あと二日間で令和五年も終ります。
 きのふで粗方部屋の掃除を終へて、けふから新年に向けての準備を行ひたいと思つてゐる。ただ、その前に、令和五年度の事業報告書にけふは取り懸かりたいと考へてゐる。
 有難いことに、本年も餘りにも澤山のことに取組ませて戴いた。
 七月の『天皇御製に學ぶ日本の心』室町戰國編の出版を初めとして、毎月の京都での『先代舊事本紀勉強會』。小川榮太郞先生の平和研勉強會での『和歌創作講座』。
 その他にも様々な取組をさせて戴いた。
 それ等を纏めておくつもりで有る。
 


《戰國~桃山時代の狂歌の派生》
 
《山崎宗鑑》 (一休禪師の弟子)
 「辭世」
宗鑑(さうかん)はいづくへ行くと人問はば
  ちとようありてあの世へといへ

「いづくへ」…「何處へ」。
「人問はば」…「人が聞いたなら」。
「ちとようありて」…「一寸、用が有つて」。
【解説】自らの死を此程迄に掌(たなごころ)に載せて、美事に詠ひ上げてゐることに感動すら覺えます。
 ◇ ◇ ◇
 『狂歌』が、言葉文化として本格的に發達したのは、實は戰國時代であらうかと思はれます。戰國時代から安土桃山時代は、一般的には戰亂によつて人心も荒癈して居たと思はれがちですが、さにあらず。その混亂の極ともいふべき戰亂の世の中で現代まで傳承される日本文化の芽吹きつまり生成化育が始まつてゐるのです。
 この戰國時代に生成化育され、大きく發展したといへる日本文化は、能樂、狂言、連歌、俳諧、茶の湯、日本水墨畫、儒學、禪宗などがそれに當ります。
 特に言葉文化に於ては、宗祇が『古今傳授』を三條西實隆に傳へ、三條西家から細川幽齋に傳授されましたが、後陽成天皇の御世に細川幽齋から皇室に傳授され傳へられました。
これが和歌文化の正統な流れになりますが、もう一つ「連歌」といふ新しい言葉文化が和歌の強い影響で成立した後、戰國時代に大きな發達を遂げます。そして、ここから俳諧の連歌、更に發句連歌が派生して生成され、江戸時代に入つて俳句文化として花開きます。
 この、俳諧の連歌が後に『狂歌』と呼ばれる言葉遊び文化となつて行く事になりました。
 その普及發展の中心的役割を果たしたのが、一休禪師の弟子であつた山崎宗鑑と宗祇になります。
 更に、附言すればこの俳諧連歌と發句については、皇室行事による後ろ盾があつたればこそ後の發展に繫がつたといへます。戰國時代の後柏原天皇と後奈良天皇の實錄によりますと、和歌の御會始竝に和歌御會の開催の他に連歌御會も毎年多く開催されてゐます。
 この皇室行事によつて權威づけられた事に因つてこそ大きな發達が遂げられたと私は考へてをります。
 更に、『後奈良天皇實録』を讀み込みますと、連歌御會での後奈良天皇の發句は、當に俳句そのものに想へます。最初は大永七年九月廿九日九月盡和漢御會
「發句」 きてかへる秋もや山のからにしき
 大永八年二月十六日 和漢御會 後奈良天皇發句。
「發句」 花とみん梢色ふる霞かな
 
 唯、狂歌と言はれるやうになるのは、もう少し後で「俳諧連歌」の亞流といふ位置づけであつたやうに思はれます。
 この「俳諧連歌」が『狂歌』といふ體裁となるのが、桃山時代の細川幽齋の甥で學僧であつた雄長老になります。彼が「近世狂歌の祖」と呼ばれて、江戸時代の狂歌の發達に繋げてゆきました。

 ◇ ◇
《雄長老狂歌》    細川幽齋の甥。 
 「雄長老狂歌の由と人の語れる歌の事」『雄長老狂歌百首』より
心にはへちまの皮をたやすなよ
  浮世の垢を落さんが爲

「へちまの皮」…「身體を洗ふへちま」。
「たやすなよ」…「絶やすなよ」。
 ◇ ◇
 「題不明」
僞りのある世なりけり神無月
  貧乏神は身をも離れぬ

 この狂歌の上句は、藤原定家の『後拾遺集』の歌「僞りのなき世なりけり神無月たがまことより時雨そめけむ」を本歌として作られてゐます。
 
 そして、やはり細川幽齋の歌學での弟子であつた松永貞德も『狂歌』を發達させた一人になります。この『狂歌』は聊か下ネタの『狂歌』になります。
 
《松永貞德》  細川幽齋の弟子。
 この松永貞德については、江戸時代前期の狂歌でもう少し詳しく解説します。
 ここでは、松永貞德の狂歌二首をご紹介しておきます。

 「立春」
棹姫(さおひめ)の裳(も)すそ吹返しやはらかな
  けしきをそそとみする春風

「棹姫」…「佐保姫(春の和歌の女神)」。
「やはらかな」…「柔らかな」。
「そそ」…「女性の陰部」。
「みする」…「見なする」。
 ◇ ◇
 「けしきをそそと」
月ゆゑにいとどこの世に居たきかな
  土の中では見えじと思へば

「けしきを」…「景色を」。
「そそと」…「女性の陰部と見て」。
「いとど」…「益々」。
「風の靜かに吹く樣子と女性の陰部を掛けてある」。

※どうも二首目は分かり難い『狂歌』になります。この二首の『狂歌』から思ふのは松永貞德が非常に女性好きであつたと感じます。