本稿は8月13日の續きです。
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愛國百人一首教則本    

  編著   小 林  隆






【參考文獻】

・『愛國百人一首評釋』    川田 順著・朝日新聞社刊
・「愛國百人一首通釋」    坂口利夫著・五車書房刊
・日本古典文学大系『萬葉集』第一巻~第四巻 岩波書店
・『萬葉集評釋』      山路光顯著
・『人麿と其歌』      樋口功著
・『柿本人麻呂』      武田祐吉著
・『萬葉集古義』      鹿持雅澄著
・『吉野朝悲歌』      川田 順著
・『少年日本史』      平泉 澄著
・『神皇正統記評釋』    大町芳衛著
・『國史と日本精神の顯現』 清原貞雄著
・『保田輿重郎集』別巻一  保田輿重郎著
・『平家物語』 
・國史と日本精神の顯現   清原貞雄著
・『高山彦九郎日記』     高山彦九郎先生遺徳顕彰會篇
・高山彦九郎『朽葉集』   矢島行雄編・日本書院刊
・『吉田松陰全集』      山口縣敎育會編纂
・『吉田松陰』         玖村敏雄著
・『弘道館記述義小解』   伊藤虎之亮著
・日本二千六百年史     大川周明著
・句集『愛國』         田畑益弘著




愛國百人一首評釋 58



58 高山彦九郎  (たかやまひこくろう)

  江戸時代中期

 勤皇倒幕の魁となった憂國の士・寛政の三奇人



*福岡県久留米市遍昭院にある高山彦九郎銅像



われをわれとしろしめすかやすべらぎの
  玉たまのみ聲こゑのかかるうれしさ 

      
《歌意》
 草深い田舎侍のわれを、高山彦九郎と思召し、親く玉音を下し賜ふたが、これはまた何といふ破格の光榮で、忝くおそれ多いことであらう。

○すべらぎ…天皇樣のこと  
○玉のみ聲…天皇さまのお声がけ。


【川田順氏「愛國百人一首評釋」より】

◇寛政三奇人の一人なる高山彦九郎が、
  寛政三年、四十五歳の作。


◇比年の春、彦九郎は或事(後述する)に因つて忝くも、
 光格天皇の龍顔を拜する榮に浴した。

 右一首はその時の感激。

 草莽の微臣の我をも、われ彦九郎と思召し、
 知ろしめし給ふかよ、
 今日此時、圖らずも、一天萬乗の君の玉音に
 親しく接しまゐらする事、御聲を掛けて戴いた事の、
 この嬉しさよ、忝さよ。


◇古今忠君の歌の中、この一首ほど
 感激がありの儘に現はれたものは澤山ない。

 第一句最初の「われ」は微賤の此の身といふこと。

 次の「われ」は意味深く個に即して、
 彦九郎われを、君國のために
 微衷を盡せるわれ彦九郎を、といふこと。



◇いかにして彦九郎が天顔に咫尺しせきし奉るを得たか。

 それに就いては徳富蘇峰先生の著書
 「近世日本國民史」に詳しく記されてゐる。

 要約すると、寛政三年春、
 近江國高島郡の一漁師が湖水で綠毛龜を生捕つた。

 大變な評判になつたが、たまたま彦九郎も衆と共に
 これを一見し(これを買い取つて?)
 知人の志水南涯をして飼養せしめ、
 淸原宣條らの公卿を經て、
 遂に御叡覽に供するに至つた。

 龜に毛あるものは文治の前兆なるが故である。

 かやうな機縁にて、匹夫の彦九郎は窃かに
 天顔を拜するを得たのであつた。

○天顔に咫尺し奉る…天皇に拝謁すること。

※この綠毛龜は彦九郎にとつて
 一生の寶物で死ぬまで持ち歩いてゐました。
 彼が終焉の地福岡縣久留米市の遍昭院に
 それは遺品として遺されてゐます。
 平成二十二年八月、彦九郎先生の墓参りをさせて戴いた時、
 遍昭院さんのご厚意で見せて頂く事ができました。



