本稿は7月8日の續きになります。   
 http://ameblo.jp/kotodama-1606/entry-11568937547.html 



31 坂上是則(さかのうえのこれのり)

 
  (生没年不明・紀貫之と同時期に活躍)



*坂上田村麻呂(光琳かるた)


朝ぼらけ有明の月とみるまでに
  吉野の里にふれる白雪

(古今集) 


(歌の詠み方)

上の句 あさぼらけ ありあけのつきと みるまでに
下の句 よしののさとに ふれるしらゆき


《歌意》
 ほのぼのと夜が明けてくる頃、ふと外を見ると、有明の月の光かと見まごうほどに、吉野の里に雪が降り積もっている。




 歌の間のエピソード


 歌の背景




*この歌は、初雪の朝の風景を詠った和歌で深閑とした静けさとさわやかな冷氣に包まれた情景が浮かんでくるのではないでしょうか。



 語の説明


*「朝ぼらけ」とは、
 「ほんのりと夜が明ける頃」のことです。
 ですから、太陽が昇る少し前の
 朝方のことになります。

 『萬葉集』では「朝開き」となっていましたが、
 その言葉が訛って
 「朝ぼらけ」になったといわれています。


*「みるまでに」、
 この「みる」は、「見ている」ことではなく、
 「思う」とか「判断する」という意味になります。

 「まで」は極端な程度を表す副助詞で、
 「思うばかりに」というぐらいの意味になります。


*「吉野の里」は、奈良県吉野地方のことになります。
 昔から櫻の美しい場所として有名なところです。


*「ふれる白雪」は、
 「白雪が降り続いている」こんな意味になります。

 「る」は、継続を示す助動詞「り」の連体形で、
 この歌では「体言止め」が使われています。



 人物


*坂上是則は、紀貫之や凡河内躬恒と並ぶほど
 当時において評価の高かった歌人ですが、
 今はそれほど有名ではありません。

 三十六歌仙の一人です。


*三十六歌仙図狩野探幽画 坂上田村麻呂


*坂上是則は、
 蹴鞠の名人としても記録に残っています。



※京都下鴨神社の蹴鞠行事

 蹴鞠とは、平安時代に流行した競技のひとつで
 鹿皮製の鞠を一定の高さで蹴り続け、
 その回数を競う競技です。

 中大兄皇子が法興寺で「鞠を打った」際に
 皇子が落とした履を
 中臣鎌足が拾ったことを
 きっかけに親しくなり(『日本書紀』)、
 これを契機として六百四十五年に
 乙巳の変が興ったことは広く知られています。

 蹴鞠は貴族だけに止まらず、
 天皇、公家、将軍、武士、神官
 はては一般民衆に至るまで
 老若男女の差別無く親しまれたといいます。

 是則はこの蹴鞠で二百六回を
 蹴ったという記録が残っています。


*坂上是則という人は、
 坂上田村麻呂の曾孫です。

 坂上田村麻呂(奈良時代の人)は
 日本で二番目の征夷大將軍として知られ
 初代よりも征夷大将軍の名を
 確乎たるものでしました。




 文の菅原道真、武の坂上田村麻呂として
 日本人から愛され続けてきた人物です。



*坂上氏は百済から帰化した家柄で、
 日本人は、彼ら渡来人を異民族
 あるいは異人種として白い目で見たり、
 まして敵視するようなことはありませんでした。

 ひとつには彼らの進んだ技術・文化に対して、
 素直な敬意を抱き、
 また、日本人の間には「まれびと信仰」
 つまり、季節ごとに外から来訪する神や人は、
 幸せをもたらすものとして
 歓迎するという信仰風習がありました。

 そうした社会風習を背景に
 渡来人たちがその土地に土着し、そ
 の子孫が発展していったのです。



*京都の清水寺は、
 曽祖父である坂上田村麻呂が
 創建したといわれていますが、
 その関係からが坂上是則は、
 清水寺の別当を努めました。




 平安時代に於ける別当とは
 この寺を管轄する役職を言いました。



 かるた一口メモ




 「朝ぼらけ」で始まる歌は二枚あります。

 また、「あさ」で始まる歌は三枚です。


  




 この次「朝ぼらけ」と詠んだなら
 「あらはれわたるせせのあしろき」
 という札を取って下さい。


 「あさじゅう」と詠んだなら
 「あまりてなとかひとのこひしき」になります。


 また、「あ」で始まる札は
 百人一首では飛び抜けて多く十六枚あります。