きのふは、宮内庁書陵部で令和五年最後の閲覧撮影作業を行はせて戴いた。
 平安時代初期の仁明天皇、文德天皇お二人の天皇皇族實錄の撮影と閲覧作業を心を籠めて行つて來た。
 また、きのふは最後といふことも有り、書陵部の圖書寮文庫と公文書館の職員の方にお世話になつた挨拶をさせて戴いてきた。
 職員の方から、私の勉強させて戴いてゐる資料についてはいつも讀んで下さつて居て評價をして戴いてゐるとの事。これらの勉強について多くの若者に知つて戴く爲に、ITを使つて發信した方が少しは反響があると思ふと助言を戴いた。
 本當に有難いことである。私のやうな者の賤しき才能無き人間の勉強をそのやうに言つて下さつた事に唯唯感謝しかない。
 さて、本日は、夕方六時十分から『復活和歌創作講座』をさせて戴く。
 先月から復活したこの『復活和歌創作講座』も今月からはITでの中繼も行つて下さる事になつてをり、本當に有難いことで感謝に堪えない。
 けふの豫定としては、テーマを「和歌の心得」といふことで行はせて戴く。
 第一講座 『天皇御製に學ぶ日本の心』
  【後小松天皇御製】について
 第二講座 『古今集假名序』の素讀。
 第三講座 「和歌の基本」
   1 言葉を何よりも大切にする
   2 和歌創作技法 入門編
   3 本來の和歌とは
 第四講座 究極 和歌で天地を動かす。
 第五講座 和歌によつて歴史が動く。
 第六講座 和歌創作
  令和五年を振り返り橘曙覽の『獨樂吟』を本歌として初句「たのしみは」と結句「とき」を使用して本歌取りの和歌に挑戦して戴く。
 そんな事から、けふの『復活和歌創作講座』での資料から一部第四講座の「究極 和歌で天地を動かす」についてを抜粋して御紹介させて戴きます。
 
 ◇ ◇ ◇
 
第四講座 《究極 和歌で天地を動かす》

 【明治天皇御製】
天地
(あめつち)を動かすばかりの言の葉の
  まことの道をきはめてしがな


 さて、天地を感動させるといふ理想は、古今集以後の凡ゆる歌人の最高の目標でした。和歌といふ心に湧くが隨を詠ふといふ行爲が、いかに人の心を打つかを紀貫之は
「花に鳴く鶯、水に住むかはずの聲を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。力も入れずして、あめつちを動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)もあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛(たけ)きもののふの心をなぐさむるは、歌なり」『古今和歌集假名序より』
 この樣な自覺は、日本人の心情的特性の中で血肉化され、和歌といふ形となつて言葉に生命を吹き込んできました。そして、獨特の抒情(じょじょう)の傅統を培つたのです。その表現の核心にあるものは「鬼神をも泣かしむる」感激の純粋性であり「心」でありました。
 
「悽惆(せいちう)の意、歌(うた)にあらずは撥(はら)ひ難きのみ」(『萬葉集』巻第十九、大伴家持)
 
 悽惆(せいちう)とは「かなしみ」「うらみ」「いたみ」「いきどおる」その總ての感情は、歌のかたちを得て、初めて、個の涙を普遍の涙として多くの人々を搖り動かし、天地をも動かすことになるのです。
 紀貫之の「いづれか歌を詠まざりける」といふ言とその普遍の涙は一致します。そして、その和歌が「普遍の涙」となり得た時に、永遠の生命が宿ることになるのです。
 永遠の生命を得た和歌によつて歴史を動かし、天地を動かすことができるのです。
 天地は何によつて動くのでせうか。天地とは眞理の容れ物といへます。眞理の容れ物に於ける最も重要な要素は、「まこと」であらうと私は考へます。何故ならば、人を動かし天地を善き方向に動かすものは『まこと』の他にはありません。
 
【明治天皇御製】
鬼神
(おにがみ)も泣かするものは世の中の
  人の心のまことなりけり

 
 『まこと』こそ人間の最高表現といえます。人間は『まこと』によつてのみ、その持つてゐる以上のことを實現することが可能になるのです。歌の形式が、天地を動かすのではありません。歌の中に籠もる心が、歌の魂となり、その魂の中に籠もつた『まこと』が鬼神を泣かせ、天地を搖り動かすことになるのです。紀貫之は、人間の『まこと』の最高表現を歌の生命として認め、和歌を單なる雅な遊び道具とはしなかつたのであります。
 では、『まこと』とは一体どういふものでありませう。『まこと』は純粋な日本語であります。ですから、これを漢語のやうに分解することなどはできませんから、私はこれを平仮名で書きました。何故ならば『まこと』を漢語で示すと、眞も『まこと』、誠も『まこと』、信も『まこと』になります。英語に訳せばtrueも『まこと』、realも『まこと』、 sincereも『まこと』であります。『眞』は眞實ありのまま偽らず餝らざる天地の相(すがた)そのもののことであります。事物の眞相の『眞』もこれも又『まこと』なのであります。物に偽りがない眞物も『まこと』であります。心に僞りがないことが「誠」であります、この誠のみよく「眞」に通ずるものなのであります。天は正眞なればこそ至誠は天に通ずる事になるのであります。
 孔子が「仁」と云つた心も。この『まこと』に入ります。キリストが「愛」と呼んだ心も、この『まこと』の中に含まれます。人間にとつて地上に於ける最も強大なものこそ『まこと』なのであります。この『まこと』を以て天地を動かし、これを以て鬼神を泣かせる、そこに人間の持つ最大の力があるのです。『まこと』の表現には技巧は問題になりません。心に映じた凡ゆる思ひをその隨に詠ふのが歌を創る目的なのですから。そして、生活が眞實であれば、その眞實の生活からこぼれ出る言葉の斷片はみな眞實の響きをもつて人の耳を打ちます。
 
【明治天皇御製】
まごゝろを歌ひあげたる言の葉は
  ひとたび聞けば忘れざりけり


 
 『まこと』の籠つた歌は無理に創らうとしても創れません。其の心が『まこと』にならねば『まこと』の歌は生れては來ません。
 歌を磨かんとすれば先づ其の生活を磨け、その生活を磨かんとするものは、其の心を磨け。
 『まこと』ある歌のみが眞の歌である。抑えようとして抑えきれない魂の爆發。剛毅なる生命の躍動をもつて率直に人の心を打つ迫力こそ歌なのであります。
 ですから、「内容」と「表現」はいかなる場合でも一致せねばならないのであります。
 私たちは人間として生まれてきただけで、尊く美しい存在であるといふことを自覺することは大切なことと思えるのであります。戰前の日本人には確かにそれがあつたと私には思へます。これは戰前の書物を讀めば讀む程それを強く感じざるを得ません。