《賀茂末鷹(かものすゑたか)》
江戸時代後期。上賀茂神社の神職の子。國學者・歌人。
大日本(おほやまと)神代ゆかけてつたへつる
雄々しき道ぞたゆみあらすな
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「神代ゆ」… 「神代から」。
「つたへつる」… 「傳へて來た」。
「たゆみあらすな」… 「絶えさせたり弛ませてはならない」。
《歌意》
この和歌は、紀元節に當り自らに言ひ聞かせて、先人の方々の御辛苦によつて營營脈脈と發展してきたこの日本の國を更に歴史を紡いで行かうといふ懷ひが生まれてくる和歌と思へてなりません
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《たゆみあらすな》
靑字にした語が「弓」の緣語です。
「たゆみ」「あらすな」共に、掛詞になります。
「たゆみ」は「絶やしてはならない」と「弛ませてはならない」を掛けてあり、「あらすな」には「有つてはならない」と「荒らしてはならない」といふ意味を掛けてあります。
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本日は『紀元節』になります。けさは神前に手を合せこの天皇國日本の悠久を禱らせて戴きました。
午後三時より永田町の星陵會舘にて齋行される『紀元節奉祝式典』に参列させて戴き、この國の彌榮を祈念させて戴きたいと思つてゐます。
その前に、加藤先生と松屋さんとの晝食勉強會を行つて合流して式典に参加させて戴くつもりです。
けふは、神武天皇『建國の詔』に於ける最も重要な建國理念『八紘爲宇』について御紹介したいと思つてゐます。
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《「八紘爲宇」とは》
草稿 小林隆(拙稿『大和魂の一考察』より)
「建國の詔」に於ける、我が國の國家理想は「八紘爲宇」といふ事であります。これが「大和魂」の推進力となつて吾等の祖先は國家を運營されてこられたといふことなのです。
「八紘爲宇」とは、如何なるものであるのかを述べてゆきます。その意は、「地球上存在する總べての生命は一つの家族になりませう」といふことです。
「八紘」とは「總べての方向」を意味し「世界全體つまり地球上」といふ事になります。この『八紘爲宇』は神武天皇が橿原の宮に於て建國宣言された詔に出て來る言葉であります。つまり、「日本建國に於ける理想」なのです。
唯だ、最近世に流布されてゐる「八紘一宇」といふ言葉ですが、本來の言葉は「八紘爲宇」になります。この「八紘一宇」といふ言葉は、建國理念的には不完全であると考えてをります。「八紘一宇」といふ言葉は、「建國の詔」にある「兼六合以開都,掩八紘而爲宇」といふ語をもとに日蓮宗國柱會の田中智學が日本的な世界統一の原理として明治36年(1903)に造語したとされてゐます。
さて、『八紘爲宇』といふ語は、日本民族に於ける行動指針の基となつたのであります。それが爲に、自らの國がその先魁となる國家としての範たらんと私達の祖先は歴史を紡いできたといへます。この「八紘爲宇」の實現は、決して力に據るものではないのです。
日本の三千年近くに於ける國史上武力のみの浸潤は、私の知る限りでは一度だけでした。桃山時代の豐臣秀吉による大陸討伐(これは朝鮮征伐ではありません。秀吉は眞面目に明國をも征伐する構想を持つてゐました)のみで、この「八紘爲宇」の理想實現に力を用ゐたのはこれのみでした。「八紘爲宇」は、家族となるのが目的なのです。あの大東亞戰爭でアジア諸國を解放した後の統治にもそれが表はれてゐます。
これを現代に置き換へたならば、この地球上の總ての人々が國家、民族の枠を取拂つて、互に魂の兄弟として一つとなり、睦み合ひ、總べての國々によつて世界連邦の都をつくり共存共榮してゆかうといふものです。
今から三千年近く前に我らが祖先はこのやうな理想を持つてゐたのです。この事實を知つた外國の識者は驚嘆してゐます。例えば、アメリカのエール大学教授であったパール・S・ピース博士は国連が發足した時に次のやうに述べています。
「人類は五千年の歴史と、二度の世界大戦の惨禍を経験した結果、「一つの世界」を理想とする国連憲章を結んだが、日本の建国者は二千年も前の建国当初に、世界一家の理想(八紘一宇)を述べている。これは人類文化史上注目する発言であろう」(「日本古典の精神」より)
私達の國は、人類のみならず一切の生命を家族として互ひに扶け合ひ生きて行かうとして歴史を紡いできたのです。この建國の思想が八百萬神思想になるのは當然の事であります。そして、その實踐を歴代天皇はされてこられました。この思想が「大和魂」の發露の推進力となつてきたのです。この『八紘爲宇』について、何故意味をねじ曲げられたかと言えば、昭和二十年十二月十五日、GHQによる通達から始まります。
