本日は、二月度宮内庁書陵部閲覧撮影作業に行かせて貰います。
 けふの豫定としては、『天皇實錄』では平安時代の陽成天皇と光孝天皇。
 その他に、『吉野朝天皇御製謹解』での資料として後醍醐天皇關係の資料である隱岐行在所關係、御陵圖等を閲覧させて戴く豫定にしてゐます。
 有難い事に、松屋さんが今囘もお手傳いして下さいますので、仕事はだいぶ捗るやうに思ひます。
 また、けふは京都の三上樣が出版された『第三の文化の時代へ~三上照夫』といふ御本を奉獻させて戴いて來る。
 更に、四月七日(日)に豫定してゐる復活『皇居東御苑觀櫻和歌の會』の開催會場の本丸跡芝生の下見調査も行つて來る豫定にしてゐる。
 今朝は、敬愛して已まぬ川田順先生の『戰國和歌集』に於ける前書きの一節が、私の心に甚く觀應しましたので御紹介させて戴きます。
 
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川田順編著『戰國和歌集』
 昭和十八年九月。甲鳥書林刊。
 

 「總論」   川田順
 
 我等日本國民は治亂いづれの世に在りても情操の美を失ひたることなし。短詩型に託して情緒を陳ぶることは、古今を一貫せる國民美風の一なり。
 干戈を職とし戰闘を事とする武人といへども、亦その例に違はず。武人と歌との因緣は建國の古にまで遡り、降りては大東亞戰爭の現今に及ぶ。大伴氏の言立「海ゆかば」より、昭和現時の將兵が前線に於ける吟詠に至るまで、時代によりて量の多と少と、技の巧と拙との差異こそあれ、未だ曾て武人の作が和歌史の表面より影を没し了りたることは無し。
 和歌の形式固定したる萬葉集以降に就き、右の事實を概觀せん。先づ萬葉集の作者を一瞥するに、壬申の功臣大伴御行(おほとものみゆき)を始めとし、旅人・家持の如きは光榮ある武門の統領なり。専門の武人出現したるは平安時代中葉の事にして源平両氏の祖先等を最初と考ふべきものなれば、その意味の武人を萬葉集に求むることは至難なれども、或は將軍・副將軍に補せられ、或は兵部卿・兵馬正に任ぜられたる者、或時は文に或時は武に文武両官を歴任せし者、この類の作者は集の中に擧げて數ふ可らず、防人が兵士なることは言ふもさらなり。平安偃武の世となりては久しく武人作者の聞ゆる者なかりしが、康平・寛治の間に八幡太郎の諷詠あらはれ、源平爭覇の時代に至りては両氏の歌人漸く多きこと保元・平治・平家・盛衰記などの證する所にして、遂には専門歌人としても第一流なる源三位頼政 の顯出せしを見るなり。鎌倉以後は此の趨勢益々いちじるし。源頼朝は和歌の愛好者にして其作が勅撰集に入り、源實朝は和歌史上の巨匠なり。從而(したがつて)、幕府の御家人にも歌人を輩出し、執權北條氏の一門亦槪ね斯道に關心せり。されば藤原定家撰の新勅撰集は實朝・泰時・重時・宇都宮頼綱等々「もののふ」の歌を多く採りたるため「宇治川集」の異名を以て揶揄せられき。室町時代の將軍家・管領家の人々はさらなり、幕臣・部將の間にも斯道流行し、文に淫して武を忘るる者さへあるに至りぬ。過猶不及とはこれを謂ふか。
新千載集に収められし細川和氏の詠に曰く、
 
 武士(もののふ)のこれや限りのをりをりも
   忘られざりし敷島の道
 
 
と。彼等は斯くまで和歌に執心したるなり。新勅撰集乃至新續古今集の十三代集(すなはち鎌倉初期乃至室町中葉の和歌)の作者を勅撰作者部類によりて檢(けみ)するに、武士及び武門出の人(初め武士にして後に僧となりし者など)の數は實に二百人を越えんとす。
 以上の如き趨勢は、本書の目的たる戰國時代(室町末葉乃至慶長初)に入りても衰ふることなく、この時代の英雄は通則として和歌を弄び、一首の歌も遺さざりし豪傑の方が希有の例外なるかの觀あり。連歌に至りては、これを弄ばざる武人は殆ど無しといふも可なり(連歌のことは本書の目的外に屬するゆゑ詳しくは述べす)。
 江戸時代の將軍家の人々も亦、多少に關はらず和歌を詠みたることは、文化十四年に近藤重蔵の編纂せし「富士之煙」を一讀しても明(あきら)けし。三百諸侯の中にも歌の作者少からずして、松平樂翁・水野忠邦の如きは著名なり。田安宗武は云ふに及ばず。幕末志士(多くは武士の浪人せし者)にして歌を遺したる者は、優に五百人に餘るべきか。日淸戰爭 の出征者に歌あり、日露戰爭の所産としては山櫻集・忠烈歌集などあり、日支事變以降の現時の聖戰に於いては前線將兵の作歌夥しく、鬱然たる大歌集を後世に貽すべきこと全く疑を容れず。武人と和歌との因緣、斯くして永久に斷絶すること無けん。