【天皇國日本燦歌】 
 
 
【懐良親王(かねながしんのう)
 
(南北朝時代) 後醍醐天皇の第十六皇子
 


*懐良親王



 
「建德二年秋の頃
 中務卿 宗良親王のもとへ申し送り侍りし」
  
 
日にそへて遁れむとのみ思ふ身に
   いとど憂世の事しげきかな

 
 ○新葉集巻第十八雜下に出づ
 
 
 建徳二年は、この年の始めに足利方の今川貞世(了俊)が九州探題として赴任して、懐良親王(かねながしんのう)及び菊池武光の軍は太宰府を出て今川貞世と戰ひましたが、敗れてしまひ、高良山に退却して陣容を立て直さざるを得ない状況となつてしまひます。
 これまでの連戰連勝が嘘のやうにこの年から萬事御意の如くならずに悶々として愉しまれなかつたことが窺へる御歌(おうた)ではないでせうか。
 『菊池傳記』巻一には、この御歌について、更に精しく載せられてをり、この御歌は當時信州に在らせられた御兄宮宗良親王に贈られたものであるといひます。
 この懐良親王に御兄宮から次の御歌が返歌として贈られてきて慰められたといひます。
 


*宗良親王


 
【宗良親王から懐良親王への返歌】
 
とにかくに道ある君が御代ならば
   事しげくとも誰か惑はむ
 
 このお歌は、現代にも通ずる和歌ではないでせうか。
 
 
【懐良親王(かねながしんのう)のこと】
 
 後醍醐天皇第十六皇子。御母は冷泉爲道の女三位局(さんいのつぼね)。建武三年(1336)九月、未だご幼少(御年七歳)の懐良親王ではあつたが西征大將軍として親王の守護と教育を託された五條頼元に付き添われ伊豫に御下向される。
 伊豫水軍の総帥忽那義範は、三年の間、本拠忽那島(くつなじま)(中島)に親王を戴いて、敎育なども行ふと共に北朝方と戰ひ懐良親王を支へたのでした。
 伊豫國に在らせられたこと三年、興國三年(1942)に、薩摩國に御上陸され、薩摩・大隅・肥後を略されて、正平三年(1348)に菊池武光の本拠で在る肥後國の菊池城に本營を定められて西征府を開かれました。
 そして、ここから舊習を南朝の治政下に置かれる爲に、戰ひが始まつたのでした。
 足利幕府の鎮西總大將一色氏や筑前の小貳氏、豐後の大友氏を撃破します。
 そして、正平一四年(1359)八月六日、筑前の小貳頼尚軍と筑後川にて戰ひ、御身に三創を被られ給ふも屈すられることなく奮戰して大勝を得られます。
 正平十六年(1361)、太宰府を制壓して九州を略ゝ南朝方の勢力下に置かれました。しかし、正平二十二年(1367)、當時足利幕府は、三代將軍義滿の時代となり、九州探題として今川貞世(了俊)が派遣されてから樣相が變つてきてしまひました。
 これ以來、官軍の勢ひ揮はなくなり、親王は三井郡高良山に退かれました。更に、文中三年(1374)、親王を支へ續けた菊池一族の諸將が没して、菊池郡隈府に本拠を移されます。翌天授元年(1375)西征大將軍の職を御養子良成親王に譲られて、八女郡矢部に御退隠されました。弘和三年(1383)三月廿七日薨去されました。
 御年五十五歳。
 お遺しになられた御歌は、世に出たものとしては殘念ながら新葉集にあるこの一首のみです。