「公文書二於テ『大東亞戦争』『八紘一宇』ナル用語乃至ソノ他ノ用語ニシテ、日本語トシテソノ意味ノ連想ガ、國家神道、軍國主義、過激ナル國家主義ト切リ離シ得ザルモノハ、之ヲ使用スルコトヲ禁止スル。而シテカカル用語ノ即刻ノ停止ヲ命令スル」(『日本政府に対するGHQの覚書』神道指令㈠・ヌ)
このやうな公文書でマッカーサーは日本に命令を出しました。これが、『八紘爲宇』や『神道』が軍國主義であるといふことになつてしまつた原點なのです。しかし、東京裁判に於てはそれが否定されます。
『八紘爲宇』といふ考え方を連合軍は何とか軍國主義と結びつけやうとしたのでしたが、その判決では次のやうにするのが精一杯でした。
(東京裁判・判決B部第四章・軍部による日本支配と戦争準備序論より)
「日本帝國の建國の時期は、西暦紀元前六百六十年であるといはれてゐる。日本の歴史家は、初代の天皇である神武天皇によるといはれる詔勅が、其時に發布されたといつてゐる。この文書の中に、時の立つにつれて多くの神秘的な思想と解釋が附け加えられたところの二つの古典的な成句が現はれてゐる。一つは統治者のもとに世界の隅々までも結合するということ、叉は世界を一つの家族とするといふことを意味した『八紘一宇』である。これが帝國建設の理想とせられたものであつた。この傅統的な文意は、究極的には全世界に普及する運命を持つた人道の普遍的な原理以上の何ものでもなかった。もう一つの第二の原則として『皇道』の原理であつて、文字通りにいへば「皇道一體」を意味した古い成句の略語であつた。これは『八紘一宇』を具現する道は、天皇の仁慈に満ちた統治によるものでなければならず、その道は『皇道』は徳の概念、行爲の準則であつた。從つて『八紘一宇』は道徳上の目標であり、天皇に對する忠義は、其の目標に達する爲の道であつた。これら二つの理念は、明治維新の後に、再び皇室と結びつけられ、一八七一年(明治四年)に發布された勅語の中で明治天皇はこれらの理念を宣言した。當時これらの理念は國家組織の結集點を表現したものであり、日本國民の愛國心への呼び掛けともなつた。」
この「八紘爲宇」の精神こそ、我が國に於ける理想であり、そして、この理想は「大和魂」に於ける根幹に存在し、その發露に於ける大きな原動力となつて居るのです。この理想あればこそ、強固な揺るぎない國民精神が育まれ、一騎當千のの働きを成せると云ふことになるのであります。
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【建國祝賀歌】
《楫取魚彦(かとりなひこ)》
江戸時代中期の國學者・歌人。賀茂眞淵の弟子。
すめ神の天降(あも)りましける日向(ひむか)なる
高千穗の嶽(だけ)やまづ霞むらむ
「天降りましける」とは天孫降臨の故事のことになります。
「日向なる」… 「日向國( 今の宮崎縣)」。
「高千穗の嶽」… 「天孫降臨の地高千穗峰」。
《歌意》初句の「すめ神」は「皇神」で天孫邇邇藝命(ににぎのみこと)のことになります。
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【鹿持雅澄】
江戸時代幕末期 「萬葉集古義」の著者。土佐藩の人
大君の宮(みや)敷きましし橿原の
うねびの山の古(いにしへ)おもほゆ
「宮敷きましし」…「(皇居を建設された)といふことです」。
「うねびの山の古」…「神武天皇の建國宣言が畝傍山で行はれたこと」。
《歌意》
「大君の宮敷きましし」の「大君」は、「神武天皇」のことになります。
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《川田順》『神武天皇聖蹟歌』
「序歌」 (昭和十六年發表)
「畝傍山(うねびやま)東北陵に拜跪(はいき)して」
橿原のひじりの御代(みよ)は終りぬと
哭(な)きいさちけむ蒼生(たみ)の聲聞こゆ
「橿原のひじり」… 「神武天皇」。
「哭きいさちけむ」… 「泣き叫んでゐる」。
「蒼生の聲」… 「遙か古よりこの國を築いて來た心有る方々の聲」。
【解説】
川田順先生は、近代短歌の中の歌人で唯一私が尊敬してやまぬ存在になります。
第四句の「哭きいさちけむ」といふ表現に私は衝撃を受けました。この初出は『古事記』に於て、須佐之男命が母伊邪那美命が戀ひしいと泣き叫んでゐた時に出て來た表現です。この時、河海は悉く泣き乾して、靑山を枯山にし、狭蠅なす惡しき神々によつて萬づの禍が起つたといふ程の激しい慟哭でした。「蒼生」は、一般的には「國民」を表はす語になりますが、こゝでは此の國を築いてきた先人の方々を表はしてゐると思ひます。
「神宮南方の築坂邑(つきさかむら)にて道臣命(みちおみのみこと)を憶ふ」
今の世に臣(おみ)は多けど嶮(けは)しきを
蹈み析(せ)き往かむますらをや誰(た)れ
「臣は多けど」… 「臣下は多いけれども」。
「蹈み析き」… 「蹈み割つて」。
「ますらを」… 「益荒雄・勇者」。
※當に現代の私達に問ひ掛けてゐる和歌ではないでせうか。