きのふは、第二囘の『復活和歌創作講座』を行はせて戴いた。
 年末のお忙しい中で十名もの皆様が御参加戴き本當に有難いことでした。
 また、初めて鹿兒島からズームで御参加戴いた方々もあつて、今後の『和歌創作講座』の新たな取組の足掛かりになつたと思はれる。
 私には、ズームやWebを使つた講座などの展開の知識も技術もないが、松屋さんといふ新たな仲間が出来てくれて、そのWeb講座事業については担つて下さるかも知れない。
 まあ、來年度から新たな一歩が踏み出せるかも知れない。
 それと、明日京都三上邸での『先代舊事本紀勉強會』に出發する。
 本年最後の『先代舊事本紀』の第七囘『詠歌本紀勉強會』になります。
 今囘は、豐受大神について皆さんと一緒に勉強をさせて戴きます。
 
 ◇ ◇ ◇
 
【豐受大御神とは】
 (トヨウケヒメ) 外宮鎭坐 雄略天皇廿二年(478)
《御神格》  食物の神・穀物の神。
《御神德》  農業守護・漁業守護・産業守護。
《別稱》
 豐宇氣毘賣神(とようけひめのかみ)。豐受氣媛神(とようけひめのかみ)・登由宇氣神(とゆうけのかみ)
・等由氣大神(とゆけのおほかみ)・止由氣大神(とゆけのおほかみ)
 
『古事記』では伊邪那美命から生まれた和久產巢日神(わくむすびのかみ)の御子とし、天孫降臨の後、外宮の渡會(わたらひ)に鎭坐したと記されてゐる。しかし、外宮では、『止由氣宮(とゆけのみや)儀式帳』を基として鎭坐由來に因つて創建されたといふことです。
 
《言葉から考察した豐受大御神》
 豐受大御神のその名前「トヨウケヒメ」がどのやうな意味になるのかを考察してみたい。
「トヨ」…
 「(トヨ)は(ユタカ)を表はすと言はれてゐるが、(トヨ)には
  (響む)といふ意味もある。(響む)は(波動)といふことで、
  (波動)は生成の働きを表はしてゐます」。
 
「ウケ」…
 「(ウケ)は食物を表し、特に稻のことを言つてゐる(『大辞泉』)。
  「食」は國語辞典では「ウカ」「ウケ」「ケ」「シ」「ジキ」「ショク」といふ       讀み方がある。又、『歴史民俗用語辞典』では、「ウカ」「ウケ」といふ
   訓み方をしてゐる。(トヨウケ)は、食を生成するといふ事になります。
   (保食神)と書いて(ウケモチノカミ)と訓まれてゐます。」
「ヒメ」…
 「(ヒメ)は(毘賣)で女性を表はす尊稱。」
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【文獻にみる豐受大御神】
 傳承では、第二十一代雄略天皇に御世(雄略天皇廿二年)に伊勢外宮は創祀されました。
 これは、『古事記』での傳承ではありません。神宮に於ては、その創祀の肇めを『止由氣宮(とゆけのみや)儀式帳』の記述を基とされてゐます。
(『止由氣宮(とゆけのみや)儀式帳』(外宮外傳)での記述)
 大泊瀬幼武天皇(おほはつせわかたけるすめらみこと)(第二十一代雄略天皇)の夢枕に天照大御神が夢に現はれて、
「吾(われ)一所(ひとところ)のみ坐(いま)せば甚(はなは)だ苦(くる)し。しかのみならず大御饌(おほみけ)も安(やす)く聞(きこ)し食(め)さず。故に丹波國(たにはのくに)の比治(ひぢ)の眞名井(まない)に坐(ま)す我が御饌都神(みけつかみ)、等由氣大神(とゆけのおほかみ)を我が許(もと)にもが」
(『止由氣宮(とゆけのみや)儀式帳』より)
 雄略天皇は、夢から目覺めて等由氣大神(とゆけのおほかみ)を丹波國(たんばのくに)比治(ひぢ)の眞名井(まない)から御迎へをして、伊勢の渡會郡(わたらひぐん)山田原(やまたのはら)に立派な宮居を建立されて祭祀を始められました。
 この『止由氣宮(とゆけのみや)儀式帳』は、現在神宮文庫に所蔵されてゐます。延暦廿三年(804)止由氣宮(とゆけのみや)(外宮)の渡會五月麻呂等が、同宮の祭儀、殿舎、鎭坐由來、攝社、職員の分掌等を記し報告したものです。現在、これは國の重要文化財になつてゐます。
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(『古事記』に於ける外宮の記述)
 又、『古事記』には豐宇氣毘賣神は天孫降臨のあと外宮の渡會に鎭坐したと記されてゐるのみで、神宮獨自の鎭坐を『止由氣宮(とゆけのみや)儀式帳』の由來にしてゐます。『古事記』の記述は次の通りです。
「此の鏡は專(もは)ら我が御魂(みたま)として、而(しか)るに吾(あ)が前(みまへ)を拜(をろが)む如(ごと)伊都岐(いつき)奉(まつ)れ。
 次に思金神(おもひかねのかみ)は前事(みまへごと)を取(とり)持ち政(まつりごと)をせよ此の二柱(ふたはしら)の神は佐久久斯侶伊須受能宮(さくくしろいすずのみや)【佐より能まで音を以てす】に拜(をろが)み祭(まつ)れ。
 次に登由宇氣神(とようけのかみ)、此(こ)は外宮(とつみや)の度相(わたらひ)に坐す神也」
【原文】此之鏡者專爲我御魂而如拜 吾前伊都岐奉次思金神者取持前事爲政
  此二柱神者拜祭佐久久斯侶伊須受能宮 次登由宇氣神此者坐外宮之度相神者也。
 次於尿成神名、彌都波能賣神、次和久產巢日神、此神之子、謂豐宇氣毘賣神。
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(『日本書紀』では「豐受大神」は出でず)
 『日本書紀』では、豐受大神は出てきません。この邊については、何故『日本書紀』では出て來ないといふ事については、もう少し調べて見たいと思つてゐます。
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(『倭姫命世記』に於ける外宮の記述)

