【光孝天皇御製】 (平安時代)
君がため春の野に出でて若菜摘む
 我がころもでに雪は降りつつ


 けふは一月七日。日本の傅統的な行事「七草の日」になります。
 この「七草の日」について、御紹介させて戴きます。
 ◇ ◇ ◇
 
【七草の日・七草粥】
 一月七日は、五節句の一「人日の節句」が基となつてゐるといふのが通説であるが、これは支那の陰陽五行説文化から、支那禮讃の風の强かつた江戸幕府が定めたものと認識されてゐるが、日本では古來より一月七日が「松の内」の最後の日に當ると云ふ事から、この人日の節句と結びついて日本では採り入れられ、「七草粥」が食されるやうになりましたと思はれてをられる方も多いですが、この「七草粥」は、支那から「人日の節句」といふ節句文化が渡來して來る遙か以前より日本では定着してゐたやうです。
 この「七草粥」は、年の始めに若菜を摘んで食べて生命力を戴く「若草摘み」といふ宮中の行事や、七種類の穀物でお粥を作る「七種粥」の風習などもあつて「七草粥」に變化して定着してゐました。
 冒頭の御製は、平安時代の初期に光孝天皇が、この「若草摘み行事」を詠はれたものになります。
 飛鳥時代に於ける天武天皇と額田王の相聞歌などはこの若菜摘み行事を詠はれてゐると考へられます。
 
【額田王】 (萬巻一20)
あかねさす紫野行き標野行き
  野守は見ずや君が袖振る

 これは一月七日ではなく、天智七年(668)五月五日の薬草狩りといふ行事での御歌といふことですが、自然の生命を戴くと云ふ日本古來の思想が顯はれゐると思ひます。
 また、時代が降つて奈良朝時代の山上憶良の萬葉歌は春と秋の「七草粥」が定着して居たのではないかと想像できる萬葉歌が殘されてゐます。
 
【山上憶良】  (萬巻八1537)
秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り
 かき數ふれば 七種
(ななくさ)の花

 「七草粥」の定着したのは、これらの皇室文化が自然と國民の間に浸透していつたからと云へます。
 お正月のご馳走に疲れた胃腸をいたはり、青菜の不足しがちな冬場の榮養補給をする効用もあつて、この日に七草粥を食べることで、新年の無病息災を願ふ行事となつてゐます。
 
《七草粥》
 「春の七草の和歌」
(せり)(なづな) 御形(ごぎやう)繁縷(はこべら)

 佛(ほとけ)の座(ざ)
 菘(すずな)蘿蔔(すずしろ) 春の七草

(以下ITより)
芹(せり)……水辺の山菜で香りがよく、食欲が増進。
薺(なずな)……別称はペンペン草。江戸時代にはポピュラーな食材でした。
御形(ごぎょう)……別称は母子草で、草餅の元祖。風邪予防や解熱に効果がある。
繁縷(はこべら)……目によいビタミンAが豊富で、腹痛の薬にもなった。
仏の座(ほとけのざ)……別称はタビラコ。タンポポに似ていて、食物繊維が豊富。
菘(すずな)……蕪(かぶ)のこと。ビタミンが豊富。
蘿蔔(すずしろ)……大根(だいこん)のこと。消化を助け、風邪の予防にもなる。