きのふ迄に、『和歌創作講座』についての資料制作の大略はできたが、けふから加筆削除修正を行つてゆく。また、昨日から漸く京都三上邸『先代舊事本紀勉強會』『詠歌本紀』資料の作成に着手できた。
 夕食は、内野先生との勉強會を兼て市ヶ谷の中国飯店で行はせて戴いた。
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 さて、本日は、「成人の日」といふ祝日ですが、成人式の由緣や歷史について本來の成人式とは如何なるものかといふことを書かせて戴きます。
 
 
【成人の日について】
 
 この今上陛下の「加冠の儀」卽ち「成年式」とは、民間で言ふところの「元服式」に當ります。
 「元服」は公家と武家で行はれた通過儀禮であり、「褌祝」は民間で行はれてゐたものになります。公家に於ては堂上家以上の家柄の元服では冠を、地下家の元服では烏帽子を付ける儀式儀禮になります。この堂上家の冠を付ける儀式を「加冠の儀」といひます。また、武家に於ては、月代を剃り烏帽子を付ける儀式が行はれてゐました。
 その元服の最古の記錄は『聖德太子傳曆』に「十九歳にして崇峻天皇の朝に冠し給ふ」とあるのが「加冠の儀」つまり「元服」の最初になります。
 また、「元服」といふ語の初出は、奈良時代で『續日本紀』の「和銅七年聖武天皇皇太子にして元服を加へ給ひし」とあるのが始であるといはれてゐます。
 冠禮としての最古の記錄としては天武天皇十一年(682)に規定された日本初めての律令で定められた「結髪加冠の制」によります。
 また、『續日本紀』に和銅七年(714)聖武天皇が十四歳で元服を行はれたといふ記述があります。
 そして、明治時代に編纂された『古事類苑』には次のやうに記述されてゐます。
 
「元服トハ、男子頭首に加フルニ冠ヲ以テスルコトニテ、元トハ頭首ヲ謂イ、服トハ冠ヲ指ス、蓋シ男子ノ生マルルヤ、幼児ニ在リテハ、常ニ頂ヲ露シ、頭首ニハ、戴ク所ナシ、是ヲ童子若クハ、「わらは」ト云ヒ、長大ニシテ冠セザルヲ大童ト云ヒテ、猶ホ之ヲ成人ト為サズ、其初テ冠ヲ戴クルヲ元服ト云ヒ、「うひかうぶり」ト云フ、其式ヲ指シテ冠礼ト云ヒ、其事ヲ指シテ男ニナルト云フ。男トハ童子ノ域ヲ脱シ、成人ノ男子タルヲ謂フナリ、元服ハ実ニ成人ヲ表スルノ礼ナリ。」
 
とあります。

 いまは一月第二月曜日は「成人の日」ですが、平成十年の祝日法改正までは、この「成人の日」は、一月十五日でした。
 先程、江戸期までの「元服式」についてお話しさせて戴きましたが、本來は「成人の日」は、この元服と深い関係があります。
 さて、現代に於けるこの「成人の日」は
「おとなになったことを自覚し、みずから生きぬこうとする青年を祝いはげます」(昭和23年施行祝日法)
とあります。
 現在の形の一月第二月曜日の「成人の日」は平成十年(1998)の「祝日法改正」によつて平成十二年(2000)より施行されたものです。
 この「成人の日」に行はれるのが「成人式」になります。
 現代の形態の「成人式」は、大東亞戰爭敗戰後翌年である昭和二十一年(1946)十一月二十二日、埼玉縣北足立郡蕨町(現在の蕨市)で行はれた「青年祭」が起源といはれてゐます。この「青年祭」は、敗戰によつて虚脱狀態となつた青年たちへの激勵と希望の爲に自然發生的に行はれました。
 しかし、古來より日本では、成人となる儀式が行はれてゐました。ですから、決して戰後に始まつた儀式ではありません。成人を祝ふ儀禮は古くから行はれてゐます。
 男子は「元服」「褌祝(へこいわい)」といふ男兒が成人男子として、女子の元服は公家に於ては「裳着」といふ成人女性として認められる通過儀禮が古くから行はれてゐました。
 「小笠原流禮法」HPでは「元服式」の解説に於て次のやうに記述してゐます。
 
