本稿は7月5日の續きです。
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愛國百人一首教則本    

  編著   小 林  隆






【參考文獻】

・『愛國百人一首評釋』    川田 順著・朝日新聞社刊
・「愛國百人一首通釋」    坂口利夫著・五車書房刊
・日本古典文学大系『萬葉集』第一巻~第四巻 岩波書店
・『萬葉集評釋』      山路光顯著
・『人麿と其歌』      樋口功著
・『柿本人麻呂』      武田祐吉著
・『萬葉集古義』      鹿持雅澄著
・『吉野朝悲歌』      川田 順著
・『少年日本史』      平泉 澄著
・『神皇正統記評釋』    大町芳衛著
・『國史と日本精神の顯現』 清原貞雄著
・『保田輿重郎集』別巻一  保田輿重郎著
・『平家物語』 
・國史と日本精神の顯現   清原貞雄著
・『高山彦九郎日記』     高山彦九郎先生遺徳顕彰會篇
・高山彦九郎『朽葉集』   矢島行雄編・日本書院刊
・『吉田松陰全集』      山口縣敎育會編纂
・『吉田松陰』         玖村敏雄著
・『弘道館記述義小解』   伊藤虎之亮著
・日本二千六百年史     大川周明著
・句集『愛國』         田畑益弘著




愛國百人一首評釋 33



33 藤原俊成  (ふじわらのしゅんぜい)


 平安時代末期  歌人 藤原定家の父。





君が代は千代もささじ天の戸や
  出づる月日のかぎりなければ

      (新古今集 巻七賀歌)

《歌意》
 この日本といふ國は永遠の國であり、それは高天原からさし昇る日月が永遠であるからである。


 
◇新古今集巻第七賀歌の部に
 「祝の心をよみ侍りける」
 と題して出てゐます。
 家集「長秋詠藻」には載せられて居ません。


◇「千代にささじ」は
 千代とか八千代とか
 數を制限して指すことは致すまじの意ですが、
 次の句である「天の戸や」の
 戸を鎖(さ)すとふ縁語になつてゐます。

 これは一つの技巧になります。
 「天の戸や」は天の戸を、の意味になりますが、
 これでは調子を成さないので
 「や」と荘重に言ひ据えたのです。
 これについて文法上の
 是非をいふのは當りません。



◇君が代(天皇樣の御代)は日月と共に
 無窮とお祝ひを奉つたのですが、
 「大空を」と歌はずして、「天の戸や」としたのは、
 高天原の聯想でこれが爲に
 この一首は歴史的背景を持つて、
 具象化せられて和歌としては佳いと
 川田順氏は述べてゐます。


◇初句の五文字が君が代と使はれる和歌は、
 『萬葉集』に於ては一首も見当たりません。

 「平安時代・鎌倉時代になって使はれ
 その数は數多の如く有るが型となってしまひ
 和歌本來の姿から遠のいてしまった」


と川田順氏は言つてゐます。


◇「和歌とは、作者の心魂が籠もってこそ
 其の歌の本當の姿が現はれるのである。
 しかし、君が代と使はれた
 和歌には形式が先にあり、
 作者の心魂が餘り感じられぬ
 やうになってしまった」

 とも川田順氏はこのやうに補足してゐます。






◇藤原俊成は歌人として、
 當時最高の人であり
 西行法師とその評價を二分していました。

 新古今風和歌の基礎を築いたといえる人です。

 平安末期から鎌倉初期にかけての
 最高の女流歌人 式子内親王も
 この俊成から和歌を学びました。



*式子内親王(時雨殿所蔵)


◇俊成は、九十歳まで生きたと伝えられています。
 和歌を作っている人は多くの人が長生きでした。
 道因法師も九十歳以上、
 その他、藤原基俊八十九歳、藤原定家八十歳、
 藤原家隆七十九歳、紀貫之七十八歳
 はじめ多くの歌人は七十歳以上も生きていました。

 当時の平均寿命から考えると今の百歳以上と
 考えてもいいのではないかと思います。

 長生きをしたいのなら和歌を
 一生懸命作るといいのかも知れません。


◇藤原俊成は、関白藤原道長の
 曾孫(孫の子)にあたり、
 公家の家柄としては一番高い家柄の系統でした。


◇藤原俊成が日本文化において
 大きな存在であったことは間違いありません。

 彼の残した歌論書は『古來風躰抄』ですが、
 これは和歌の本質論・和歌史論とともに、
 萬葉集以來の勅撰集の中から
 秀歌を抄出したもので、
 歌のことばの詩的機能を、
 王朝以來の美意識の具象化である
 秀歌を詠むことで體得させることを狙ったものです。

 これは日本の文学において
 この歌論書は大きな影響を与えた書です。

 その代表的な一節を次に挙げてみます。



歌はたゞ、よみあげもし、
詠じもしたるに、
何となく艶にもあはれにも
聞ゆる事のあるなるべし。
もとより詠歌といひて、
こゑにつきて、
よくもあしくも聞ゆるものなり



 これを現代文にすると

 「歌はただ、口に出して読んだり
 詠じたりしてみると、
 何となく優美に聞えたり、
 情趣深く聞えたりするものだ。
 そもそも詠歌と言うように、
 声調によって、
 良くも悪くも聞えるものなのである」





◇藤原俊成の小倉百人一首の和歌


世の中よ道こそなけれ思ひ入る
  山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
   (千載集)



*藤原俊成(時雨殿所蔵)

《歌意》
 辛いこの現世というものよ。そこから逃れる道はないのだ。深い思いをこめて入り込んだ山の奧でも、鹿が悲しげに啼いている。


藤原俊成 その他の和歌


神風や五十鈴の川の宮柱
  いく千世すめとたてはじめけむ
   (新古1882)

《歌意》
 五十鈴川のほとりの内宮の宮柱は、川の水が幾千年も澄んでいるように幾千年神が鎮座されよと思って建て始めたのであろうか。


春日野のおどろの道の埋れ水
  すゑだに神のしるしあらはせ
  (新古1898)

《歌意》
 春日野の茨の繁る道にひっそり流れる水――そのように世間に埋もれている私ですが、せめて子孫にだけでも春日の神の霊験をあらわして下さい。



き夢はなごりまでこそ悲しけれ
  此の世ののちもなほや歎かむ
   (千載1127)


《歌意》
 辛い夢は、覚めたあとの名残までもが悲しいのだった。この世から生まれ変わっての後の世も、やはり歎き続けるのだろうか。




*顔の消えた?藤原俊成(冷泉家所蔵)