未だ體調戻らず。一昨日、京都から歸京させて戴いたが、今囘はいつも以上に疲勞感が酷くて、體調がよくない。京都から歸京すると大體はこんな感じだが、休養を身體が未だに求めてゐるやうだ。
 明日は、宮内庁書陵部での閲覧撮影作業をする豫定を入れてゐるので、集中する爲にも今日中にできるだけ體調を戻しておきたい。
 今囘の京都での『先代舊事本紀勉強會』に於て『詠歌本紀』に於ける御歌の中で、「甘美眞道神」の御歌の解釋がどうしても出來ずに二十三日の勉強會に臨んだ。
 今囘の京都での『先代舊事本紀勉強會』は、神武天皇建國の道程に於ける陪臣の御歌の勉強をさせて戴いた。
 一首目が記紀に於ける「高倉下(天隱山大神)」と「道臣命」そして「甘美眞道神」といふ三首の御歌の勉強を行つた。
 その三首の中に於て「甘美眞道神」の御歌についてが、どうしても御名を調べたが見つからず、その「東征」といふ語にも橿原宮創建以降にその事實はなく、時系列的に神武天皇の御業績にはないことを詠はれてゐたので解釋できずに苦しんで居たのを、勉強會で新たな觀點を塚田さんより指摘して戴いて解する事ができた。
 その邊りについて御紹介させて戴く。
 
 ◇ ◇ ◇
 
《其廿二》 
 (國立公文書館『詠歌本紀』巻六十一)47 p
 
 この甘美眞道神については、調べても分かりませんでした。
 どのやうな神であるのか、ご存じの方は敎へて欲しいと思ひます。
 この和歌は、神武天皇が橿原宮にて治政を行はれてゐる時期の詠歌に思はれます。
 「東征」といふ語があるのですが、東國への征伐と譯すのかも知れないが、
 東は果して東國なのかによつてもこの詠歌の謹解を難しくしてゐます。

  橿原宮御宇天皇治中國而遣甘美眞道神東征

  至出津國依神誨轉軍塞征平服歸洛謠之述治
「甘美眞道神」
天離焉東征爲而出津之山山之姫神事誨爲而
時于要事者遂矣諸非時爲者不能功者盡者
忌然功然讓底幸旦此神者賢旦

神底塞征爲塞治爲而還朝底只
    是後安五七平製之體也。

「橿原宮御宇天皇」…「神武天皇」。
「治中國」…「中つ國を治めて」。
「甘美眞道神」…「不明」。
「東征爲」…「東(ひむがし)の國を征伐して」。
「出津國」…「不明・出雲國か伊豆國。東だから伊豆か」
「依神誨」…「神の誨へにより」。
「轉軍塞征」…「軍を轉じて塞征し」。
「平服歸洛」…「平服ひ歸洛り」。
「天離焉」…「(ひな)(向ふ)の枕詞」。
「出津山」…「不明(伊豆の山)」。
「山の姫神」…「不明。(美夜受比賣又は弟橘姫)」。
「事誨爲而」…「事を誨へして」。
 
 ◇ ◇ ◇
【『先代舊事本紀勉強會』で分つたところ】
 
※「甘美眞道神」は、當初は詞書に「橿原宮御宇天皇治中國而遣甘美眞道神東征」とあつたので神武天皇の御代の出來事と思ひ込んでゐたが、それが間違ひであつた事が今囘の『先代舊事本紀勉強會』で分つた。
 「橿原宮御宇天皇が中つ國治めて」とあつたので、神武天皇が橿原宮にて建國を行つて後のお話と考へたのであるが、どうしても甘美眞道神については、調べても見つけられずに苦しんだ。更に、『詠歌本紀』が時系列で和歌を載せていないと云ふ事に氣付かずに解釋を出來ずにゐたが、この先入観を塚田さんからの指摘で外したら漸く解釋できるやうになつた。
 「甘美眞道神」は、「日本武尊」の事であり、「出津の國」とは、「伊豆の國」の事であらうといふ事でした。
 來月に改めて解説をし直してもう一度勉強したいと思つてゐます。