*久留米市遍昭院さんで保存してゐる緑亀の尾


◇聞くならく、世上に或る一部の人、
 この歌の「われをわれと」云々は主我的、
 利己的なりと非議する由、
 義士彦九郎を誣ふるおそれなきか。

 彦九郎の傳記にさやうの私心、
 主我的なるもの有りしや。

 「われ」は無私純潔の我であり、神である。
 この我なくして詩歌は生れない。


【私見】


◇高山彦九郎こそ、勤皇倒幕の魁となった志士である。

 彼が勤皇精神を訴え、全國に行脚したことで
 藤田幽谷に勤皇心を呼び起こし、
 藤田東湖、會澤正志斎などに繋がつていつたのである。


◇高山彦九郎は幕府權力の
 衰へてゐない時期に全國を行脚し、
 その尊皇思想を弘めて歩いたのです。

 彦九郎は十三歳の時、太平記を讀み、
 後醍醐天皇が吉野朝皇政の政治を
 打ち立てられなかつたことを強く憤つたと傳へられます。


「(建武の)中興の志業の遂げられざるを見て、
 慨然と発奮し、功名の志しあり」 
  
(『高山正之傳』會澤正志齊著)


◇彦九郎は十八歳の時、學者を志して、
 置き手紙を殘して、京都に旅立ちます。

 この學者とは皇國を學び研究するといふものでした。

 この學問の講究に由つて
 特に垂加神道の尊皇思想に大きな影響を受け、
 各地を旅し勤皇論を傳へて行つたのでした。


◇そして、蘭學者前野良澤を初めとして
 林子平や広瀬淡窓、米沢藩の上杉鷹山、
 公家の岩倉具選ともかず、水戸藩の立原翠軒、藤田幽谷など
 多くの人物と交ります。

 中でも、年下であつた水戸の藤田幽谷に關しては
 その尊皇攘夷精神を惜しみなく與へ、
 その後の幕末水戸學の礎の
 切つ掛けを導いたといつても過言ではありません。


◇彼は二十七歳から
 それらの足跡を膨大な旅日記に殘し、
 蝦夷地(北海道)、四國以外ほぼ全國に亙り
 多岐に亙る人物との交流からの
 情報の媒介者として遊歴しました。

 この日記から當時の社會状況、
 忠義・孝行の傳聞や、
 其の土地の地誌や里談などが窺はれ、
 歴史的にも大きな書として
 再評價されるべきと私は思ふのです。

 戰前には、二宮尊徳、楠木正成と並び
 修身教育では總べての國民が學んだ人物でした。



◇次の歌などは彦九郎が
 いかに御皇室を貴んでゐたかが窺へると思ふのです。

 この歌は京都の東山に上つて、
 皇居の小ささを悲しんだ心を歌つたものです。


東山のぼりてみればあはれなり
  手のひらほどの大宮處

《歌意》
 京都の東山にのぼつて見たならば、皇居は我が手のひらに乗るほどの大きさではないか。



◇京都の三条大橋には
 高山彦九郎の銅像がありますが、
 その姿は京都御所に嚮ひ「望拜」をしてゐます。



*京都三条大橋・高山彦九郎望拜像


 この銅像は、彦九郎が京都に出入りするたびに


「不忠の臣高山彦九郎で御座います」


 と必ずこの三条大橋から
 皇居に嚮ひ平伏してゐたといひます。

 これを現在は土下座といふ言葉を使つてゐますが
 これは土下座ではありません。


 「望拜」と言ふのです。


 この銅像には、江戸時代の歌人橘曙覽により
 次の和歌が書かれてゐます。


大御門おほみかどその方かた向きて橋の上に
  頂根うなね突きけむ眞心まごころたふと


《歌意》
 皇居の方向へ向つて三條大橋の上から、額を着かんばかりに望拜してゐる「眞心」の何と尊いことであらうか。


◇吉田松蔭先生の「松陰」の号は、
 高山彦九郎の諡いみな「松陰以白居士」から
 採られたといふ程、
 彦九郎を尊敬してゐたといふのです。



*高山彦九郎大人の位牌(久留米市遍昭院樣)



 それは、嘉永四年江戸遊學中に
 會澤正志齊の著した「高山彦九郎傳」で、
 その存在を知つて次のやうに言つてゐます。

「武士たるものの亀鑑此の事と存じ奉り候」と。

 兄杉民治に送られた手紙に
 書かれていた事から窺へます。


◇吉田松陰先生の『留魂録』冒頭の

躬はたとい武蔵野の野邊に朽ちぬとも
  留め置かまし大和魂

といふ歌は、


朽ち果てて躬は土となりはかなくも
  心は國を守らんものを


 といふ高山彦九郎の辭世が本歌ではないでせうか。
 假に本歌でなくとも、彦九郎の志を
 自らのものと爲して創られたと思ひます。


◇この他にも幕末志士達は、
 この彦九郎の尊皇思想の
 先駆的な行動と實践を範として、
 幕末尊皇活動に勤しんだと信じて疑ひません。











*久留米遍昭院樣にある高山彦九郎大人のお墓