特の雛祭り文化があります。
 有名なものとしては、大分県日田市の「天領日田市おひなまつり」が最もよく知られてゐますが、宮崎縣綾町の「綾のひな山」も素晴らしい雛祭り行事です。
 この九州地方の雛祭り行事については能く分かつてをりませんが、この二つの地域については、德川幕府の直轄の天領地であつた事が大きな要因と云へます。日田は天領、つまり江戸幕府の直轄地であり、華やかで裕福な町人文化が榮えた地になります。
 この地の舊家はそれぞれの家が代々素晴らしい雛人形を所有しており、ひなまつりの期間は、それを各家で一般公開し、鑑賞できるようになっています。
 この現在の雛祭の原型は江戸時代に始まつたと云へます。 
 その後明治以降になるとひな祭りは農村にまで普及し、現在に至る形になっています。

(次回に續く)