  神護景雲二年(768)撰。
 この『神道五部書』の一と傳へられる此書は、天地開闢から、皇大神宮の各地御還幸等が記述されてをり、此處でも雄略天皇の代の外宮鎭坐に至る詳細が記述されてゐる。
 雄略天皇期、丹波國比沼の眞名井から豐受大神を伊勢山田原に遷るとあり、丹波國比治眞名井を元伊勢外宮といふ。
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(『伊勢二所皇大神宮神名秘書』に於ける外宮の記述)
 渡會行忠によつて著された伊勢神道の敎説の基となつた此書にも外宮鎭坐の由緣が記述されてゐる。
『崇神天皇御三十九年、天照大神が但波(たには)吉佐宮(よさのみや)に祀られ、同じ年に止由氣大神(とゆけのおほかみ)(豐受大神)が天から降り、天照大神と合はせ、祀られてゐる。所謂二つの宮は一つの光だ』とありますから、天照大神を祀る神社及び豐受大神を祀る神社が其々あるのではなく、天照皇大神、豐受皇大神を同時に祀る元伊勢神社がある事になります。
 
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【伊勢神宮の私幣(しへい)禁斷(きんだん)
 伊勢神宮では元來、個人的な願ひ事は出來ないとされてゐます。
 これは、伊勢神宮では、「鎭護國家平安を祈念する」ことか、「一年間を無事に過ごして來られた事への感謝を御報告する」といふ形式が古來より蹈襲されてゐます。
 これは、元來伊勢神宮には「私幣禁斷」といふ制度があります。その理由としては、神宮は皇祖神である天照大御神をお祀りするところから、天皇以外幣帛お供へする事を禁止した「私幣禁斷」といふ制度があります。それでも神宮HPには次のやうに有ります。
「この制度によって参拝までも禁止されたわけではなく、神嘗祭などの奉幣に差遣された勅使のお供としてやってきた人々が都に戻り、神宮のことを口伝えに広げ、次第に民衆に神宮の存在が知れわたったと考えられます」
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《大東亞戰爭に於ける空襲に於ける外宮の奇跡》
【昭和二十年一月十四日午後二時五十三分】。
 外宮の神域に五箇所六發の爆彈が投下される。五丈殿・九丈殿・神樂殿・齋殿が被害を受ける。しかし、その被害は軒先と戸障子の破損、板塀の倒壞、屋根に數箇所の穴が開いた程度で輕微であつた。
 
【昭和二十年七月二十八日・二十九日】
 「宇治山田空襲」
 御垣内にも燒夷彈が降り注いだが、御垣内は火に包まれる事はなかつた。
 後日、外宮神域から搬出された燒夷彈の殘骸は、トラック三臺分に及んだと云ふ。