「元服を行う年齢は、古来は一定していませんでしたが、天皇は11歳から15歳までを限度として、皇太子は11歳から17歳までに行われ、親王もこれに準じたようです。鎌倉・室町の将軍家では、その年齢は一定していないませんが概して早くに元服を行い、また父祖の例によりその年齢を定めていたようです。藤原公賢の家では5歳、徳川家でも概ね7、8歳から10歳以下で行っていました。ただ例外として、足利義教(よしのり)(6代将軍)が35歳で行った例も在ります。
 この加冠と言うことは人生の大事な節目であって、系図にも、この加冠の年と冠の親の名と加冠の場所は必ず記されました。歴史に名を残す八幡太郎義家は、7歳の年に石清水八幡宮で、次男義綱は15歳の年に賀茂神社で、三男の義光は14歳の年に新羅明神で加冠の義を行っており、このように長男は一般的に若年令で加冠を行っていますが、これは加冠をおこなうことによって一人前の成人としての待遇を与えられ、社会的に早く大人になって欲しい、また、もう大人にしても良いだろうと言うときにしたからである。大人としての冠を被る儀式であることから、因の親にはその子の将来を見守る、親より上位の人がなりました」

 
 特に、戰亂の世に於ては十二歳から十六歳ぐらいで男子は元服してゐました。これは、戰場に初陣を飾るために行つたものである程度の幅がありました。
 江戸時代の平安が訪れると武家の數え年十五歳の少年が「元服式」を行ひました。氏神神社の社前で大人の服に改め、「角髪(みづら)(總角)」といふ子供の髪型から「冠下の髻」といふ髪を結つて烏帽子親より烏帽子を付けて戴きます。
 この意味は、
「一人前の男子として重要な責任と義務を負ひ、自立する年齢を意味します。言葉を換へたならば強健な身體と精神力を持つた(眞荒男(ますらを))として、雄々しく生長してゆくことを誓ふ儀式」
といふことがいはれてゐます。これが「元服式」なのであります。また、武家に於て刀を帶刀するのもこの元服後からになります。それ迄は木刀しか持つことができませんでした。
 ここに日本刀は單なる武器ではなく精神を伴ふものであるといふ事が想像できます。
 また、公家に於ても同じやうにといふか、公家の「元服式」が武家階級に降りてきた儀禮であるとゐへます。
 公家に於ける「元服式」は堂上家、地下家でも違ひがあり、堂上家以上の家柄の元服では冠を、地下家の元服では烏帽子を付ける儀式儀禮になります。
 前章でも解説しましたが、堂上家の冠を付ける儀式を「加冠の儀」といひます。但し、現代に於ける公卿家でこの「加冠の儀」が行はれてゐるかどうか不明です。
 
「堂上家」…「皇居清涼殿に昇殿を許された公家の家柄。攝家・清華・大臣・羽林・名家」
「地下家」…「清涼殿に昇殿を許されない家格の低い公家」
 
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《御皇室に於ける元服式》
 
 さて、この元服式の式禮が傳承されてゐるのは御皇室になります。それが顯著に表はれてゐるのが御皇室に於ける「成年式」になります。
 御皇室の「成年式」は明治四二年の「皇室令・皇室成年式令」で定められました。それによりますと皇族のうちの天皇、皇太子及び皇太孫、親王、王については成年式が齋行されることになつてゐた。そこには天皇、皇太子および皇太孫は満十八年、その他の皇族は滿二十年に達した時に齋行される。
 しかし、法律的には昭和二十二年(1947)に「皇室令及附属法令廢止の件」で廃止されてしまつた。それでも御皇室ではそれらの儀禮を最小限私的行事として行はれてをられるのです。
 これは明治以降のことでそれ以前には重要儀禮として御皇室では行つてゐました。この成年式は、十八歳或は二十歳といふ事ではなかつたと思はれます。
 この邊は、江戸期の『天皇實録』をもう少し調べて見たいと思つてゐます。
 さて、この「成年式」は、「皇室成年式令」によると次のやうな者であつたと言ふ。
 
【天皇陛下の成年式】
 天皇陛下の「成年式」の齋行は必ず正月の一日から五日までの間に行はれ、宮中三殿賢所大前で齋行されました。
 先づは、御拜禮、御告文を奏され、次いで皇靈殿と神殿に「御拜禮」なされます勅使に神宮、神武天皇山陵、先帝先后の山陵に奉幣させるといふものでした。
 そして、成年式が終つた後に更に皇靈殿及神殿に謁し、また上皇陛下および皇太后陛下に謁し、正殿に御して朝賀を受け、宮中で「宮中饗宴の儀」が行はれる。といふものです。、
 
【皇太子殿下竝に皇太孫殿下の成年式】
 皇太子殿下及皇太孫殿下の場合は、皇太子として式日に成年される場合、賢所大前に於て天皇が「冠を皇太子に授けられ」次いで皇靈殿と神殿にて皇太子が「拜禮」なさいます。さらに「參内朝見の儀」で天皇と皇后から「御盃」を賜り、最後「宮中饗宴の儀」が行はれるというものです。
 更に、御皇族の場合、賢所の前で齋行され、次に皇靈殿及神殿に謁し、天皇陛下、皇后陛下、上皇陛下及皇太后陛下に朝見する。