原爆がなぜ広島に投下されなければならなかったのか、広島で生まれ育った筆者が、それを追求したノンフィクションです。副題は「陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」とされています。第48回大佛(おさらぎ)次郎賞受賞作です。

 宇品は戦地に兵士や武器、食糧を送り、占領地から資源を運び込む海上交通路の拠点でした。日本軍最大の輸送基地には、陸軍船舶司令部が置かれ、船舶輸送体制の近代化が行われていました。しかし、公式な資料はほとんど残されていませんでした。

 筆者は、防衛研究所に40年間勤務した原剛氏から、「船舶の神」と呼ばれた田尻昌次中将のことを知りました。遺族を訪ねると、田尻中将は詳細な自叙伝を書いていたことがわかり、筆者はそれを借り受けて本書を執筆しました。本書前半の主人公は田尻氏です。

 兵庫県但馬の田尻家は名家でしたが、明治維新で没落、田尻氏は横浜に引き取られ、医師を目指しますが、家庭の事情で帰郷を余儀なくされ、代用教員を経て、経済的理由から陸軍士官学校に入り、軍人となりました。非藩閥士官であった田尻氏は優秀ながら認められませんでしたが、難関の陸軍大学校に進み、卒業すると、宇品の陸軍運輸部に配属されました。将来の上陸戦に備え、金属製上陸艇の開発に努めた田尻氏は天才肌の市原技師の助力を得て、画期的な上陸艇などを作りました。その後、宇品は軍港としての設備を整え、田尻氏は「宇品の主」として周囲から慕われました。

 昭和12年、日中戦争が幕を開け、杭州湾上陸作戦をはじめとする上陸作戦が7回行われてすべて成功。アメリカなども高く評価しました。しかし、陸軍中枢では派閥抗争が激化しており、田尻氏の進言もなかなか採用されず、正当に評価もされませんでした。それでも、田尻氏は職務に邁進しました。

 昭和14年、田尻氏は当時としては異例の各省に向けた意見書を提出しました。その後、民間企業への顧問就任が打診され、それを2度保留すると、翌年、人事異動の時期を前に軍の倉庫で原因不明の火災が起こり、田尻氏は諭旨退職となりました。3か月後には市原技師も退職しました。直後、宇品に南進と対米戦の指令が下ります。

 後半は戦争前後の船舶事情が描かれていますが、宇品は中心ではなくなっていました。船舶の不足は深刻でした。開戦前、新造船数や損害船舶数などの見通しも立たないまま、はじめに開戦ありきで軍部は盲進します。開戦後は、ガダルカナルでの2度にわたる輸送船団の壊滅、その後に襲われた壮絶な飢餓では、徴用された船員たちが無残な死を遂げました。軍は愚かにもダンピール海峡で同じ轍を踏みます。輸送船がないために、物資が欠乏する中、南方や国内で物資が港に放置され朽ちていました。

 広島への原爆投下後、宇品の船舶司令官だった佐伯文郎氏は、被爆者の救出と復興支援に向けて動き出しました。そこには関東大震災の教訓と、戦没者を弔うことしかできなかった悔恨があったのでした。

 理不尽なウクライナとロシアとの戦争が行われている現在、無謀な戦争に突き進んだ歴史を改めて考えることは大きな意味を持ちます。武器を整えること、国連のような他者に頼ることは解決になりません。世界中の人々が、核兵器の恐ろしさを知り、歴史から学び、頑強なコンセンサスを得る道を考えるべきだと強く感じました。